第20話 虚構の舞台2
「なんだあれは──⁉」
会議室は騒然とした。目の前のモニターに映し出された状況を、誰一人、理解できなかったのだ。
画面いっぱいに広がるのは、たしかに船影だった。だが、予想していたような威圧的な鋼鉄の軍艦などではない。
偵察艇のカメラが捉えたのは、太陽を反射してきらめく、真新しい木造の船体だった。白、青、そして船底の赤。いくつもの船体が、潮風に揺られて波間に浮かんでいる。それがありふれた漁船の群れであることは、誰の目にも明らかだった。
会議室の重苦しい静寂が、理解不能なざわめきに変わっていく。
「これは、本当に帝国軍の艦隊なのか⁉」
「しかし、あれはまるで……民間の漁船……?」
誰かの言葉に、議場は一層ざわめいた。皆、一様に自分たちの目が信じられないといった様子でモニターを凝視する。ざわめきは、次第に疑問符と苛立ちを含んだ囁きへと変わり、その視線はモニターからジール総督へと向けられ始めていた。
リチャードは、議場の空気が、総督の意図とは異なる方向へと傾き始めたことを肌で感じた。
『──……ヤ…ギ少尉、これは一体どう…ことでしょうか』
その時、モニターからわずかなエコーを伴って、遠くから聞こえるような人の声が響き渡った。現場の偵察艇内部のマイクが拾った音声だろう。
『どう見ても軍艦ではなさそうですが、あの船の目的はなんなのでしょうか……』
『お、俺が知るわけないだろ‼ 今は上からの指示待ちだ‼ いいから黙って監視を続けろ‼』
聞こえてくる兵士たちの声は混乱していた。その当惑と動揺は、会議室側の面々にも共通するものだ。先ほどまでの喧騒は消え失せ、議場は声一つ聞こえないほどに静まり返る。議員たちは皆、信じられないものを見るように、茫然とモニター画面を見つめていた。
そして次の瞬間、その信じられない光景は、さらなる混乱を巻き起こした。
映像の中で、無数に散開していた漁船の一つ、また一つと、船のマストにカラフルな旗が掲げられていく。それは、共和国では「大漁旗」と呼ばれる、豊漁を祝うための鮮やかな旗だった。色とりどりの旗が潮風にはためき、まるで海上に咲いた花畑のようだ。
さらに、いくつかの船からは、威勢の良い掛け声や、陽気な音楽、そして笑い声が聞こえてくる。船の上では、大勢の男たちが酒瓶を掲げ、皿を叩いて歌っているようだった。彼らは皆満面の笑みを浮かべ、警戒心など微塵も感じられない。
「な、なんだこれは? 船内で宴会でもしているのか?」
「侵略の準備という話ではなかったか⁉」
「総督! 一体どういうことか説明してもらおうじゃないか‼」
沈黙を破り、会議室は再び騒然となった。先ほどまでのジール総督の支配は完全に消え失せ、今度は怒涛の勢いで疑問と糾弾の声が総督に集中した。
リチャードは、ふと隣のフィフィリーを見やった。
彼はモニターの光景に呆然としながらも、その顔色には若干の明るさが戻っている。
「リチャード……、ツルギが君に伝えたという“切り札”って、これのことなのか?」
「ああ、おそらくそうだろう」
「は、ははッ……、まったく、何をやっているんだよ、あの子は……!」
フィフィリーのかすれた笑い声に、リチャードもわずかに口元を緩めた。胸の奥に広がっていた、凍てついたような焦燥感が、ゆっくりと溶けていくのを感じる。
まさに奇策。
自らの完璧なシナリオと、イルムガード軍の権威に酔いしれていたジール総督の、その自信そのものを逆手に取った見事な一手。
リチャードは、自分の浅はかさを恥じた。自分はツルギのことを、戦場の知識を持たない無鉄砲な子供だと思っていた。しかし本当の彼女は、軍の常識を遥かに超えた、独創的な戦略を立てる鬼才なのかもしれない。
モニターに大写しにされたジール総督の表情が、はっきりと歪むのが見えた。いつもの冷徹な仮面が剥がれ落ち、隠しきれないいらだちが滲んでいる。
「マクシミリアン総督!」
一人の老齢の議員が、怒りに頬を紅潮させて立ち上がった。
「この光景は、一体どういうことか⁉ あなたは我々に、帝国軍の大規模な侵略準備であると喧伝し、そのために全権掌握などという暴挙に出ようとした! だが、これはどう見ても、侵略などではない! ただの、漁民たちの宴会ではないか──‼」
