第23話 海底への序章3
滑り込んだエレベーターの中は、驚くほど静かだった。
怒声も足音も、全ての音が断絶された箱の中。スノウは司令官を抱きかかえたまま、背中の壁に身を預けた。
ふわりと彼女の髪から偽りの黒が抜け、本来の輝きが戻っていく。変身の術が、彼女の憔悴と共に完全に解けたのだ。今、腕の中にいるのは「主任」ではない。恐怖に震える、一人の少女だった。
ふと、箱の中に青い光が丸く差し込んだ。
壁に開いた強化ガラスの窓の向こう側は、濃い群青の世界が広がっている。
降下するにつれて地上の光は失われ、わずかに届く残光が、狭い箱の中を不気味に、けれど美しく照らしている。壁に伸びる二人の影が深い青に溶けていくにつれ、重い沈黙がいっそう深まった。
「あの人が、あたしを産んだ人だったんだ……」
腕の中から漏れた声は、いつもと変わらない軽さを持っていた。けれど、その響きは水圧よりも重く、スノウの胸に突き刺さる。
主任という女は、少女の代理母であると同時に、彼女を実験台として見てきた研究者。
そこに親の愛はなく、あったのは冷徹な好奇心だけ──。
突きつけられたその絶望を、スノウは言葉で埋めることができなかった。
だから、何も言わず。
祈りを込めるように、腕の中の小さな身体をいっそう強く抱きしめた。
傷つかないでほしい。
その願いが、この身体から体温と共に彼女へ伝わることだけを願って。
二人を乗せたエレベーターは、深く、深く。光の届かない底へと、落ちていく──。
──どれくらい、抱き合っていただろう。時間が止まれば良いとさえ思った。
だがどうしても伝えたい思いが沸き上がり、その衝動に半ば操られるように、スノウは口を開いた。
「……司令官。返事はしなくても構いません」
スノウは、低く、穏やかに。しかし明確な声で囁いた。
「ユリスを助け出したら、俺はあなたを、必ずここから連れ出します。あなたがクローンたちを助けたいと願うなら、そのために俺の命を使いましょう。だが俺は、あなた自身を、この研究から解放したい」
スノウの手が、彼女の背中を、壊れそうな宝物を確かめるように強く抱きしめる。指先に触れるのは、術が解けて本来の柔らかさを取り戻した、彼女の琥珀色の髪だ。
「他の誰よりも、何よりも……俺は、あなたの方が大切だ!」
喉を焼くような熱を孕んだその一言は、以前からスノウの中にくすぶっていたものだった。だが、一度放たれると、熱い炎となって身体の中を埋め尽くした。それは副官という立場を完全に逸脱した、剥き出しの告白──。
一人の少女の自由を、そしてその微笑みを、誰の手にも渡したくないと願う──自分自身の、醜いまでに純粋なエゴイズム。
(……ああ、俺は、とっくにこの子に狂わされていたんだな)
自分の正気を疑いながらも、腕に込める力は緩められなかった。むしろ、彼女をこのまま自分の身体の中に隠してしまいたいとさえ思う。
腕の中で、彼女がびくりと身体を震わせた。
返る言葉はない。静止した時間の中で、スノウは自分の吐いた熱すぎる言葉を後悔しそうになっていた。自分の感情を押し付け、彼女をさらに追い詰めてしまったのではないか。
だが、その懸念を打ち消すように、彼女は震える手でスノウの胸を押し、ゆっくりと自分の身体を離した。青い残光が、彼女の顔を横から照らす。
「ねぇ、スノウ」
司令官が、ゆっくりと顔を上げる。琥珀色の瞳は、縁に赤みが差すほどに疲弊しきっていた。けれど、その奥底にある光だけは、水圧に押し潰されるどころか、今までになく鋭く、烈しく、スノウを射抜いていた。
「あたしが、主任によって造られたのだとしても、魔女の器だとしても、あたしがあたしであることは、誰にも否定できないよね?」
「はい、おっしゃる通りです」
「あたしにとってあたしは、誰かの目的を果たすための存在なんかじゃない」
その声の力強さが、スノウの耳に響く。
「ユリスも、可哀想な妹たちも、これ以上、誰かの目的のために苦しめられるのは、絶対に嫌!」
少女がスノウの服をぎゅっと掴んだ。
「あたしが全部終わらせる! 海底にあるものも、魔女のクローンも。もう誰も、犠牲にはさせない!」
スノウは何も言わなかった。
彼女の決意を覆すことも、否定することもなく、ただその小さな身体を、もう一度強く抱きしめた。
「……あなたが選んだ道なら、俺は最後まで、あなたと共にいきます」
──たとえその先に何があろうとも。
それは、副官としての報告でも、任務への回答でもない。
一人の男として、彼女の魂に捧げた、生涯で一度きりの誓いだった──。
◆◇◆
(どうしたもんかねぇ……)
カッコつけてはみたものの、正直あまり勝算ってヤツは無い。
サンダースは内心、脂汗をかいていた。
