第22話 海底への序章2
「え、っと……」
司令官の、言葉に詰まったわずかな一瞬が、永遠のように感じられる。
(まずいな……)
おそらくタロンたちは、一度ここを通っている。つまり今この状況は、外に出ていないはずのタロンたちが、もう一度ゲートを通過していることになるのだ。ちょっとした違和感をきっかけに、そのことに気付かれてしまっては一巻の終わりだ。
スノウは反射的に動いた。司令官と係員の間に入るように前に出ると、わざとらしく大げさなため息を吐き出す。
「またですか主任? まったく、主任は一つのことに集中すると、他のことがおろそかになるんですから──」
スノウは祈るような思いで司令官の顔色をうかがう。
「──あ、ああ眼帯ね。嫌だわ。どこに行ってしまったのかしら」
「きっと食堂でしょう。僕が取りに行ってきましょうか?」
少女の琥珀の瞳は、今は黒い瞳に変わっている。その瞳が、わずかに揺れた。
「……い、いいのよ。研究室に替えがあるわ。いやね。食事があんまり楽しかったから忘れてしまったみたい」
苦笑いを浮かべる司令官。
係員は、突然会話に割り込んできたスノウに少し驚いたようだったが、すぐに表情を戻した。
「おや、トウガ主任にもそんな一面があるなんて意外ですね。いつも完璧でいらっしゃるのに」
「あら、私だって人間よ?」
「ハハッ、重々承知しております。ただ我々も、眼帯を含めたお顔を記憶しておりますので、今後も眼帯なしでお過ごしのようなら、あなたのお顔を覚えなおさなくてはなりません。できれば顔写真を登録し直していただきたいのですが」
「ええ、そうね。担当に言っておくわ」
「恐れ入ります。それにしても、右目はお怪我をしていると聞いておりましたが、きれいに治っていたのですね」
「そ、そうなの。あとが残らなくてよかったわ。もういい?」
「はい、お引止めして申し訳ありません」
係員が頭を下げて謝罪する。主任の顔をした司令官は、静かに、そしてゆっくりと視線を係員からエレベーターへと向けた。サンダースがその後ろを無言で付いていく。
最後尾のスノウは、涼しい顔とは裏腹に、内心で激情にも似た舌打ちを漏らした。
司令官が係員の言葉に気を取られ、振り返ったあの瞬間、彼女の背後で、サンダースは少しだけ表情を緩ませ、自分はわずかに視線を動かしてしまった。ほんの一瞬の、致命的な綻び。
見慣れない顔を即座に特定するほどの記憶力を持っている係員たちなら、意識すれば見抜かれていたかもしれない。冷たい恐怖が、スノウの背筋を這い上がった。
海底から上がってきたエレベーターの扉が開いた。中には誰も乗っていない。3人が中に乗り込むと、スノウは開閉ボタンを押した。
エレベーターの自動扉が閉まる音は、まるで外界との繋がりを断ち切る合図のようだった。安堵と疲労が入り混じった空気が、三人を包み込む。
「こ、怖かった〜〜〜」
主任の顔のままの司令官は、張り詰めた糸が切れたかのように力が抜け、へなへなと壁にもたれかかった。彼女の安堵の声に、サンダースも「ったく、ヒヤヒヤしちまったぜ〜」と苦笑する。スノウもタロンの姿のまま、静かにエレベーターの壁にもたれかかった。
何とかやり過ごせたようだ。だが安心ばかりもしていられない。ここから先、海底に何があるのか、まだ何もわからない。その中を、ジールを追いかけ、ユリスを救出しなければならないのだ。
微かに駆動音を響かせ、エレベーターはゆっくりと降下を開始した。天井のライトが消え、暗闇が三人を取り囲むと、次の瞬間、側面にある強化ガラスの窓から、青い光が差し込んできた。その光に照らされ、海中を漂う微細な光の粒子が、まるで星屑のように窓の外を流れていく。地上では見ることのできない、静かで幻想的な光景だった。
「これからどうする? 変身の術、解く?」
司令官が言った。青い光に照らされて、主任の顔の血色の悪さがさらに際立つ。唇など紫色だ。
「変身はまだ解かない方がいいでしょう。この先、何があるかわからない。もしかしたら、エレベーターを降りた先にジールがいるかもしれない」
そう言うと、司令官は不安げな表情のまま、スノウをじっと見つめ返してきた。
