氷結少年と盲目少女
授業の終了を告げるチャイムが響く。
途端に騒がしくなる教室の片隅で、光宗優奈はじっと、僅かな警戒と共に席に着いていた。周囲は部活や帰宅の用意をする者、雑談に興じる者、様々で──人の動きが読み難い。それ故に優奈は白杖を片手に身を固くして、静かになるのを待っていた。
「ゆーうちゃん」
声と共に優奈の肩に触れる。その声に優奈は顔を綻ばせた。よく知る友人、斎賀律だ。
肩から伝わる彼女の指先は冷たい。それに──少し匂う、塩素の匂い。水の匂い。
「──りっちゃん、授業、体育だったんだ」
「そうそう。プール。今日あっついからさ-、泳ぐのは良いんだけど、きっついんだよねー。めっちゃ筋肉軋むわ!」
「私も泳ぎたいなー」
「ゆーちゃんも水泳取れば良かったのに。私、エスコートし……駄目か。ゆーちゃん意外に体力あるもんね……」
「目がこれだからって閉じ籠もりたくないもん。筋トレしなきゃ、直ぐ鈍っちゃう」
「私と遊ぶ時は閉じ籠もろー?インドアに遊ぼ?カラオケ行こうカラオケ!!」
カラオケ行こうよぉ、と纏わり付く友人に笑いながら、今日は図書館に行くから駄目、と告げる。
「図書館かぁ……うちの図書館、デカくて凄いけどさぁ、仕切ってる人が怖くない?」
「怖いかなぁ」
「新入生オリエンテーションの時のこと、私未だに覚えてるもん」
「あれは確かに、中々衝撃的だよね……」
律が言うには、線の細く、眼鏡を掛けたいかにも文学少年、といった雰囲気の美少年、だったらしい。司書や先生を差し置いて、図書館の主と称される、図書委員長は。
彼は大勢の新入生に向けて発した。
──図書館利用に当たっての注意事項を。
『きちんと入学要綱を読んでいる人は居ないだろうから、説明するね。
──図書館の利用については、図書委員の指示に絶対従って。理不尽だと思うことを要求された場合は、生徒会の意見書で訴えると良い。生徒会と教師陣で構成される査定機関からの調査で是非が問われる。
良い?図書館のルールは極めてシンプルだよ。
①静粛に。
②他人に迷惑を掛けない。
③本を汚損しない。
④飲食禁止。
規則を破り、その上図書委員からの制止も無視した場合、実力行使を伴う強権が発動するから悪しからず。因みに今年卒業……したっけ、あの先輩。留年だっけ?退学処分だっけ?あの叩き出して病院送りにした……まぁどうでも良いか……実際に平和的とは言い難い解決をした事例もあるから……甘くみていると、酒乃を無事卒業出来ないよ?
──さぁ、図書館の利用を希望する人は居る?……そう、なら図書館規則に従うって誓約書を提出してね。
……何怯えてるの?血判押せとか血書出せなんて言ってないよ?署名と、捺印をするだけ。
君たちが図書館規則に従っている内は、責任を持って、図書館内の平和と安全を保障するよ。
詳しい利用案内は誓約書を読むこと。時間が限られてるからね。高校生なんだから分かるでしょ?まだ高校生、じゃないよ。もう高校生なんだから。
──以上が図書委員会からの新入生に対する連絡事項です。……生徒会長、後はよろしくお願いします』
呆気にとられた新入生を尻目に、彼はさっさと退場してしまった。
それからは身の程を知らない新入生が、図書館の主にちょっかいを仕掛け──保健室で魘される羽目に陥っている。
図書館には治外法権があるのだと、新入生が全員理解するまで、そう長くは掛からなかった。
「顔は綺麗だけどさー。色んな物事に大鉈を振るうタイプだよ絶対。どうなるんだろーね、図書館。ま、途中まで送るね」
「有難う」
腕、組ませてね、と律は一言入れ、それから腕を組んだ。それは介護というよりも、友達同士の巫山戯たじゃれ合いのようだった。少し、楽しい。彼女が道を示してくれるのは、楽しい。勿論、訓練を受けたプロではないのだから、戸惑うこともあるけれど、嬉しい。楽しい。白杖を鳴らす手が軽く、リズムを刻みたくなる。優奈と律は校内を行く。優奈は律の腕と杖のおかげで軽快に階段を上る。階段では僅かに律の歩調が緩まった。
「はー、プールではしゃぎすぎた~」
「疲れてるんだ。無理するなーインドアー」
「インドア頑張るー」
へぇへぇと息を上げながら、律は優奈の腕を引く。最早どちらが先導しているのか分かったものではない。律はよくへばる。それでも立ち上がろうとするのだから根性無しではない。泣き言を吐きながらも、立つ。
酒乃高校総合学科の最高階は5階。上りきった感はある。その階は静謐に満ちていた。
気配が、静寂を強いている。張り詰めている。夏だというのに、ひんやりとした空気が流れるのは、気の所為じゃないだろう。
優奈はくん、と鼻を鳴らす。紙の匂い。 優奈の目は弱視だ。よく見えない。目で見るよりも、指先で手繰る点字の方が合っている。それでもこの高校は、盲学校ではなく、障害のない生徒も通う総合学科だ。優奈という視覚障害者を受け入れるのは、学校側も初の試みだったそうで、色々と工夫が凝らされたという。有難い話だ。しかし盲点となったのが、図書室の利用だった。こればかりは全部点字にして打ち出すわけにも行かず、有志による読み上げを録音したものを、個人的に利用している。本当に有難いことだ。
だから優奈は足繁く図書室に通う。日々のお礼として、ちょっとクッキーなどを携えて。司書の先生は内緒のお茶会などしてくれる。
大好きな空間だ。
「はい、図書館前」
「律ちゃんもどう?偶には」
「私、本に囲まれてるとお手洗い行きたくなるタイプー。だからじゃあ明日ね!」
「うん、有難う」
放課後の図書室に籠もるのは試験前の先輩達が主だが、未だその時期ではない。いつも人の気配はない。しかし、必ず彼は居る。
「──光宗さん」
硬質で冷ややかだが尖ったところのない、丸い声。多分、真珠のような声。
「こんにちは、首堂先輩」
「今日は何をお探しかな」
「今日は夏目漱石の『こころ』を」
「それなら青空文庫にデータがあるから、読み上げ機能を使おうか。──三歩、真っ直ぐ。右に二歩。──こちらに座って。あぁ、ヘッドホンを。少しこの後騒がしくなるけれど、気にしないで読書を続けて」
彼──首堂まほろは淡々と事を進める。彼こそが司書の先生を差し置いて、図書館の主と呼ばれる我らが図書委員長だ。聞くところによると、彼は一年生の時から図書委員長を務めているという。
都立酒乃高等学校総合学科には都内有数の蔵書量を誇る図書館がある。
酒乃の前身である酒乃礼寿・酒乃養徳高校の時代から所蔵されている書籍もまだまだ現役であり、ちょっとしたビブリオマニアの中でも評判の図書館だった。
しかし現在、酒乃高校図書館の主は、司書ではない。教員でもない。図書委員長である只の一生徒、首堂まほろが君臨し、図書館内の全てを取り仕切っていた。
徹底した蔵書管理を旨とし、汚損、破損は許さない。館内での静寂を乱した者には強制退場。あまりに目に余る乱行をする者には出入り禁止。そして図書委員の指示に従わない場合は──委員長による強制執行がなされる手はずとなっている。
在校生には知れ渡っている、『軍事規律のある図書館』だが、新入生には実感に乏しい。小柄で神経質そうなセンパイが偉そうなことを言っている、その程度の甘い認識だ。そして試しにと騒いでみせれば──痛い目に遭う。 優奈は図書館に通ううちに、その”痛い目に遭う生徒”を少なからず目撃──見えては居ないが──している。粗暴そうな先輩方が、無知の同輩達が、この大人しそうな先輩に撃沈されていくのを。
古書と新書が並ぶ大本棚の群は、見るものに圧迫感を与える。天井の灯りは棚の影を長くするばかりで、ヒトの足下を照らすには心許ない。
読者用のスペースは設えてはあるものの、この場において肩身の狭い思いをさせる。ヒトは、此処にいるべきではない、とずらりと並ぶ書籍が無言で語る。膨大な量の書籍が纏う、新古の紙の匂いが調度のフレグランスだ。