『黙りなさい!』
ジール総督の声が、モニター越しに荒々しく響き渡った。彼の顔には、焦りの色が一層濃く浮かんでいる。
『これは、まだ判断できる状況ではない! 一見して漁船に見えるかもしれんが、それも敵の偽装工作である可能性がある──』
「偽装? あの大漁旗を掲げた酔っ払いどもが、帝国軍の兵士だとでも言うのですかな?」
老齢の議員は引き下がらない。
それに賛同するように、別の議員が叫んだ。
「こんな茶番を見せるために我々を招集したとでも⁉ 総督! あなたは、自らの地位と権力を手に入れるために、我々を欺こうというのではないか⁉」
そうだそうだと、次々に議員たちが立ち上がり、モニターのジール総督に詰め寄る。その勢いは、先ほどジール総督が怒声で黙らせた時とは比べ物にならなかった。
ジール総督は、怒りともつかない表情で口元をきつく引き結んだ。明らかな焦燥が頬を痙攣させる。微かにこぼれる唸り声が、必死に反論の言葉を探しているようだった。
不意に会議室に設置されたスピーカーから、波の音に混じって、新たな音声が響き渡った。
『──ヤナギ少尉。もっと漁船に近付いて、彼らに接触を図りましょう!』
それは先ほどの声とは異なる、女性の声だった。
『接触⁉ 何言ってるんだお前⁉』
『でも、何かしら確認はしないと、このままでは司令官に報告できませんよ?』
『ぐっ……!』
『あ、この拡声器、使わせてもらいますね』
『お、おい、ちょっと待て、何を勝手なことしているんだ! そんなことをすれば──‼』
『大丈夫です! 私、こう見えて下積み時代に号令の練習を死ぬほどしてきましたので、声の大きさには自信があります! 』
『そんなことは一ミリも言っていなーい‼』
偵察艇の乗員らしき男の声の制止を振り切るように、女性の声が続いた。映像には、偵察艇が漁船の一つに接近していく様子が映し出されている。漁船から陽気な歌声がさらに大きく聞こえ、偵察艇の甲板には、先ほどの声の主と思われる女性の人影が見えた。
「な、なんだ、どうなっているんだ?」
「偵察艇の乗員が漁船に向かって何か言っているんだろう」
「総督、総督‼ 事態の説明を求めます──‼」
議場はさらに混迷を極めた。モニターの異常な事態に対する戸惑いの声と、ジール総督を糾弾する声が入り混じる。
『すいませーん! イルムガード共和国軍・偵察艇ガンデルク1です! そちらの船の方ー、ちょっとお話させてもらってもいいですかー?』
『だから待てと言ってるだろ‼ 命令違反だぞ──‼』
女性と思われる兵士が、拡声器を通して喋る音声が聞こえた。指揮官らしき男性が必死に止めている音声も後ろの方で聞こえる。
モニターの視界の先には、近付いてくる漁船が見えた。その舳先に立った人物がこちらに向かって手を振っている。
近付いてくると、それは白髪に褐色の肌をした老年の男だった。体つきはがっしりとしていて、ひげを生やし、左目の下から右頬にかけて大きく刻まれた傷が、漁民にしてはただならぬ雰囲気を醸し出している。
だが、いかつい顔に精いっぱいの笑顔を浮かべている様は、その人物に敵意が無いように見えた。
『おじいさんはアルフ・アーウの人ですかー? こんなところで、何をしているんですかー?』
『これは珍しい。軍人さんがこのような場所までいらっしゃるとは。この船は、新しい指導者様の誕生を祝うためのものでして。ようやくこの国から悪しき者が去り、皆が安堵しているのです』
小柄な女性兵士の人懐っこい声と、いかついわりに礼儀正しいその老人の穏やかな声。その素朴なやり取りが、騒然とする議場の混乱を鎮めるかのように響いた。皆がモニター内の状況に釘付けになる。
『新しい指導者様? それって誰のことですか?』
『新国王、ジェラルド・イルーク様のことです。先代の国王陛下はずっとご病気でいらっしゃった。その隙につけこんで、悪しき宰相がイルムガード共和国と手を組み、はかりごとを企てていたとここに書いてあるのです!』
いかつい顔の老人が、手に持った紙の束を頭の位置に掲げている。どうやら新聞のようだ。