「……もしかして、本物のタロンがいたりしないよね?」
その言葉に、サンダースがヒヤリとしたように息をのんだ。スノウは一瞬の沈黙の後、静かに答える。
「その時は、その時だ」
やがて駆動音が止み、エレベーターがふっと静止した。ポーンッという軽い電子音がして扉がゆっくり開くと、冷たい空気が顔を撫でた。
そこは、上の階とは全く異なる世界だった。
廊下は薄暗く、天井の非常灯だけが不気味に白く点灯している。幸いジールやタロンはいなかった。いや、それどころか、周りに人の気配がまったく感じられない。
スノウは周囲に目を凝らした。もともとこの海底ラボは、ごく限られた人間しか出入りを許されない。地上階のような厳重な警備兵や、行き交う研究員の姿がないのは当然だった。だが、その静けさが、スノウの警戒心をかえって強めた。
耳を澄ますが、聞こえるのは自分たちの足音と、遠くでかすかに響く機械音だけだ。その音は、まるでこの場所のあらゆる生活音を、意図的に吸い取ってしまったかのようだった。
「静かすぎて不気味だな……」
サンダースが小声で呟いた。普段の様子からは想像できないほど低く、喉の奥で詰まったような声だ。
「ジールはまだそう遠くには行っていないはずだ。警戒しながら探すぞ」
スノウはそう言って、先頭に立って歩き始めた。エレベーターから伸びる廊下は一本道で、曲がり角を過ぎると、遠くに別のエレベーターホールが見える。
そのホールは薄暗く、誰もいないように見えた。スノウは一瞬、警戒を緩めかけたが、すぐに背筋を正す。静寂の中、かすかに響く規則的な足音が、闇の奥から聞こえてくる。
「え、なに? 誰か来る!」
司令官がスノウの腕にしがみつきながら緊張したように言った。
「司令官、我々はいま変身しています。不審に思われないようできるだけ自然に振舞ってください」
「わ、分かった。まかせて!」
少女がスノウから離れ、つんっと顎を上げて前を見る。主任と呼ばれる人物の真似をしているらしい。スノウは警戒しながらも、身構えることなく静かにその場に立った。
足音が次第に大きくなる。どうやらそれは二人分のようだ。そして、足音の主が角を曲がって現れた。
それは、白衣を着た二人組だった。一人は背の高い男、もう一人は女性だ。男の方を見て、スノウは唇をかんだ。
「タロン──!」
それは、今自分が変身している顔だったのだ。
まさか本当に本人に遭遇してしまうとは運が悪い。
更にもう一人──。
「あら、こんなことってあるのね」
タロンと一緒に現れた女性が口を開いた。
「まるで鏡を見ているようだわ」
黒髪を頭の後ろでまとめ、面白そうに黒い目を細める。
血色の悪い頬に赤い唇。
右目には、少々異質な黒い眼帯──
「……主任──!」
司令官が茫然と呟いた。
現れた人物は、司令官が変身している女性。その本物だったのだ。
「お前たちは誰だ⁉」
タロンは、自分と全く同じ顔をしたスノウを見て、驚きに目を見開いた。その顔はすぐに警戒の色へと変わり、白衣の下に手を入れている。武器を隠しているのだ。
スノウは司令官の前に出ると、背中で少女をかばった。
まさかいきなり本人たちに出くわしてしまうとは。ここは戦闘を避けられないか──。
だが、次に響き渡った一言で、その場は凍り付いた。
「素晴らしいわ! 私の最高傑作!」
声の主は主任だった。
その不気味な声に、スノウたちは固まった。彼女の視線は、司令官に向けられている。
「最高、傑作……?」
スノウの背後から、少女が訝しげに繰り返した。彼女の息遣いには、恐怖に混じって、抗い難い好奇心が張り付いている。
「さすがは正しい魔女のクローン。自らだけでなく、他の人間の姿まで変えられるのね……!」
主任は、まるで珍しい標本を前にした学者のように、感嘆の声を上げた。その声は、研究者特有の冷たい好奇心に満ちている。
「……いいえ、違うわね。変わっているのは物質ではなく、脳の方かしら……」
そう言いながら腕を組み、主任がわずかにうつむいた。
おそらくこの女は、スノウたちを人間として見てはいない。ただ、解明すべき事象として、冷徹に観察しているのだ。女のその独り言のような呟きは、外界の音など全く聞こえていないかのように続いた。