排他的な独特の雰囲気が籠もる、この図書館において、何の気負いもなく過ごす者は、書物に許された愛書家のみ。
図書カウンターの奥のドアは司書室に通じている。普段は司書が雑務をこなし、図書委員達の溜まり場となっているのだが、有事の際はお白州兼処刑場と化す。
「──『ソドムの百二十日』を破損したのは君だね?」
「……はい」
「君がこれまで読んできた本から類推すると、『ソドム』を借りたのは結構イレギュラーだね。大方、露骨で特殊な描写にソソられたのだろうけど。
まぁ、君の嗜好はどうでも良い。
君の生死もどうでも良い。
だけど、此処の本を傷つけたのは、一大事なんだよね」
「す、すみません」
「謝罪が必ず受け入れられると盲信してるの?君はぬるま湯どころか産湯に浸かった赤ちゃんかな?」
「べっ、弁償します……!」
「この『ソドム』は初版本。稀覯本の類いに入る。分かり易くいえば、レアだ。新装版は世に溢れているけれど、これは日本で初めて発行された『ソドム』なんだ。1961年……60年の歴史が、この本にはある。
さて、君はいくらの債務をこの歳で背負うことになるのかな」
丁寧に相手の精神を殺ぎ取っていく図書館の主に、とうとう少年は正気を保てず、倒れ伏した。それが彼の強権発動による成果だった。
──酒乃の雷帝、とは誰が呼んだのか。
「脳貧血かな。パニック発作かな。まぁ転がしておこう」
脈も呼吸も正常だし、と彼が呟くのを、優奈はヘッドホンを着けていても聞き逃さなかった。見えないかわりに、聞き逃さない。どんな音だって、声だって、聞き分けてみせる。優奈にはその自負があった。
彼の硬質で丸い声が好きだ。感情の乱れの無い声が落ち着くけれど、ざわつく。失礼、と一言断ってから、手を引いてくれる手が好きだ。
──一度、顔を触らせて貰ったことがある。
親しい友人にもお願いしている。目で見るには不確かな彼等の顔に、触れさせて欲しいと。どういう顔をしているのか知りたい、と。
「化粧落ちちゃうからそっとね!」
なんて言いながら、友人達は好きにさせてくれる。
そう、親しい友人にだけお願いすることを、彼にお願いした。彼は誰にでも優奈がそうしてお願いするだろうと思っているだろうから、これは優奈だけが知る”特別”だ。
一大決心で望んだことを、彼は思いの外あっさりと了承した。
どうぞ、と促され、触れた。細面、頰は薄いけれど柔らかい。掌にざわめく睫毛は長かった。女の子が羨むほど。
震える指先に、彼は気付いただろうか。
そんなことを思う。
「……見てみたいな。見てみたかったな」
ぽつり、と呟けば、何を?と聞き返されたので驚いてしまう。そういえば、彼も耳が良かった。
「……色々です。でも一番見たいのは人の顔です」
「そう。笑ったり、泣いたり、怒ったり。ころころと変わるよ、人の顔は」
「先輩はあまり変わりそうにないですね」
「心静かに生きていきたいからね」
「笑ったり、泣いたり、怒ったり、しないで?」
「偶に微笑む程度でちょうど良いよ、僕には」
その微笑みすら、私には見えない。
見てみたい。見てみたかった。
貴方の顔を、きちんと。
「……どうして泣いているの?」
「なんでも、ないです」
「そう」
彼は離れていったようだった。女の子が泣いているのなら、そっとしておいた方が良い──そういう判断だろう。それは正解だ。
貴方で辛くなる私を、私は許してしまう。
光宗優奈の趣味は読書以外にも、音楽鑑賞がある。
クラシックからロック、アマチュアからプロ、様々なジャンルを貪るように聞いた。
その中で最近気になっているのが、ネットで活動している『ヴァニタス』というグループだ。全員が面を付けたり、被り物を頭からすっぽりと被ってしまうので、その素性は知れないらしい。その中のボーカルの一人、シェルの歌声が本当に好きだった。性別不明の歌声は、低音は柔く響き、高音は息が危ぶまれる程に伸びやかに響く。感情的に訴えかけるものは、ない。あえて、削ぎ落としている。お前は何を感じるのかは自由だ、と突き付けられている。そんなシェルの声は何より──首堂まほろの声に似ていた。
普段の声と歌声ではかなり異なるのが普通だ。少し聞いた程度ではシェルと彼は結びつかない。何しろ、首堂まほろが歌っているのを聞いたものはいない。歌う彼を知る者はいない。高校では音楽は選択授業の一つだ。彼が選んだのはマイナーな書道。誰も耳にする機会はなかっただろう。それでも優奈はシェルが彼ではないかと思っている。恋する身の成せる業──と自負するべきか、少し粘着し過ぎているだろうかと悩むところではある。
聞いてみたい。
問うてみたい。
秘密の共有を、してみたい。
そんな恥ずべきことを思う。
邪な思いを抱えたまま、いつも通り、図書館へと向かう。シーズンは文化祭の準備に忙しくなる頃。優奈のクラスは、時代劇に決まった。『エクストリーム遠山の金さん』をやるらしい。花吹雪の刺青を入れた町奉行が、その身分を隠して町に潜む悪を討ち、そして白州で裁く──それが普通の遠山の金さんだ。しかしエクストリームの名を冠する通り、初っ端から花吹雪を晒して『町奉行でござい!全員磔獄門!!』とスーパーマッシブ高速現行犯逮捕&死刑執行するという。運動神経の良い子達がそれなりの殺陣をするらしいが、どんな台本だと思った。そしてその劇のために、優奈が出来ることは何も無かった。それが、寂しい。舞台には立てない。衣装作りも、小道具・大道具作りも出来ない。誰も優奈を責めない。誰からも当てにされていない。
廊下は何処のクラスも文化祭の為に動き回る気配がして騒がしい。楽しそうで、だから寂しかった。
思わず足早に、いつもより急いて図書館のドアを開けた。
「──光宗さん」
「首堂先輩、こんにちは。お一人ですか?」
「うん。皆、文化祭の準備で忙しいから」
相変わらず彼は居て、そして一人だった。
私は図書カウンター前の席に着き、彼は文化祭に携わらないのかと疑問に思った。
「首堂先輩のクラスは、文化祭に何をするんですか?」
「僕のクラスは猫カフェ」
「猫カフェ!?え、だって、学校に猫は……」
優奈の当然の疑問に、彼は細く溜め息をついた。
「そう、学校に猫を連れてくるなんて出来ない。だから正確には──猫の格好をして接客する謎の喫茶店」
「……」
「……」
「……普通の……喫茶店じゃ……駄目だったんですか……?」
「駄目らしいよ。『猫になりたい』派と『猫を愛でたい』派がよく分からない妥協をした結果だから」
……この学校、他のクラスもこんな調子なんだろうか。優奈は見えない目が遠くなるのを感じた。とはいえ、気になることは他にある。
「先輩も接客するんですか?猫の格好で?」
「うん。三毛猫」
「雄は凄く貴重だって聞きます」
「僕、動物に怖がられるから、あまり触れたことはないんだけど」
まぁ、人にも怖がられてますからね、とは口が裂けても言えない優奈だった。
「猫は良いからね」
「はぁ」
優奈の心のメモ帳に新しく刻まれた。──彼は猫派、と。
「先輩のクラス……絶対遊びに行きますね」
「とても複雑な気分だな」
ふふ、と思わず笑ってしまう。仲間はずれだと思っていた文化祭が、楽しみになってきた。猫の格好、とは言っていたけれど、どういうふうに猫なのだろう。猫耳でもつけるのだろうか?着ぐるみのようなものを着るのだろうか?どちらにせよ、そんな格好をした彼が、どんな表情を浮かべているのか、知ることが出来たなら──。
……また、顔に触らせてもらえないかな。
どんどん欲深くなる。
貪欲になる。
そして思い出す。
彼が『シェル』ではないか、という疑惑を。
「──……」
「……何か聞きたそうだけれど」
「えッ?」
「僕に何か言いたいことがあるんじゃないかな?」
優奈は自分の顔が紅潮していくのを感じていた。バレていた。恥ずかしい。けれど──この際、言ってしまおう。聞いてしまおう。
「あの……」
「うん」
