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第1話 侵入者たち

 夕日がゆっくりと街角を橙色に染め上げ、昼の喧騒を柔らかな光で包み込む。

 涼やかな風の中、静かに姿を現した黒いセダンは、石畳の道を滑るように進んでいった。

 その光沢のある漆黒のボディーは、まるで一日の終わりを待ちわびたかのように、夕日を跳ね返している。


 資料に目を落としていたリチャードは、ふと顔を上げて車窓から外を眺めた。

 先ほどまであった街の喧騒はいつの間にか姿を消し、緩やかな上り坂を上がりきるころには、静寂に包まれた住宅街があたりに広がっていた。

 坂を登った先の高台からは、街が描くパノラマが一望できる。リチャードが深く背を預けた車の中からでも、家々の屋根が遠くまで続いているのが見えた。


 確かに、その光景は彼の目に映っていた。しかし、それは心に何も感慨を呼び起こすことなく、ただ頭の中を過ぎ去っていく。

 今、脳裏に浮かぶのは、宝石のような輝きを放つ、あの琥珀色の瞳だけだ——。







「なんだって?」

「だから~、僕たちそんなに怒られるようなことしたのかなって思ってさ……」


 なんの悪びれもせず、目の前の男はため息交じりに言葉を繰り返した。

 寒々しい男子トイレの真ん中で、デッキブラシを気だるげに構えた優男。

 同期入隊のルームメイト。ユリス・ハインロットという男だ。


 この男は何を言っているのだろう。

 いったい誰のせいでこんなことになったと思っているんだ。


 怒りを抑えつつ、リチャードは深呼吸をして、手にしたブラシで便器を擦り続けた。


「命令違反をしたのは事実だろう。決められた行動ができない人間は、共和国軍には必要ない」

「あの時はあれが最善だと思ったんだよ。リッチーだってそうだろう?」

「最善かどうかは別として、俺は賛成した覚えはない」


 むうっと口の先を尖らせてユリスは不満を訴えている。

 その顔は、恋人に向かっていたずらに拗ねた少女のような、無邪気なふくれっ面を思わせた。


 この男は、なぜこんなにも人を惑わす魅力を持っているのだろうか。



 基地内でのユリスの人気は、もはやアイドルか、それ以上のものになっていた。


 彼はその端正な顔立ちと、旧伯爵家という出自を裏付ける優雅な立ち居振る舞いで、入隊してすぐに皆の注目を集めた。

 彼のその繊細な美しさは、どこにいても人々の目を引く。彼の一挙手一投足には、常に周囲から尊敬と羨望のため息が漏れた。


 しかしそんな彼の日々が平穏無事なだけではないことを、リチャードは知っている──。


 軍隊という閉鎖的な環境は、時に彼にとって危険な場所となる。

 鬱屈した気持ちを抱える兵士たちが集まる場所で、ユリスが上官から不適切な誘いを受けることはしばしばあった。

 そんな時は、いつもリチャードが彼を守った。

 入隊以来の同期であり、同じ部屋を共有するリチャードは、ユリスの外見の魅力には初めの数日で慣れた。容姿が人より整っているというだけで、彼の内面はいたって普通の青年だ。

 ほとんどの時間を一緒に過ごし、ユリスの魅力にあてられ群がってくる輩をけん制する。そんなことをしているうちに、今ではユリスの守り神だなんて二つ名で呼ばれる始末。

 それはリチャードにとって不本意なことではあった。だが、だからといって自分がその役割を降りてしまったら、彼はどうなってしまうのか。それが怖くて現状を変えられないでいた。




「なんだよ、ちょっと道順を変えただけじゃないか」

「そのちょっとが問題なんだ」

「どこが? 到着時間には間に合ったんだからいいだろう? 予定の経路で進んでいたら、三十分は遅れてた。むしろ褒めて欲しいくらいだよ。今までの経路よりも早く到着できる新ルートを、僕は発見したんだから!」