変装ならだれにも負ける気がしないんだけど、自分はスノウのように生粋の戦闘タイプじゃない。かたや相手のタロンは、見た目こそ研究員だが、実際は共軍の特殊部隊『スモーク』のリーダー格って話だ。ここで正面衝突なんかしちゃったら、やられるのは確実にこっちの方だろう。
幸い、敵はこちらの力量を図っているのか、懐に手を突っ込んだまま、まだ動いていない。さっきの余裕たっぷりの挑発が、案外効いているみたいだ。
だが、その体幹の安定性や、周囲の警戒を怠らない眼光。何よりこの状況の中、興奮するでも、焦るでもない無表情が、彼の優秀さを物語っている。主任と呼ばれる女などは、イライラと歯噛みした表情で地団太踏んでるっていうのに。
(こっからどうするかってのが一番の悩みどころなんだよな……)
なんにせよ、タロンが動きを見せた瞬間に、こちらもすぐに対応しなければならない。こういう人種を相手にする時ってのは、一瞬の反応の遅れが勝敗を分けるのだ。
サンダースは背筋を冷たい水が流れるような感覚に襲われ、足の裏がじっとりと汗ばんでいるのを感じた。
とにかくいまは時間を稼ごう。スノウたちが先に進むことができればそれでいい。
あとのことは考えるだけ無駄だ。というか、俺が考えたところで多分答えは出ない。
いくらスモーク隊員だって言ったって、まさかこんな閉鎖的な場所でドンパチはしないだろう。そもそも今は研究員に扮装しているわけだし、いきなり戦闘を始めたら、主任とか言う女に身元を疑われてしまう。
「何をしているの⁉ はやくあの子を捕まえて!」
主任の金切り声が廊下に響き渡った。
(おいおい、勘弁してくれよおばはん!)
このままではタロンが否が応でも動いちまう。できれば場の均衡を壊すことなく時間だけを稼ぎたいんだ。
サンダースは、冷や汗で顔をテカらせながらも、口元に無理やり笑みを張り付けた。
「いやあ、バレずに潜入できたと思ったんだけどな。まさかいきなり本人さんたちとご対面とはね。俺たちも運が悪いわ~。せっかく魔女の魔法で顔を変えてたのにさ~」
サンダースがそう言うと、不意に主任の口から笑みがこぼれた。
「フフフ……魔法? 実に陳腐な言葉ね。そんなものは存在しないわ。あなた、魔女がなんだかわかっているの?」
「へ? なにって、魔法が使える人のことだろ? だから魔女なんだろ?」
「魔女は魔法が使えるんじゃない。魔術を使うための道具なだけよ」
主任の口調には、自分の研究に対する自信のようなものが滲んでいる。
「道具? 道具ってクローンのことか?」
「残念ながら我々の作るクローンは魔女ではない。魔女になり得る器ではあるが、魔術を使う能力は、肉体だけでは発現しないことがわかっているのよ。鍵となるのは、意識の次元を超えた『高次データ』。古代の魔女の魂とも呼べる情報体よ。肉体は造れても、このデータそのものを未だ再現できない」
本当に残念そうに溜息を吐く主任。しかしサンダースは地頭が悪いせいか、言っていることの半分も理解できない。
(……マジでなに言っているか分かんねぇ)
高次データ?
情報体?
なんだよそれ。そんな話に俺の頭がついて行けるわけないじゃないか。
(まあ、時間を稼げればなんだっていいけどさ……)
「じゃあ誰が本当の魔女なんだよ。あのお姫さま? それともユリス・ハインロットってのが魔女なのか?」
サンダースが尋ねると、主任は怪訝そうに眉を寄せて答えた。
「ユリス──? ああ、総督が連れてきたあの男ね。まあ、彼ならもしかしてなり得るのかもしれないわ。試してみる価値はあるわね。ただ、ユリヤのクローンでも成しえなかったものを、双子と言うだけで代わりになるかと言われても、私は否、と言いたいわね」
主任の言葉に、タロンがわずかに反応したのが分かった。表情は一切変えなかったが、白衣の胸ポケットの中で拳を強く握りしめたように見えたのだ。
「まあ、総督にはオリジナル・ユリヤを見つけてきた功績もあるし、ここでも自由に研究させているから、試したいのなら好きにすればいいわ」
「なんだよそれ。どういうことだ? 総督はあんたらの親分じゃないのか?」
サンダースの言葉に、主任はカラカラと笑う。
「親分なんて言葉、実際に使うことなんてあるのね、フフフ……。あいにく、総督は途中からこの研究に首を突っ込んでいるだけなのよ。私からすれば、彼は真に理解していない。あの箱舟に、どれだけ素晴らしい技術が秘めているのかを──!」
「……ハコ、ブネ? 海の底には船があるのか?」
サンダースの問いかけに、今度は主任が目を丸くする番だった。
「あら、あなたたち、それが目的で来たんじゃないの? 箱舟の鍵を解除するために、あの子をここに連れてきたんでしょ?」
(箱舟? 鍵? そんなことスノウも姫さんも言ってなかったぞ?)