『イルムガード? え、うち? 手を組んでたってどういうことですか?』
『なんと、そちらでは話題になっていないのですかな? 新聞にはこう書いてありますぞ』
老人は声を張り上げ、手に持つ紙をカメラに向かって掲げた。モニターには、その見出しが鮮明に映し出される。
『“宰相ベラード伯爵、イルムガード共和国軍、ジール・マクシミリアン総督と共謀し、虚構の戦争を演出”!!』
老人の言葉が会議室に響き渡った瞬間、議場を支配していた空気は一変した。それは、もはや単なる混乱ではない。裏切りへの激しい怒りが、地鳴りのように静寂を打ち破ったのだ。
「な、なんだと……⁉」
「ジール総督が……帝国と結託していた⁉」
「まさか、これが……総督の真の狙いだったのか⁉」
「総督、説明しろ‼ 今すぐに‼ あの新聞の内容は一体どういうことだ‼」
次々と議員たちが立ち上がり、怒りの矛先をモニターの中のジール総督に集中させた。先ほどまで抱いていただろう恐怖は、完全に消え失せている。代わりに彼らの目にあるのは、自国の未来を弄ばれたことへの深い憤りと、総督への明確な軽蔑だった。
完璧なシナリオと言う名の砂上の城が崩れていく。
まるでその崩れる音を聞いたかのように、ジール総督の顔が歪んでいくのを、リチャードははっきりと見た。
『黙れ! 黙りなさい、貴様ら!!』
ジール総督は、もはや平静を保っていなかった。表情はゆがみ、冷や汗が額に滲んでいる。引きつった口元には反論とも呼べない無力な言葉が漏れ出し、それ以外はただ呆然とモニターを見つめる。
彼の舞台は、まさに今、目の前で、あまりにも間抜けな形で崩壊しつつあった。
「総督は我々を騙し、このイルムガード共和国を、自らの野心のために帝国との戦争に巻き込もうとしている!」
「全権掌握などという暴挙に出たのは、他国を侵略するためではなく、自らの私腹を肥やすためだったのだ!」
「これは国家に対する反逆行為だ! 我々はとんでもない危険に晒されるところだった!」
議場は怒号と糾弾の声で完全に混乱を極めていた。議員たちは席を蹴り、立ち上がり、互いに議論を交わしたり、あるいはジール総督が映っていたモニターを指差したりしている。誰もが、今この瞬間の怒りと、目の前の不可解な事態にどう対処すべきか、困惑を隠せないでいる。もはや誰も、総督の言葉に耳を傾けようとはしない。
『お、おのれえええええ……!』
モニター越しに響いたのは、冷徹な仮面を剥ぎ取られた男の、むき出しの絶望と怒りの声だった。その直後、ジール総督の支配が終わりを告げたかのように、ぶつりと映像が途絶え、会議室のモニターは真っ暗な画面に切り替わった。
「リチャード、総督が回線を切った‼ 逃亡するつもりだ!!」
フィフィリーが焦ったようにモニターを指差す。リチャードはそんな彼に向き直ると、決意を固めた声音で言った。
「フィフィリー、海上研究所に向かうぞ‼ 最も速い航空機を出せるか⁉」
迷いはない。ユリスを人質に取られ、何もできなかったあの時の無力感は、もうない。今は、動かなければならない時だ。
「ええ⁉ 今からか⁉」
「総督が逃亡するなら、ユリスを連れて行く可能性が高い。今ごろ総督は、ユリスのもとに向かっているはずだ!!」
「しかし、だとしたら、今から向かったところで間に合わないだろう!!」
フィフィリーは青ざめ、そう叫んだ。
彼の言う通り、ジール総督がすでに逃亡準備に入っているとしたら、航空機を準備する時間も、海上研究所まで移動する時間も、致命的な遅れとなる。
リチャードはぎりっと奥歯を強く噛みしめた。
ジール総督は、間違いなくユリスを伴って姿を消すだろう。早く救出しなければ、決して手の届かない場所へ連れて行かれてしまう。
もう一度、あたりを見渡す。怒号が飛び交う議場は、もはや機能していなかった。今ここで、軍を動かすための正式な手続きを踏むことは、ユリスを見捨てるに等しい。一刻の猶予もない。
「ツルギたちに連絡しよう。あの子たちに、何としてでもジール総督を捕らえるように伝えるんだ……!!」
リチャードは、通信端末を固く握りしめた。
ユリスを救い出す最後のチャンスが、今、この手の中にあった。