「先輩って……『ヴァニタス』の『シェル』じゃないですか?」
沈黙が下りた。
彼の気配が硬質化していくのを感じる。はりねずみのように。しかし針を寝かせてくれた、そんな雰囲気がする。
「…………嘘は言いたくないね。そうだよ」
「──!あの、その……!私、本当にシェルの歌が好きで……!」
「有難う。でもあまり知られたくないから、その話は控えてもらえると有難いな」
「あ……すみません」
高揚した気分が一気に奈落へと下がった。けれど、
「ひ、秘密にします」
「有難う」
秘密だ。
誰も知らない、気付いていない、彼の歌声。 嬉しかった。
胸がどきどきした。ときめく、というのはこのことだと思う。
「嬉しそうだね」
「本当のところを言いますと、すごく、嬉しいです」
「そう。よく分からないけれど」
彼からしてみれば、弱みを握られた──ように感じたかもしれない。それはいけない。どれだけシェルの歌声が好きか、語って聞かせたい。憧れの人が、恋する人で嬉しいのだと。しかし、シェルの話をするのは控えてくれと言われたばかりで、そして告白する勇気などまるでない。胸がどくどくと脈打つ。これは先程と違う。不穏な高鳴り。どうしよう、どうすれば、何を言えば、良いだろう。分からない。
「あの……その、一言だけ……。ふぁ、ファンです……」
「有難う」
──シェルじゃない、首堂まほろだって好きです。なんて言えたなら。
「ユウちゃんさぁ、首堂先輩のこと、好きでしょ?」
カラオケ店で優奈はホワイトウォーターを噴いた。咳き込む。爆弾発言をした元凶に背中を撫でられながら、涙目で優奈は質す。
「な、り、ちゃん、ゲホッ、なん、なにいって、げほ、」
「はい、落ち着いてー。これ、まだ口付けてないから、烏龍茶」
促されるままに、お茶を呷り、そして一息。
「……私が、首堂先輩を?」
「そー。ユウちゃんがいくら本好きだからってさー。通い詰めてるし、首堂先輩の話を小耳に挟んだ時なんか、凄いよ?めっちゃ聞いてるわこの子って感じだから」
優奈は顔を両手で覆った。見えない我が身、怖ろしい。周囲の人達がどういう目を優奈に向けているのか分からないから、気を付けていたつもりだったのに。
「……バレバレ?そんなに分かりやすい?恥ずかしすぎて死にそう…ヤバい……」
「まー、そんなに分かりやすいわけじゃないと思うよ?ユウちゃんと一緒にいるのが多いから気付いたってだけ、かな?」
「疑問符付けないで断言してお願い」
「ふっふふふーう!良いじゃん良いじゃん。恋バナってやつ聞かせてよー。私今ときめきが不足しています。大変な事態ですよユウちゃんさん。せめて他人の恋バナとときめきを摂取しないと大変なことになります」
「大変なことってなに?」
「まず、ユウちゃんの乳を揉みます」
「やめて」
「揉みしだきます」
「セクハラじゃん」
「そしてブラジャー売り場に連れていきます」
「何?何なの?」
「恐らくお母さんセレクトであろうそのブラを良い感じのやつに変えます!」
「え、私のブラ透けてるの!?」
「ううん。カマかけただけです。……ブラ売り場は普通に行こっか?可愛いのにしよう。清楚系……いや、小悪魔系でも良いかも……首堂先輩の趣味はぁ?」
「知るわけないじゃん!!」
「首堂先輩だって聖人君子じゃないんだから、下ネタの一つや二つー!ユウちゃんの鋭敏な耳で拾ってきなよ」
「聞きたくないなぁ!」
とはいえ、彼の好みの女の子、は確かに知りたい。……髪が長い子が好き、とか、そんな感じのことで良い。……あまり深く知ってしまうと、多分、私は諦めのどん底に突き落とされる。
──目の見えない子は、面倒で嫌、だなんて。そんな──どうしようもないことは、聞きたくない。
私はまだ傷つききる勇気がない。ただ浸っていたいだけ。彼との時間を。彼を思うことを。
「で、首堂先輩の何処が好きなの?」
「……何だろう。……何でだろう」
何処が好き?
「凄く、落ち着いた声が好きで、」
「うん」
「あと、気を遣い過ぎないでいてくれるの。でも、助ける時は助けてくれる」
「うん」
「後は、何でだろうね……」
「恋って分かんないね」
「うん」
──恋バナしてる私達でも、分からない。
恋は落ちるものだとか、何だとか、言われるけれど。
「でも……ラブソングが沁みるようになったかな」
「くっっわー!恋する乙女!」
それからはラブソングを歌いに歌った。
声が枯れて、がらがらになって、それでも笑って、歌って。
──何だか、青い春って感じだ。
週末の一時。
首堂宅にてヴァニタスの主軸となる二人はあれこれと次なる曲を発表するための調整に入っていた。
金城永は友人である首堂まほろ、そしてネットで繋がった有志達と共に『ヴァニタス』を結成した。メンバーはその時の都合によって流動的だが、固定となっているのは永とまほろだ。
永は作曲そして演奏を、まほろはボーカルを担当している。
「まほろー。今度これ歌ってくれよ」
永はデモ曲を流しながら、歌詞を書き殴ったプリントをまほろに渡す。まほろは眼鏡の奥の瞳を冷ややかに細め、告げる。
「これ、数学の宿題プリントじゃないの?提出する気ある?
あと──却下」
「なんっでだよ!ラブソングぅ!俺ら青春のまっただ中!切ない恋の一つや二つ歌っても良い歳だぞ!」
「僕、恋愛なんて知らないし」
「初恋とかねーのォ?」
「覚えてない」
飽きたまほろは傍らの本棚から深海魚大図鑑を取り出し、広げて読み出した。永はその図鑑の上に上体を倒して邪魔をする。図らずも膝枕をするような体勢になったまほろは、瞳の温度を更に低下させた。
「──邪魔」
「端的ぃー。身近でいねーわけ?お前図書館牛耳ってるだろ?図書委員とか利用者とかでさー。ぷかぷか浮いた話はねーわけ?」
「無いよ。委員達は部下だし、利用者は監視し、そしてその権利を尊重すべき存在だ
。恋だの愛だの、入り込む余地はないね」
「……ほら、あの!随分優しくしてるっていう、目の悪い子は?」
「優しくしている?違うよ。彼女が持っている権利を尊重しているだけだ」
「権利?」
「図書館の使用。書籍を楽しみ、そして学ぶこと」
永は知っている。感づいている。偶に図書館を訪れた際に見掛けた、少女の表情から。彼女の見えない眼差しから。
彼女はこの──冷ややかなる少年に、恋をしている。
──その恋は、実りそうにない。
「……あーあー。でも、好きになるのも嫌いになるのも、そんなの本人次第だもんなー」
「なんの話?」
「別にー?」
甘酸っぱいねー、と永は呟き、それで恋バナは終わりだった。一方的な恋バナだった。
彼は、まほろはただの雑談と感じているだろう。擦れ違いだ。何処までも。
「お前の結婚式行きたいなー」
「何を言ってるの?」
誰かが、この冷徹な彼の理性を揺らがせ、そして陳腐な愛と恋とで絡め取る。そんな未来を夢想した。夢想は難しかった。誰が彼の隣に立つのだろう。分からない。先のことは分からない。目先の問題そればかり。
「……好きなタイプは?」
「何なの一体……。強いて言えば強い人かな。母さんもお祖母様も強い人だから、憧れるな」
「というか、お前の家族全員鬼強いじゃん……。お前のかーちゃんが護身術教えるぐらい強いのは知ってるけどさ、ばーちゃんも?」
「うん。長刀の名手だって。中学生の頃に竹刀で挑んだけど、コテンパンにされたね。一太刀も入れられなかった」
「強い女、かぁ。それって絶対必要条件?」
「か弱い人を、男女問わず、どうしても庇護対象として考えてしまうのは良くないとは思うんだけど、中々拭えない意識だね」
あの恋する少女は目が酷く悪くて──彼にとっては庇護対象でしかないのだろうか。目の見えない苦労を背負いながらも、高校に通っている。それは”強さ”に他ならないのではないだろうか。その”強さ”は彼も認めるだろう。しかしそれが彼の求める”強さ”に価するのかは分からない。
「……不屈の魂、みたいなのは駄目?」