気付くと、タロンも険しい顔で主任を見つめている。こいつでさえ知らない話なのだ。
「──嫌だわ。つい無駄話をしてしまった。あなた、早く警備員を呼んできてあの子を捕まえてちょうだい。あそこのエレベーターは最下層にしか行かないから、逃げられないとは思うけど、施設内を壊されでもしたら大変だわ」
主任はタロンに向かって言った。ゆらりと、タロンが一歩前に出る。
さすがにこれ以上時間を稼ぐのは厳しいか。
サンダースは身構えた。ここは最終手段『勝てないとは思うけどとにかく戦ってみる作戦』だ。
ちょっと痛いかもだけど、ソールちゃんに褒めてもらえると思えば頑張れる気がする。
(スノウ~、あとでちゃんと俺の活躍、ソールちゃんに伝えてくれよ~)
構えて待っていたサンダースだったが、タロンは一向に動かなかった。何かを考え込んでいるのかうつむいたままだ。
「ちょっと、聞いてるの⁈」
主任が甲高い声を上げる。しかしやはりタロンは動かない。
「何しているのあなた──」
しびれを切らした主任がタロンの肩を掴んだ。
次の瞬間、タロンは素早く動いた。虫を払うかのように俊敏に、的確な動きで主任の腕を取ると、白衣のみぞおちにこぶしを撃ち込んだのだ。
「──うッ‼」
短いうめき声をあげ、主任の身体がだらりとタロンにしなだれる。一切の容赦がない、冷酷な一撃だった。主任が崩れ落ちる音だけが、キンと張り詰めた廊下の中で響いた。
「え? え?」
サンダースの口から、間の抜けた声が漏れる。何が起きたのか、頭の処理が追いつかない。タロンの動きが、あまりにも突然で、あまりにもプロのそれだったからだ。
サンダースが困惑していると、タロンは主任の身体を静かに床に横たえてから顔を上げた。その顔は、今までの研究員のものとは全く違う眼光をしている。その目で主任を冷たく見下ろしながら立ち上がると、タロンは不意にこちらに向き直って口を開いた。
「お前、これからどうする?」
突然の問いに、サンダースの反応が遅れた。タロンは無造作に白衣を脱ぎ捨てると、それを床に転がった主任の顔に放り投げた。まるで、これまでの「研究員ごっこ」は終わりだと宣言するような仕草にサンダースが唖然としていると、タロンはさらに続ける。
「ジール総督はユリス・ハインロットと共に最下層にいる。俺はこれから総督の元に向かうが、お前はどうするんだ?」
「ど、どうって……」
どうするって、正直それはこっちが聞きたい。
その女が上司だったのかどうかは知らないが、命令を無視して昏倒させたりして、こいつは一体どうするつもりなんだ。
「別にここにいてもいいが、その姿のままじゃエレベーターを降りてきた人間にじきに通報されるぞ」
「──い、行くよ俺も!」
サンダースは反射的にそう答えた。混乱していたが、懸命に頭を働かせ、タロンの発した言葉の中に『総督』と『ハインロット』というワードを拾い出す。すでに歩き出していたタロンはフンと鼻を鳴らすと、背中を向けたまま問いかけてきた。
「お前、ツルギの仲間なんだろう? 名前は?」
「は? 名前? ……サンダースだけど」
「サンダース? それ、コードネームか?」
タロンが足を止め、わずかに肩越しに振り返った。
「そうだけど。文句あんのか?」
「……いや、別に」
「なんだよその間は! 言いたいことあんだったらハッキリ言えよ!」
「……」
「おい!」
返事をしないタロンに、サンダースは苛立ちを募らせた。だが、タロンはそのまま一言もしゃべらずに背中を向けると、スノウたちが向かったエレベーターの方へと歩き出す。
「おい待てよ! ユリス・ハインロットがこの下にいるのは確かなんだろうな!」
タロンは答えない。
「総督は下で何をやってるんだ? つーかそもそも海底には何があるんだ?」
やはり答えない。
話しかけても無視されることは、スノウで慣れているサンダースだったが、ほぼ初対面のこいつにこの状況で無視され続けるのは、なかなか穏やかではいられない。
タロンの背中からは、もはや研究員としての虚ろな気配は消えていた。今は、冷たい鉄の廊下に、張り詰めた使命感だけがカツカツと奴の足音となって響いている。
(なんだよ、コイツ……マジで何がしたいんだよ)
二人の足音が、冷たい鉄の廊下に重なる。
遠くに見えるエレベーターから無機質な光が漏れているのが見えた。その光に、得体の知れない不安と焦燥を抱きながら、サンダースはタロンの後を追った。