「我々の脳を騙しているんだわ。自分以外を変えるなら、その方が効率的。ふふふ、興味深い。他のクローンにはない能力だわ」
主任の声は冷たい観察記録のように響いた。その瞳には人間的な感情はなく、ただ無機質な光だけが宿っている。スノウには、この女が冷たい実験装置そのものに見えた。
「──でも、惜しいわね……」
女の口元に、冷たい笑みがわずかに浮かぶ。
「今の私の正確な姿は、コピーできていないようだ……!」
そう言うと、主任は自らの眼帯を掴み、握りつぶすように引きちぎった。
あらわになったのは、右目の上を横切るように残された、細い線状の傷──。
三本の爪で肉を裂いたかのような、不揃いで鋭い痕だった。その奥の眼球は光を失い、曇ったガラス玉のように淀んでいる。
スノウは、その傷跡を見た司令官の顔に、はっとした表情が浮かぶのを見逃さなかった。彼女は息を呑み、金縛りにあったように動けなくなっている。
「そ、の……傷は……?」
「どうしたの? 怖がることはないわ。これは、あなたが私に残してくれた、大切な愛の証よ」
女は、傷跡に触れながら、まるで壊れた人形をあやす母のように微笑んだ。その歪んだ笑みには、狂気と、そして奇妙な愛情が入り混じっているように見えた。
「愛……?」
「あなたを片時も忘れたことは無かったわ。だってあなたは、私がお腹を痛めて産んだ子なんだもの」
──産んだ、子?
スノウは今更ながら思い出した。主任の顔は、かつて一度だけ写真で見た、司令官の両親とされる科学者夫婦と同じだったのだ。
(こいつが司令官の生みの親──!)
その事実は、司令官にも衝撃をもたらした。
主任のその言葉を境に、彼女の身体を覆っていた術がぐにゃりと歪んだからだ。
皮膚が蝋のように垂れ落ち、黒い髪が滲むように薄い色へと変わっていく。変身が維持できなくなったのだ。
「ようやく、本当の姿を見せてくれたわね。私の大切な子」
「……違う。あたしに母親なんていない」
司令官の声は震えながらも、強い否定をはらんでいる。
「……そうね。確かに私は、あなたの一般的な意味での『母親』ではないかもしれない。でも、あなたは紛れもなく、私がこの世に生み出した。その為に肉体という代償も支払っている。でも契約により、どうしても手放さなければならなかった」
主任は、哀れむように司令官を見つめながら、一歩ずつ間合いを詰めた。
「まあいいわ。そんな事はどうでも。こうして今、あなたは私の目の前に戻ってきたんだから。まるで運命ね。さあ、もう一度、あなたを研究させてちょうだい……」
司令官は一歩、また一歩と後ずさる。その瞳に映る主任の姿が、かつて自分を追い詰めた「化け物」と重なって見えたようだった。全身から血の気が失せ、唇がかすかに震えている。今にもその場に崩れ落ちそうな危うい姿──。
この脆く、壊れてしまいそうな彼女を、この女の狂気から守らなければ。
そう思った瞬間、スノウの身体は無意識に動いた。
少女の視界を遮るように、小さな頭を抱き寄せる。
「司令官、落ち着いてください。あの女の言葉に耳を貸しては駄目だ!」
司令官がスノウの腕の中でビクリと全身を震わせた。その身体は鉛のように重く、自力で立つ力を完全に失っている。見開かれた琥珀の瞳が、混乱と恐怖を湛えてスノウを見上げた。
その瞳を見た瞬間、スノウの身体は熱くなった。
彼女は全身で訴えていたのだ。
私をここから連れ出して、と──
「スノウ! 姫さんを連れて行け!」
突然、サンダースが叫んだ。スノウと司令官を押しのけ、タロンと主任を真っ向から睨みつける。一瞬だけこちらを一瞥し、ニヤリと笑う。
「この男とは俺が遊んどくからよ!」
サンダースのその一瞥に込められた覚悟を、スノウは瞬時に受け取って叫んだ。
「走れ!」
叫ぶと同時に司令官の腕を掴んで駆け出す。背後で、タロンの怒声とサンダースの挑発がぶつかり合った。
「待て──!」
「おっと! ここを通りたきゃ、俺を殺してからにしな!」
スノウが背中で感じたのは、二人の間で生まれた、張り詰めた刃のような空気──。
それらを置き去りにし、スノウは少女を半ば引きずるようにして闇の中へと駆け込んだ。