「人間誰しも立ち上がるよ。そうでなければどういう形であれ──死ぬ」
「……ま、そりゃそうだ」
それでもこの世の中で、強く生きるのは難しい。疲弊した身体と精神を引き摺って、それでも息を止めないのは、死ねないという義務感であったり、死にたくないという恐怖だ。永はそう思っている。随分消極的な生だことだ。とはいえ、まほろの恋愛のステージにまで、あの少女が昇ってくるのは──或いは降りてくるのは──難しいようだ。
「……そんなお前の情緒を育成するためにもこの曲を」
「嫌だっていってるでしょ」
深海魚大図鑑が鈍く、永の頭に落とされた。
「重さ知ってる?痛いんですけど。
あーあぁ。お前が文化祭の後夜祭で歌ってくれればなー」
「軽音部の後輩がやってくれるんでしょ?」
「良い声してるし?練習もすげー頑張ってるけど、ちょーっとまだ表舞台に出すのは早いというか」
「何」
「……あがりやすいんだよなぁ」
「場数踏むしかないんじゃないの?知らないけど」
「お前も表舞台に出ねぇもんなー」
「僕は静かに生きていきたい。とはいえ、歌は好きだよ。評価をくれるのも嬉しい。──でも天秤は静かに生きていくことに向いている」
「高校生が集まってるってのにそりゃあ無理だろ」
「だから僕は自分の城を作ったんだよ」
「『作った』じゃねーだろ。簒奪したってーんだよ」
まほろはすう、と笑みを浮かべた。静かな微笑み。冷徹で美しく、心臓の鼓動が緩やかに止まってしまいそうな。
「良いね。簒奪か。ふふ、覇道を行くかな」
「あーあー。また次の会計議会荒れるなー」
「読みたいと思う者が居るなら、僕はそれを全力を以て支援する。会計という肉を噛み千切る戦い、負ける気はないね」
「お前のそういうとこ、ちょっとお前の兄ちゃんに似てるよな」
「兄さんはリアルで肉を噛み千切りかねないよ」
「そういや、お前、うちのクラスの猫カフェ、接客するよな?」
「するけど?」
「クラスはお前の城じゃねーんだからな。治外法権は発動しませーん。大人しくにゃんにゃん鳴いて愛想ふりまけよ」
「君だってラグドールの猫じゃない。同じ立場でしょ」
「ほら、猫って自由気儘なところが魅力じゃん?」
「読めたよ。脱走する気だね?」
「正直文化祭自体より後夜祭が心配過ぎる!俺の可愛い後輩!ブルっちまってるからなー」
「じゃあ僕は図書館の雷帝としてではなく、ただの一生徒として進言しよう。皆様に逃げた猫を探すというアトラクションを」
「あ。てめこの野郎!そうやってついでに自分も逃げる気だな!」
「──僕、足速いんだよね」
「知ってる!陸上部を大泣きさせたのも知ってる!」
「あ、そういえば、そう、光宗さんに、僕がシェルだとバレた」
「あ?あー!?なんでだ!?」
「耳が良いからじゃない?凄いね」
永は別の要因を思うが、口には出さない。言いたければ本人が言うだろう。……彼のこの調子であれば、酸味の利いた終わりになりそうだが。
「君がヴァニタスのカルハだとは気付いてない……のかな。あまり面識ないし」
「まー、俺はバレても良いけどさ。
案外、お前がバレても誰も言ってきそうにないかー」
──酒乃高校で怖れられる雷帝が、実はネット上で人気のアーティストだった。
「……属性盛りすぎじゃねー?」
「僕を音楽の世界に誘ったのは君だろう」
人は色々な面を持っていて、時には盛る。
彼は嘘を滅多に吐かないが、事実を口にしないことはままある。
「悪い男やでぇ」
「何で突然関西弁なの?」
──思いの外、気合いが入っている。
せいぜい、雑貨量販店で購入した猫の着ぐるみパジャマを着て接客するのだろう──と予想していたのだが。
首堂まほろはいつもなら堂々と座している自身の席に、身を固くして──そして諦観をもって着いていた。
文化祭を1ヶ月後に控えた某日の放課後。文化祭委員と文化委員がメイク道具を構えて、図書館に向かおうとするまほろを呼び止めた。──というか、捕縛した。
「──衣装合わせだからね!」
「メイクもします!」
──やる気である。まほろ以外の接客担当の者は皆、はしゃいだ様子で自身の衣装を前にしている。
「はいコレ着て」
「着たらメイク」
「衣装汚さないようにケープ巻いて」
「メイク中は動かない!何があっても動かない!眼鏡外して!はい!」
──為すがままである。
まほろの三毛猫は、ぴったりとしたアスリート用のシャツに三毛模様を描き、それにぶかぶかのサロペットを合わせるという、まほろにはよく分からない衣装だった。有名なミュージカルのそれを参考にしたらしい。良し悪しはまるで分からないが、手が込んでいるとだけ思う。
「目、やや瞑って」
「”やや”って何?」
「マスカラ塗るから、ちょっと目を閉じて開けて。下に目線くださーい」
「知らないけど。──目に異物が入るじゃない。止めてよ」
「我慢我慢。おしゃれは我慢。女の子はいつもこの恐怖と面倒臭さと手間を掛けて可愛くなろうと頑張ってるんですぅ」
「努力家だね?」
「でしょー?分かってんじゃん首堂くん。
……首堂くん、自睫毛結構しっかりしてるなくそ」
「何で罵倒されたの?」
ファンデーションだかドーランだかを顔に塗りたくられる体験はあまりしたくない。昔、幼い頃に保湿クリームを母に塗ってもらったなぁなどと思い返したのは一瞬だった。ぺたぺたと指先で色を叩き込まれるし、幾重にも何かを塗られる。何が起こっているのか分からないので、それこそ借りてきた猫のごとく、警戒しながらじっとしているしかない。
そして出来上がった頃には完全に疲れ切っていた。パーソナルスペースを侵害されつくした疲労だ。
「うふふふ!お肌が綺麗だから化粧のノリが良いなぁくそ!」
「さっきから何で罵倒がちょくちょく入るの?」
「三毛猫のおっとり感を出してみました!可愛い可愛い」
はい、と鏡を渡され、それを覗き込んで見た自分の顔は何だかいつもよりくっきりしていたし、頰は明るい。そんな感想しか出てこなかった。
「マスカラとアイライン、チークを明るめの色でふんわり感をね!」
「それからはい、ウィッグと猫耳で~……予想以上に似合うなぁ!写真撮って良い?」
「嫌だ」
そうして総勢20名程度の猫もどきが教室に爆誕したのである。
──非日常だ。非日常への準備運動だ。
ラグドールもどきになった金城永はノリノリで猫の真似など始めている。にゃんにゃん、なぉん、とあちこちから猫の鳴き声が。何この空間。当事者でありながら、まほろはドン引いていた。
「まほろ~、お前も猫なんだからほら、鳴き声をひとつ」
フシャッと威嚇する声は自分でも予想外に猫に似ていた。
それはそれで御猫様……!と感動する声が上がったのでこのクラスはもう駄目かもしれない。手遅れだ。猫の魅力に抗えない。猫は可愛いけれど、これは駄目だ。アカンやつだ。
──文化祭当日。
見事な秋晴れ。まだまだ残暑が厳しいが、屋外でパフォーマンスをするクラスもある。晴れるに越したことはない。
光宗優奈は白杖を手に、周囲の気配を探ろうとして失敗していた。
非日常だ。人の流れもいつもと全く違うし、行き交う人自体に校外の人間が混じる。優奈の白杖を見て、避けてくれる人もいるが、何度もぶつかりそうになった。
──体育館に行きたいだけなんだけど。
優奈のクラス劇『エクストリーム遠山の金さん』は体育館で披露される予定であり、そして開演時間が間近に迫っている。皆、この数ヶ月頑張り続けてきたのを肌で感じていた。聞き届けるぐらいのことはしたい。
「白杖のお嬢ちゃん、困ってるか?」
煙草の匂いに、在校生でも教師陣でもないことは知れた。男の人。背が高い。
「は、はい」
「俺は首堂っていうんだ。此処の卒業生。──何処に用事だ?」
「あの、体育館に」
「じゃあエスコートさせてくれ」
腕が差し出されたのは辛うじで分かる。そっと手を伸ばすと、ゆったりと歩き出したので、そのまま続く。確かに体育館の方向に進んでいた。そして──
──すどう?首堂って言った?