「そもそもお前が集合に遅れさえしなければ、そんなルートはじめから必要なかった」

「そりゃあ、まあ。確かにそうだけどさ……」


 急に歯切れが悪くなったユリスの声を背中で聞きながら、リチャードは黙々と手を動かす。


「本当に、ちょっと休憩するだけのつもりだったんだよ。でもいつの間にか寝てしまって。仕方ないじゃないか。人間誰だって、眠気には逆らえないだろう?」

「だったら、それに対するペナルティも仕方ないものとして受けるんだな。別に、ジール中隊長だって、これくらいでお前が劇的に真面目になることなんか期待してない」

「なにそれひどい」

「酷いはこっちのセリフだ。俺にとってはとんだとばっちりなんだからな」


 リチャードがそう言ってじろりと睨むと、ユリスは軽口を飲み込み、急にしおらしくなった。


「ごめん。それについては反省してるんだ。でもね、僕は正直良かったと思っているんだよ」


 リチャードは掃除の手を止め、意外なことを言い出した同期を振り返る。

 この状況のどこが良かったと言うのか。


「君と一緒なら、なんとかなるだろう?」


 ユリスのその返答に、リチャードは途端に不機嫌になった。再び便器に向かい合い、先ほどよりも乱暴に手を動かす。


「どうせ俺はお前の守り神だよ」


 その不本意な二つ名は、時として『守り』神ではなく『お守』役になることだって、十分自覚している。


「はははっ、ごめん、そんなつもりじゃないんだ。君には感謝しているんだよ。本当に……、感謝しても、しきれないくらいに……」


 ユリスの言葉は次第に暗い色合いを帯びていった。様子の変化にリチャードが目を見張ると、彼は弱々しい笑みを作って口を開いた。


「だめだな僕は。いつも君に助けられてばかりで……」


 そう呟いたユリスの伏せ気味の瞳は少し潤んで、瞬きの度に縁取ったまつ毛のあいだから見え隠れする。

 不真面目な態度をいくら咎めても、いつもなら悪びれもしないくせに、急にどうしたというのだろう。


「ユリス……?」


 普段の冗談めかした振る舞いからかけ離れた言動に、リチャードは尋ねた。


「迷惑ばかりかけてごめんよ。だけど僕は、君の優しさや勤勉さに、いつも救われているんだ」


 ユリスはデッキブラシを携えたまま、自らの足先に視線を落とす。その瞳は、遠い何かを捉えようとしていた


「君がいなかったら、僕は、ここで生きていくことなんて、できなかっただろうから……」



 リチャードは一瞬、声を失った。

 ユリスの言葉が意味する重みは、理解しているつもりだ。今までの軍隊生活で、意にそぐわないことは数えきれないほどあっただろう。容姿ばかり注目され、誰も内面を見てくれない。彼自身は周りの人間と何も変わらないのに、稀有な目で遠巻きにされる日々。

 それがどれほど彼の心を凍て付かせていったのだろう。


 そんなユリスに、自分は何ができるのだろう。



「……別に、大したことはしていない。俺はただ、お前のそばにいただけだ」


 リチャードはぶっきらぼうに返答した。

 その言葉を聞いて、ユリスがほんのわずかに息を漏らす。


「うん。でもね、それが僕にとっては大きなことなんだ。君がそばにいてくれる。それだけで、僕は強くなれた気がするんだよ」


 背中をくすぐられるような、いたたまれない感覚がする。

 背を向けていても、ユリスがにこにこと笑みを浮かべている気配がして、更に気恥ずかしくなった。


 本当に、特別なことをしているつもりはなかった。

 ただ、ユリスという人間を傷つけたくない。心無い言葉で傷ついてほしくない。


 そう思っているだけだ──。



「ありがとう、リッチー。君は僕の憧れだ。だから僕は、君を大切にしたいと思う。君は、僕が持っていないものを、たくさん持ってるんだよ……」



 ユリスの生まれながらの魅力にも、自分は惑わされないという自信があった。

 不真面目で、破天荒で、上官からの命令だって何とも思っていない。

 それよりなにより、こいつは男だ。

 でも、この時ばかりはそれを忘れた。


 振り返った時に見たその美しい微笑みに、心臓を掴まれたかと思ったのだ。





 傷つけたくない。傷ついてほしくない。そう思っていた。

 