「あの、すみません。首堂さんって、あの、首堂まほろ先輩の……?」
「お、知ってるのか。あれの兄貴でーす。よろしくな」
──突然の家族遭遇イベントだった。
動揺するどころの話ではない。軽く頭が混乱してしまう。
「首堂先輩──あの、まほろ先輩にはお世話になっていて……!」
仕方がないこととはいえ、下の名前を呼んでしまった自分に更に気恥ずかしくなる。どんどん墓穴を掘っていっているような気がして駄目だ。
「はは、あいつがお世話かぁ。人嫌いの人見知りが猫被りやがって。そういやぁ、猫の格好して喫茶店やるとか言ってたな……どうなってんだこの学校。
お嬢ちゃんのクラスは何やるんだ?」
「あ、体育館で時代劇です」
「へぇ、良いな」
「『エクストリーム遠山の金さん』です」
「何て?」
──そりゃあそういう反応になるよねぇ、と優奈は苦笑いを浮かべる他ない。
「見てのお楽しみ、です。是非!」
「そっか、そうだな。ついでだ。見て行く」
「有難うございます」
集客出来た!などとちょっと浮かれたが、喜んでいる場合ではない。相手は思い人の兄。お母さんじゃなくてまだ良かった、と思うべきか。しかし彼と同じ血が流れているのに、随分印象が違う。声は喫煙の所為かハスキーだが、人懐こくて鷹揚だ。彼が真珠の声なら、その兄は炎の声。対照的だと思う。顔はどうなのだろう。流石に顔を触らせて欲しいとは言えない。
程なくして体育館に到着した時、既に観客はある程度入っていた。人のざわめき。並べられたパイプ椅子が軋む音。大型の扇風機が回っているが、少し蒸し暑い。
「よし、真ん前で見てやろう。お嬢ちゃんも座るか?」
「はい!」
そして我らの『エクストリーム遠山の金さん』が幕を上げる。
──えぇい!しゃらくせぇ!
この桜吹雪を目に焼き付けてぇ──と見せかけて目潰し!
──お奉行様お助け……って此奴が御奉行だったァ!!
──これにて一件落着!ふぅ……塵芥を掃除するのは大変でござい!
幕が下り、戸惑った拍手が響いた。
そりゃあそうだろうな、と優奈は思う。隣の席の首堂兄は力強い拍手をしてくれているが、
「……台本書いた奴、天才というべきか鬼才というべきか正気かと聞くべきか」
「そ、そういう反応になりますよね……御覧頂き有難うございます!」
「おー。面白かったって伝えておいてくれ」
ユウちゃん!と呼ぶ律の声が響く。駆けてくる気配。
「それじゃ、俺はこれで。まほろのクラスも良かったら賑やかしていってやってくれ」
「あ、色々と有難うございました」
気にするな、と笑って首堂兄は去って行った。
ユウちゃん、とまた呼ばれ、何?と向き直ると、凄い勢いで肩を掴まれた。
「今の人誰!?びっくりした!」
「え?びっくり?」
「ワイルド系イケメンだった!誰?知り合い?」
「えっと、首堂先輩のお兄さんだって。道が混んでて、困ってたら体育館まで連れてきてくれて」
「うっそ、家族遭遇イベント!?」
「まさかのイベント発生だったよ。……全然、首堂先輩と似てない感じだったけど、顔、似てた?」
「うーん。違うジャンルって感じ。でも言われてみればちょっと似てるところあるかも。うっわぁ……それにしても凄い偶然だね」
運命かな、などと茶化す彼女に、苦笑する。困っている人がいれば手を貸す。その精神性が似通う兄弟だったというだけだ。
「──良い人だったよ」
「うん、良かったね。さ、撤収終わったら、首堂先輩のクラスに行こう。猫……カフェ?だっけ?どういうこと?」
「どういうこと案件多くない?うちの学校」
軽いお疲れ様でした会を短く終え、皆、文化祭へと繰り出した。
律の先導で、優奈は無事、首堂まほろのクラスへと辿り着いたのだが。
「『2年5組にゃんにゃん好きによるにゃんにゃんカフェ』。御猫様を信仰してるんだね……」
「先輩も猫派っぽかったけど……」
「アカン気配がする」
「突然の関西弁」
いらっしゃいませにゃん!という知らない先輩からの挨拶は色々な意味で結構なインパクトがあった。皆この調子なのだろうか。
「こちらのお席にどうぞにゃん。ゆっくりしていってにゃん!」
──謎の空間に来てしまった感が酷い。あちこちでシャッター音が聞こえる。
「わー、衣装凄い!メイクもそれっぽい!」
「そ、そうなんだ」
「多分あのミュージカルを参考にしてるんだろうけど、凄く凝ってる!」
律に付き合ってもらったが、随分楽しそうなので良かった。彼女のインドア趣味はアニメやゲームのコスプレも含まれている。
しかし目で楽しめない優奈にとって、狙いはただ一つ。
「律ちゃん……首堂先輩、いる?」
声を極力絞って聞くと、律はうーん、と探す素振りを漂わせ、
「いるいる。あ、さっきのお兄さんと一緒だ」
「本当に?」
「……並ぶと圧が凄いなー」
「そうなの?」
「顔面偏差値が凄い」
「そ、そうなんだ……」
お客さま、店内での撮影はお断りしております個人的に、という彼の冷たい声を、優奈の耳は鋭敏に拾った。
「何で来てるのでしょうか警察ってそんなに暇だったでしょうか税金泥棒」
「今日は公休でした残念だったな愚弟。かーさんに画像送るからハイ諦めろ」
「嫌だ」
「俺に締め落とされた挙げ句に撮られるのと、素直に撮られるのとどっちが良い?」
「横暴」
「お前には負ける」
「酒乃に変な校則が出来た元凶が何か言ってる」
首堂まほろもまた家族遭遇イベントの発生に眉間に皺を寄せていた。
──兄、首堂糺。酒乃高校総合学科卒業生。現警察官。
これが普通の喫茶店なら何も文句はないが、何しろこちらはよく分からない扮装をさせられているところだ。家族だからこそ見せたくない。見られたくない。その機微を察していても考慮しないのが、この兄だ。
「あ、たー兄さんじゃないですか!」
「おぉ、永。よしよし、ハイツーショット」
「イェー」
金城永はまほろの肩を組み、ノリノリで撮影に応じた。永の兄と糺は旧知だ。良く知った間柄。彼らは馬が合うらしく、ここにまほろの味方はいなかった。逃げ道がない。まほろは自分が苦虫を煮詰めて濃縮した汁を存分に味わった顔をしていると自覚している。さっさと撤退するが吉、と視線を巡らせれば見知った顔を見つけた。
白杖の彼女、光宗優奈とその友人らしき少女。
そういえば、カフェに来ると言っていた。ならば、とまほろはそちらに足を向けた。
「こんにちは、光宗さんとご友人」
「こんにちは、お邪魔してます、首堂先輩」
「こんにちはー。あの、此処って撮影OKですよね?撮って回って良いですか?」
「構わないよ」
「じゃあちょっと失礼して!また後でね、ユウちゃん!」
律が気を利かせたのか立ち上がり、行ってしまう。優奈はそれに感謝しながらも、少々戸惑っていた。図書館以外で彼に遭遇することはまずない。学年が違えば階が違う。すれ違うのも稀だ。それが今や、彼のクラスの催しにこうしてお邪魔している。非日常だ。
「……先輩は三毛猫って聞きましたが」
「うん。白と茶とオレンジ模様だよ」
「あの……猫耳とか……」
「……付けてるよ」
「その、あのですね、」
「何?」
「にゃんって言ってもらっちゃ、駄目ですか?」
彼は押し黙り、そして数呼吸の後、低い低い声で、小さく、にゃん、と呟いた。優奈は心のレコーダーに永久保存した。
「まほろッ!頼む!!」
金城永は平身低頭、首堂まほろを拝み倒した。対するまほろの目は低温だ。機嫌の悪い猫の目だ。ラグドールが三毛猫に屈服している。未だ扮装を解いていない彼らは、人気のない非常階段にて会議を行っていた。
「今日の後夜祭で歌ってくれ!」
「…………後輩は?」
確か、後夜祭にはあがり症の後輩が頑張ると聞いていた。永は弱り切った顔で溜め息をつく。
「……あいつ、熱中症で倒れちまって。屋外ステージのクラスあっただろ?それがあいつのクラス。この暑さでやられた」
「……穴を開ける、わけにはいかない、かな」
「後夜祭は出られるバンドの数が決まってて、涙を呑んだ奴らだっている。そいつらに申し訳ねーし」
──小さい頃からの友人の、本気のお願いだった。
逡巡しないわけではなかった。抵抗はある。それでも無碍に断ることは出来ない。
「……分かった。──大きな貸しだよ」
「悪ィ」
そこでふと、まほろは思い出した。
──シェルだということを内緒にする、と言ってくれた彼女のことを。
──文化祭の後夜祭。
光宗優奈は斎賀律と共に、観客として冷やかしに来ていた。
有志のバンドがそれぞれコピーだったり自作の曲を披露する。それは高校生のレベルだ。本物のアーティストの腕や声に比べられるはずもない。それでも皆楽しんでいた。学校で味わうライブという非日常に浮かれていた。
──その中に、『ヴァニタス』がいた。
初めは誰かがコピーしているのだと思った。 しかし爪弾くギターの旋律は相当のレベルで。彼らは名乗りもせず、曲は始まり、歌が始まる。
名乗りは要らない、と暗に示されていた。曲で分かるだろう?という驕りと誇りがそこにあり、そして実力は確かだった。
ネットで何百万と再生されている曲が、歌が響く。
それはシェルの歌だった。
本物の、シェルの歌だった。
「…ねぇ律ちゃん」
「なにユウちゃん!この曲ってユウちゃんがよく聞いてるやつだよね!?歌い手って確か──シェルさん、だっけ?」
「シェル、どんな格好してる?誰?」
「えっとね、猫の格好……。え?じゃあもしかして首堂先輩のクラスの……?ていうか、あれ?歌ってるの……首堂先輩!?」
ざわめきが広がり、それは歓声に変わる。
歌は愚民の声など掻き消すように続いている。真珠が散らばる。美しく、煌めいて、シェルの唇から溢れ出す。
──皆 同じ顔
──飽きるほど
──個性 汎用性 凡庸に
──尖ろうとして 出る杭打って
──他人を削って 他人を抉って
──そうしてワタシを象って
──そうしてワタシの大盤振る舞い
シェルの代表作『飽き人』だ。
優奈は思わず唇で歌詞を追う。
生歌だ。
生唾を飲み込みながら、優奈は歓喜と絶望とに苛まれていた。
皆がシェルを知った。
シェルが彼だと、首堂まほろだと知った。 それはつい先程まで、彼が登場するまで、内緒だった。秘密にしてほしいと彼が言って、優奈が内緒にすると応えて。秘密の共有。それが嬉しくて、大事な繋がりのように思えた。それなのに。
数曲を歌い終わるとシェルはさっさと舞台袖に引っ込んでしまったらしい。彼の再登場を願い叫ぶ生徒が多数いる中で、優奈は白杖をつき、急いでいつもの場所へ向かった。律の制止する声も無視して、急ぐ。人の波をどうにか掻き分けて。
──彼の居場所に。
──優奈と彼の唯一の共通点。共有出来る場所。
図書館の主は帰還していた。衣擦れの音は恐らく、猫の扮装を脱いでいるのだろう。
「……秘密じゃ、なかったんですか?」
優奈は声に気を付けた。自分がどんな顔をしているのか、分からない。咎めるような筋合いはない。彼が素性を公開しようと、優奈には何の口出しをする権利もない。
「本当は別の子が出るはずだったんだ。けれど、熱中症で倒れたらしくて。どうしても穴を開けられないからってね。頼まれた」
「皆気付いていますよ。シェルが首堂先輩だって」
「そう、メイクもしてたし、あの格好だったけれど。気付く子もいるんだね。君のように」
──違う。皆は今日初めて知ったの、一緒にしないで。そんなことを叫び出しそうになって、優奈はどうにか堪えた。
「……君は不思議な時に泣くね」
鼻を啜って、涙を拭って。優奈は踵を返した。白杖をつく手はいつもより荒い。乱れている。それでも、今はこの場にいたくない。いつもの私が戻ってくるそれまでは。いつもの私でいられるようになる、それまでは。
「ユウちゃん!……どうしたの?」
心配して追いかけてきてくれた律の前では、優奈は何もかも堪えられなかった。ひくっ、と胸の奥が痙攣し始めれば、もう止められない。大泣きの直前だ、と分かる。子どもじみている。もう高校生──と言ったのは彼だったな、とふと思い返す。
律に手を引かれ、人気のない空いた教室へと潜り込む。そして盛大に泣いた。大泣きした。彼女は意味が分からないだろう。わけが分からないだろう。ただ黙って抱き締めて、背を撫でてくれた。頭を撫でてくれた。小さい子にするように。
「わたっ、わたしだけが、しってたのに」
「うん」
「すどーせんぱ、が、しぇる、だって!」
「うん」
「ないしょだって、だけど」
「うん」
途切れ途切れの泣き言に、彼女は相槌を打つ。
「──ばかみたい」
「ううん、馬鹿じゃないよ。大事だったんだね。首堂先輩が悪いわけじゃないけど、悲しかったんだね」
「うん……」
大泣きして、落ち着いた頃には私の瞼は熱を持っていた。何度もハンカチで拭った鼻も何だか熱い。
「…赤くなってるよね?」
「うん、冷やして、落ち着いたら帰ろっか」
「うん。
──律ちゃん」
「うん?」
「有難うね」
「うふふ、お礼が言えるユウちゃんは良い子だねー」
濡らしたハンカチや冷えたペットボトルを閉じた目に乗せながら、優奈と律は何でもない話を続けた。笑いながら。
恋だの愛だの関係ない、他愛のない話を。
文化祭の後は体育祭がある。
秋はイベントが目白押しだ。てんこ盛りだ。天高く馬肥ゆる。動かざる者、肥ゆるのみ。
目がほとんど見えない光宗優奈は、体育祭には縁がない。しかし動きが制限されているが故に、体力維持には特別な配慮を要する。体育の時間でのマラソンでは、体育教師とタスキの端を持ち合い、校庭のトラックを走る。しかし視力障害者専門に訓練されたわけではない彼らには、少し荷が重いらしかった。遅過ぎたり速過ぎたりと配慮するあまりに一定しない走りは、優奈にも負担がかかる。
──思い切り走ってみたい。
──がむしゃらに、好き勝手に、走ってみたい。
そんな優奈の気持ちはインドア派な斎賀律には伝わらなかった。微塵も。
「……ユウちゃん……アクティブだよね……。私は走りたくない……出来るだけ歩きたくもない……」
「えー、律ちゃん、コスプレするからスタイル維持してるんでしょ?運動しないでどうやってるの?ご飯抜くのは駄目だよ、身体に悪い」
「コスプレの為の身体作りはね──コスプレ活動、そう、オタ活であって運動でもダイエットでも在らず」
──ちょっとわけが分からないことを言い出した。
「走るよ?歩いたりもする。食事制限もそれなりに、プロテイン飲んだりもしてるし」
「走ってるし歩いてるじゃない、自主的に」
「運動と思って運動してない……私は推しに近付くために頑張ってるの……良い?運動だなんて言わないで……そう思った瞬間に私の心がべっきべきに折れる。そう、これはオタ活!だから耐えられる!オタ活だから耐えられる!」
「そう……なんだ?」
「そうだよ!そこんとこ、超大事だから!」
「じゃあ私と健康的な”オタ活”しようよ」
「ひぇー……そうきちゃう?そうきます?
──!そうだ!ここでチェス盤を引っ繰り返す!ユウちゃん!コスプレしよう」
「おっと……そうきちゃう?そうきます?」
「まずはコスプレしたいキャラクターを探そう!推しキャラを探そう!よし!アニメ見よう!ゲームしよう!よぉし、やる気が湧いてきたよ!」
「……よかった、ね?」
「どういうジャンルの話が好き?恋愛?ミステリー?ホラー?ファンタジー?和風?洋風?中華風?アラビアンも良いよね!」
──オタクは止まらない。止まれない。圧倒的だ。圧が凄い。
「ユウちゃん、本好きだから……そうだ!文豪がねー」
本当に止まらないからその疾走力に感服するばかりだった。色んなジャンルにアンテナが立っているのも凄い。少し水を向けてみれば、出るわ出るわ。夢中になれるものがあるというのは、本当に強い。
夢中。
それこそ──盲目。
恋のような、愛のような。
──……首堂先輩。
あれからも、図書館に通い続けている。何となく、落ち着いてしまったような、一時期の浮き足だった気分は静まっていた。
彼と優奈は違う──そんな当たり前のことを、飲み込めた。遠い距離に気付いた。見ようとしてなかったもの、見えないくせに、目を逸らしていたものに、漸く向き合えているのだと、思う。
『ヴァニタス』の『シェル』だと知られてしまった首堂まほろは、意外というか当然というか案外に静かに暮らしている。一度、詰めかけた連中がいたそうだが、全て黙らされたという。……図書館の雷帝は徐々に勢力を拡大しつつある……のかもしれない。
男子高校生で、二年生で、図書館の雷帝で、シェルで。忙しい人だ。静かに過ごしたいというわりには、派手な人だ。自身の信条と理想がせめぎ合っている結果なのだろうか。矢張りよく分からない。よく分からないままに好きになって、勝手に傷ついたり喜んだりして。筋が通っていない、と思うけれど、そんな一本気な恋愛なんてあるのだろうか、と首を傾げてしまう。経験値が足りないからそう思うのだろうか。何があっても好き──それが恋は盲目、ということなのだろうか。
──私は目が見えないけれど、『恋に盲目』ではなくなった、のかな?