 そう思っていたはずなのに——……






「海軍部長、そろそろ到着いたします」


 運転手の事務的なその声で、リチャードは現実に引き戻された。

 どうやら目的の場所に到着したらしい。


 赤いレンガの塀が続く通りの向こうに佇むのは、落ち着いたブラウンの外壁が夕日に映える邸宅──。

 何度か訪れたことのある、ユリスの自宅だ。


「ここでいい、降ろしてくれ」


 運転手は言われた通り車を路肩に停車させる。

 ブレーキによる荷重を全く感じさせない素晴らしい運転技術。いつもながらそれに感心しつつ、車のドアを開け車外に出る。すると、運転手が気づかわしげに尋ねてきた。


「本当に、私はこのまま帰隊してよろしいのでしょうか?」

「ああ、構わん。ここに来たのは私的な用事なんだ。片道だけでも心苦しいくらいだ。気にしなくていいから、今日はもう帰りなさい」

「しかし、お帰りの際はどうなさるのですか?」

「友人と待ち合わせているんだ。彼はきっと車で来るだろうから、帰りは同乗させてもらうよ」


 そう答えても、運転手の表情は晴れない。

 海軍部長専属の送迎ドライバーである彼は、その責任感ゆえに、リチャードの行く先々すべてを送迎しなければ気が済まないのかもしれない。


「さあ、もういいから行きなさい」


 そう促すと、運転手の彼は渋々と言ったていで車を発進させた。それを通りの角を曲がるまで見送ってから、リチャードは邸宅の門扉に向き直る。


「さて、フィフィリーはもう着いているかな」


 鉄の門扉を押して中に入ると、そこには美しいローズガーデンが広がっていた。鮮やかに咲き誇る花々に思わずため息が漏れる。それらを眺めつつアプローチを進み、ステンドグラスがはめ込まれた玄関扉の前にたどり着く。

 すると思いがけず玄関扉が中から開いた。


「フィフィリー!」

「そろそろ来る頃だと思ったよ」


 扉の中から現れたのは、待ち合わせていた友人、マルクス・フィフィリーだった。


「鍵は掛かっていなかったのか?」

「いや、掛かっていたよ。でも鍵の隠し場所なら知ってる」

「他人が知っていたらダメだろう。ユリスのやつ、無用心だな」

「まあ、そこはほら、ユリスだから…」

「そうだな……」


 互いにため息を交えつつそんなことを言いながら、二人は屋敷の中に入った。


「何か手掛かりは見つかったのか?」

「書斎が荒らされていたよ。複数人の足跡もある」

「なんだって⁉ じゃあユリスは、やはり何者かに攫われたのか?」

「その可能性は高いね」


 急いで書斎に行くと、室内は確かに荒らされていた。


 散乱した書類や書籍。絨毯の上にくっきりと残された足跡。乱された家具。

 ここで一体何が繰り広げられたのだろうかと思うと、胸が痛んだ。


「ユリス……!」


 リチャードはゆっくりと絨毯に膝を下ろし、目の前の足跡をじっと見つめながら、悲痛な声で呟いた。


「一体誰がユリスを連れ去ったんだ……?」

「状況から考えたら、やっぱりジール総督だと思う……」

「ああ…。だが、そう断定するには証拠が──」


 不自然にリチャードは言葉を切った。

 どこからか自分たち以外の物音が聞こえたのだ。


「リッチー?」

「静かに!」


 そう短く言って耳を澄ませる。その様子に、フィフィリーも体を強張らせた。


「ら、来客……かな?」


 フィフィリーが不安げに小さくつぶやく。だがその予想が正しくないことに、リチャードは気付いていた。

 ベルも鳴らさずに入ってくる人物が、まともな来客であるわけがない。


(まさか、誘拐犯が戻ってきたのか──?)