所詮は言葉遊び。恋愛で刃傷沙汰、不倫、何でもありの世界だ。正解はきっとない。
「──ユウちゃん」
「ん、なに?」
「何だか、良い顔してるよ」
「そうなの?」
ぺたぺたと自身の顔を触ってみるが、いつも通りにしか感じない。ふふ、と律の笑う吐息が漏れる。
「何だろう、顔はそんな変わってないんだけど-、雰囲気?みたいな?」
「よく分からないけど、律ちゃんが良いって言ってくれてるなら、きっと良くなったんだね、私」
「う~、絶対的な信頼感が心に沁みる……!嬉しい……!」
へへ、と笑い合う。照れくさい。くすぐったい。
何でもないことを話し合って、そして優奈はまた、図書館へ向かい、律はそれを送り出す。
いつも通りに。
図書館には首堂まほろ以外にも図書委員達が珍しくたむろしていた。
いらっしゃいませー、という恐らくアルバイトで鍛えたのであろう接客の声が響く。……酒乃高校はアルバイトを禁止しているが。そこは言わぬが花というやつだ。
「なにか、委員会の集まりですか?お邪魔なら、お暇します」
「光宗さん──彼らは気にしなくて良いよ。……単純にこの間の実力テストで『実力テストなんだから実力で挑む』とか宣って赤点取った反省組だから」
「言わないでくださいよ先輩!あと、生物教えてください!ミトコンドリア!……ミコトンドリアだっけ……あれ?何だっけ?わたしは誰……此処は何処……」
「──駄目だね」
「直球!」
おずおずと優奈は進み出で、招かれるがままに席に着いた。グループワークなどで使用する為のスペースだ。此処では会話も許されている。優奈と同学年の図書委員の声もする。中々の窮状らしく、唸り声を上げていた。
「あの……私、授業を録音してあるけど、聞く?データ渡すけど」
「マジで!?……あー、でもなぁ……聞いても分かるかな……」
「ご厚意に甘えたら?授業中寝てたんでしょ」
「……首堂先輩って……意外に皆のこと見てますよねあんまり嬉しくないところで」
「作業中、勝手に聞こえてくるからね。……静粛を謳う図書委員なのに」
ひぃ、と小さく服従の声を上げた図書委員の一人に、優奈は苦笑いを浮かべる。USBメモリー式のボイスレコーダーを渡しておいた。受け取った彼は有難う!という礼を述べるが早いか立ち上がり、隅のパソコンスペースへと走った。早速ダウンロードするらしい。大分切羽詰まっているようだ。
「そんな感じで、今日は怠惰な図書委員の勉強会、になっているけれど、気にしないで、自分の読書に専念して」
「あの。よろしければ、私も……参加させていただいても?」
「君も成績悪かったの?」
「英語が絶望的です」
首堂まほろは溜め息を吐き、先輩も呼んでくるよ、と出て行った。本格的な勉強会になりそうだ。
先輩、同輩、後輩問わず、そうして集まった図書委員達。受験を控えた先輩達も、構わず参戦してきてくれた。
「勉強の息抜きに勉強を教える……ふふ、スパイラル入ってるわ……!永劫回帰を是としてこそ超人となる……ニーチェは良いこと言ったわ!勉強の永劫回帰とかくそくらえだけど!──人生は勉強の連続?知ってる!」
「教えられるぐらい理解してないと駄目だしな。俺の理解力も試される……!かかってこい!……いや、ちょっと待って、俺、文系、文系だから数学Ⅱの参考書掲げないで死にそう。期待の籠もった眼差し向けないで溶けそう」
──大丈夫なのだろうかコレ。主に先輩達の精神状態が。受験って怖い。人をこんなふうに変えてしまうのか……!
「いや、2年の時からこんな感じの先輩方だったよ」
「あ、ニュートラルでこんな感じなんですね……」
勉強は始まり、踊る。錯綜する。
「イオンって何……?マイナスイオン……?」
「センセーがマイナスイオンに癒やし効果はないって言ってたよねー。あんなにいっぱいマイナスイオンが出て来ます!みたいなグッズ売ってるのに」
「流言飛語に引っ掛からないためにも勉強は必要ってことじゃない?」
かりかりとシャープペンシルがノートを書き削る音は授業中にも聞こえる。けれど、自由に話せるのは勉強会だけだ。勉強は面倒で、でも必要で。こうして苦手教科に取り組む同志と一緒に勉強すると、一体感や連帯感が生まれてくる。困っているのは自分だけでない。皆、それぞれに困っていて、打破しようとしている。
「先輩って、将来就きたい職業とかって考えてます?」
「うーん……方向性はね、あるよ。でも絶対コレ!っていうのはまだかなぁ」
「俺は決まってるぞぅ。リハビリ系のお仕事。あーでも、やっぱり絶対コレ!じゃあないかー」
3年の先輩のリアルな意見だった。
将来。
何も分からない。決まっていない。
「……首堂先輩は、決まってますか?」
彼なら決めていそうな気がした。理想に向かって静かに歩を進める、そんなイメージだ。
「僕は──海が好きでね」
「はい」
「だから──海上保安庁あたりを狙ってる」
「海上保安庁……ですか」
結構予想外のところだった。海が好きだ、という話は聞いていた。深海魚が好きだ、とも。てっきり研究職を目指すものかと思っていた。
「深海魚の研究とかするのかと思ってました」
「それも良いね。心惹かれる。あぁ、絶対に楽しいだろうな……。でも僕はまず……縄張りを守るところから始めたい」
「なわばり」
「そう縄張り。──随分と動物的でしょ?僕の兄も『人間を狩るのは楽しいし、縄張りも守れる』との理由で──警察になった」
「………そうなんですか」
結構斜め上の理由だった。文化祭で助けてくれたあの兄を思う。優奈も彼のいう、縄張りの生き物、だから助けてくれたのだろうか。
「その……音楽関係には進まないんですか?」
「あれは友人と一緒にやってるから楽しいだけだよ。利権が絡むと面倒だし、人生を賭ける気概もない。
そういう光宗さんは?何になりたいの?」
「……私の視力だと、なれる職業が限られていて……多分、鍼灸師とか、そういうのになると思います」
「そう。……なんだか、もっとやりたいことがありそうな顔だけれど」
優奈は思わず顔を上げる。
やりたいこと。
それは、将来就く職業などではない。はっきりと目の見える人にとっては何でもないこと。普通のこと。目先の欲。ただ、やりたいこと。
「そう、ですね。職業とか、将来のことじゃなくて、
──思い切り走ってみたい。
──がむしゃらに、好き勝手に、走ってみたい。
そう、思います」
誰しもが、黙った。優奈の思いは理解してくれただろう。──そしてそれが難しく、危ないことだということも。しかし否定はしたくない。だから彼らは沈黙した。優しさ故に。しかし、
「──万全の注意は払うけれど、不測の事態も生じる可能性がある。それでも走りたい?」
「?はい」
そう、と彼はいつも通りの冷徹な声で、
「君の願い──好き勝手に、がむしゃらに、走りたいという願いに付き合おう。僕で良ければね」
言った。言ってくれた。
しかし優奈は目に関わるあれこれを受け入れ、諦めることに慣れきってしまっていた。たとえ、淡い恋心を抱く相手からの申し出とはいえ、直ぐには飲み込めない。
──いっしょに、走って、くれるの?