 玄関の様子を見に行こうと、リチャードは音を立てないように慎重に動いて扉に向かった。しかし次の瞬間、扉が勢いよく開かれ、二人の侵入者がなだれ込むように入ってきた。


「動くな!!」


 一人目の男が拳銃をリチャードに向けて怒鳴った。


「両手を上げろ!!」


 リチャードは従順に両手を上げた。フィフィリーに視線を移すと、彼もまた同様に両手を挙げている。銃を持つ相手に無用な挑発は禁物だ。こういう時こそ冷静さを保つことが肝心だった。


 侵入者たちは、一見すると強盗のように見えたが、リチャードは彼らの振る舞いから、ただ者ではないことを瞬時に感じ取った。


 一人目の男は、無駄のない筋肉質な体つきに整えられたブラウンの短髪、深いブルーの瞳をした若者で、その鋭い目つきと銃の構えは、尋常ならざる精強さを漂わせていた。

 もう一人は一人目の男よりは小柄で、おそらく女性だと思われた。明るい金髪を頭の後ろで束ね、同じく拳銃の銃口をこちらに向けて立っている。大きな緑色の目を見開き、口元には笑みさえ浮かべている。


(……?)


 リチャードは胸中で眉をひそめた。

 二人の外見は対照的で、一貫性がないように見えたのだ。

 ただ彼らの振る舞い、装備、そしてその目。それらは明らかに素人ではない。それは共通していた。


「お前たちは何者だ?」


 ブラウンの髪の男が疑念を込めて問いかけてきた。その言葉に、リチャードは内心で怒りを感じつつも、表面上は冷静を保って答えた。


「お前たちこそ何者だ!? 何をしに来た!?」

「リチャード⁉」


 フィフィリーが心配そうにリチャードを呼び止めた。不用意に刺激するな、とでも言いたいのだろう。だがリチャードは、彼らがただの強盗ではないと確信していた。


 堂々とした態度と、この場所自体に対する警戒の欠如。おそらく、この者たちがここに侵入したのはこれが初めてではないのだ。


「ここは私の友人の邸宅だ!! 用がないなら出ていけ!!」


 リチャードは侵入者に向かって叫んだ。するとブラウンの髪の男が訝しげに青い目を細める。


「あいつに友人なんているのか……?」


 その声に、金髪の女性が返した。


「知らね。別に友達くらいいるんじゃねえの?」


 その声は女性にしては低く、言葉遣いも男性的だった。どう見ても女性にしか見えないが、男性なのだ。いや、ポケットに片手を突っ込んで答えるその姿は、男性と言うよりは無邪気な少年だった。



「そう言えばガンデルクにもいたな。面倒ごとしか持ってこないおっさんが……」


 ブラウンの髪の男がうんざりしたような口調で独り言のように言った。その言葉を、リチャードは聞き逃さなかった。


「ガンデルク? 君たちはもしかして、ガンデルク基地の兵士か……?」


 そう問うと、二人の侵入者は構えた拳銃を下ろし、互いに顔を見合わせてから答える。


「いや、俺たちは軍人じゃない」


 俺たちは?

 どういう意味だ?


 リチャードが困惑していると、今度は侵入者たちが尋ねてくる番だった。


「そういうあんたこそ、その軍服からして共軍の将校だろう。この家になんの用だ? ユリスはどこに行ったんだ?」


 彼らの口から飛び出したユリスの名に、リチャードは目を見張った。


 この者たちはユリスを知っている。

 一体どんな関係なのだろう。

 彼の失踪に、何か関わりがあるのだろうか。


 疑問が次々と浮かんでくるが、遅れて現れた一人の少女により、リチャードは問いただす間もなく身体が固まってしまった。


「ねえ、ユリスどこにもいないんだけど ──あれ、リッチーおじさん?」


 一瞬、記憶の中のユリスがそのまま実体化したかのような錯覚に襲われた。それぐらい生き写しだったのだ。

 だが違う。これはユリスではない。


 彼よりも更に線の細い肢体。

 陶器のように澄んだ肌。


 ユリスの一人娘。ツルギ・ハインロットだった──。






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