かろうじてそれだけを理解する。
深く、息を吸い、吐いて、それから一気に喜びが胸に押し寄せた。
「あの、急に曲がって走ったり、しますよ?」
「スーパーマッシブな兄と追いかけっこをして鍛えられてるよ」
「──あの、本当に、本当の本当に?一緒に走ってくれるんですか?」
「そう言ったよ」
「──!」
後は言葉にならなかった。
嬉しい。有難い。やっぱりこの人は優しくて──大好きだ。
想いが溢れて、唇に力を入れていないと何を口走るか分からない。
思わず立ち上がる。
それから頭を下げ、よろしくお願いします、と噛み締めるように、言った。
うん、彼は軽く受け止め、そしてそれから何事もなかったかようにノートにペンを走らせる。
良かったね、という誰かの声に、はい!と力強く返事をして、優奈は両手で顔を覆った。自分がどんな顔をしているか、分かったものではないけれど、きっと思いが溢れ過ぎている。
「行ってらっしゃい、ユウちゃん!」
「うん。──これ、預かってて」
相棒たる白杖を斎賀律に渡し、光宗優奈は差し出された腕に手を掛ける。腕の主は首堂まほろ。ばっちり体操服のジャージである優奈に対して、彼は制服のままらしい。少し恥ずかしいが、優奈のやる気は制服では相応しくないと断じている。
ある昼休みの校庭に、優奈とまほろは立っていた。校庭の端には斎賀律と、あの時居合わせた図書委員達が見守っている。
「首堂くん、ちゃんと見てあげなよー!」
「紳士たれ、首堂先輩ー!」
今日は折よく、外で遊ぶものはいない。そもそも今時の高校生は校庭で走り回ったりするよりは、教室でゲームなどをしている。不健康だが、今は好都合だ。
引かれるままに、優奈は歩を進める。恐らく校庭の中央へ。
そして彼は立ち止まり、優奈に告げる。
「さぁ、いつでも、何処へでもどうぞ。危ないと判断したら、強制的に方向を変えるから」
「──はい。それじゃあ……行きます!」
彼から手を離し、走る。
一歩目から全力で。
何処に向かっているのかなんて知らない。分からない。一気に身体が熱くなる。肺が広がり、動け動けと急く。腕を振って、足裏に地面を感じる暇もなく、駆ける。
ざ、と併走する気配は確かにある。少し優奈の前を走っているようだった。見えない目で走るという危険極まりないことを、彼を信じて行く。
──これで怪我をしたって、別に、全然良い……!
けれど、その覚悟はきっと、彼の信条を傷付ける。分かっていても、そう思う。転んだって、何をしたって、傷が残っても、構わない。優奈の願望を、叶えようとしてくれている。それだけで、嬉しい。
息が上がる。それでも走る。
──と、不意に腕を柔く掴まれた。
しかし足は止まらない。止まらせないままに、肩と背中に感触。
──くるりと回転させられた。
恐らく障害物が近付いていたのだろう。方向を変えられた。わ、と心で歓声を上げる。胸が弾む。息が弾む。
悪戯心が湧いた。
──何処までついて来てくれるのだろう。
自らもステップを踏んで、回る。何処に向かっているのかなんて分からない。それでも彼は先に行く。先回りする。優奈を優しく手懐ける。あしらう。的確で、冷静。きっと冷徹に観察して動いている。それは分かる。優奈の気持ちなど知りもしない、酷い人。嫌にならせてくれない、酷い人。けれど、きっと、優しいだけの人だったなら、優奈が恋焦がれることはなかったと、そう確信している。
斎賀律は二人が走るのを見ていた。
優奈の恋心を知る彼女の胸はいっぱいだった。
「ユウちゃん……!踊ってるみたいだよ……!」
片や体操服のジャージ。
片やきっちりと着込んだ制服。
ダンスというにはあまりにあまりな格好で、それでも着飾って気取った足踏みなんかより、ずっと──。
「──楽しいね!ユウちゃん!」
図書委員達もまた見ていた。
彼らのトップ、図書委員長と白杖の少女が遊ぶように走る様を。
追いかけっこのようでもあり、踊っているようでもある。あるいは戦っているようにも、見える。
首堂まほろが何故少女の願望を叶えたのか。それは分からない。純粋な善意か、憐れみか。自身の縄張りで従順に振る舞う、いたいけな生きものへの施しか。
彼らは知っている。少女の恋心を。それが叶わないことも知っている。この瞬間が彼女にとって、どれほどの歓喜をもたらすのかも分かっている。少女の恋を応援したいとも思うし、委員長には我が道を行ってほしいとも思う。儘ならない。それが、それこそ、
「くっそ、これがアオハルってやつだー!!」
「行け行け行け光宗ちゃん!!首堂くんもしっかりー!!」
「思いっきり、行けー!」
インドア集団図書委員会が吠える。煽る。大声とは縁遠い彼らが声を上げる。その声はひっくり返っていたり、掠れているが、それでも底抜けに明るく、校舎内まで届く程に響いた。
騒ぎに気付かない者はいない。
そこかしこで窓が開き、何だ何だ何事だ、と顔を覗かせる生徒達、そして教師陣。
「何してんだ、あれ」
「図書委員長と……いつも白い杖ついてる子じゃん。何?鬼ごっこ?」
事情を知らない者には意味の分からない事態。しかしそれでも、
「なんか……楽しそーだな」
優奈の息は上がり切っていた。楽しい。ずっと続けば良いと思っていた時間は、あえなく自身の体力の限界によって終わろうとしていた。
──限界。そう、これ以上足が動かないくらいに、走れた。がむしゃらに。好き勝手に。子どもみたいに。
足が重い。身体が揺らぎ、傾ぐ。もつれた自身の足に転びそうになったところで、引き起こされる。腕をしっかりと支えられて、優奈は足裏に地面を感じていた。
彼は僅かに呼吸が早い程度。あれだけ走り回って、彼を乱せたのはその程度だった。
ひゅうひゅうと喉が鳴る。咽せる。咳き込み、息が整うまで、彼はじっと待ってくれていた。
「……首堂先輩」
「うん」
「有難うございました……」
「どういたしまして」
いつもの静かな声。感情の起伏を読み取らせない声。
「……先輩」
「なに?」
「……先輩、」
「うん」
「大好きです」
「──そう、有難う」
それだけだった。絶対に言えないと思っていたことは、すんなりと口に出来た。叶わないと悟っていて、それでも言えた。好き、に応えてはもらえなかったけれど、受け取ってもらえた。それだけで、満足してしまう自分がいる。ゴールに辿り着いてしまった気分でいる。それが少しだけ寂しい。失恋の痛みとは違う。よく分からない、この寂しさは何だろう。
「──君はいつも、よく分からないところで泣くけれど、今日は泣かないね」
「はい、泣きません。──いいえ、後で泣くかもしれませんけど、今じゃないです」
「そう」
「今は──なんだか、少し寂しくて、でも凄く──幸せです」
「僕にはよく分からないな」
「えへへ、きっと、恋する人間の、特権です」
「そう。──そっか」
ほんの僅かに、彼が微笑んだような、気がした。少しの吐息の乱れも聞き逃さない。だから分かる。分かってしまう。
──もう、本当にこの人は。この上、可愛いだなんて、本当に、嫌な人。嘘。嫌にならせてくれない人。
そうして光宗優奈の恋は終わった。
──君が泣いて、笑っても
──僕は案山子
──僕はガラクタ
──君の愛が分からない
──寂しそうで、嬉しそうで
──君の心を齧りとってしまいたい
──『ヴァニタス』の『シェル』がラブソングを歌った。
既にネットの再生数は凄いことになっているらしい。
光宗優奈は勿論聞いた。拝聴した。友人の斎賀律と共に、タオルを引き千切らんばかりに握り締めて聴いた。リピートだ。永遠にリピート出来る。
「……はぁああああもうなんなの……凄い……好き……」
「限界オタクみたいなこと言ってるよユウちゃん!」
「良いんですー。恋は終わったけど、先輩は好きだし、『シェル』も好きですー」
「『LOVE』じゃなくて『LIKE』ってことだね」
「ちょっと待って……今、その違いを必死に思い出しているところだから……英語瀕死の私に対する挑戦なの……?
ほら、律ちゃんもいつも言ってるでしょ?推しは尊い…。あ、それだ!尊い!首堂先輩もシェルも尊い!」
「……うん!振り切ってるねユウちゃん!いいよ!そのまま沼にドボンしよう?」
「ぬま?沼って……?」
「──覗いたら、最後だよ……」
「なんでホラー風に言ったの?怖いんだけど?」
あれから数ヶ月が経過したが──劇的に何かが変わったわけではない。
相変わらず図書館に通い、首堂まほろと話し、そして帰る。律と共に学校生活もそれ以外も楽しんでいる。
首堂まほろもまた相変わらず、図書館の主として君臨している。予算編成時の図書委員会の強盛は凄まじく、生徒会の頭痛の種になっているそうだ。しかし──『シェル』がラブソングを歌うなんて。何か彼に心境の変化があったのかもしれない。
「恋でもしたのかなぁ……だとしたらどんな人なんだろう?うわぁ知りたい!きっと素敵な人なんだろうなぁ……」
「んー……でもこの歌聞いてる限りだと、恋とか愛とかよく分からない、みたいな感じだよ?」
「作詞作曲までは関わってないらしいし、そこは違うのかなぁ。でもラブソング歌ってくれる心境にはなったんだよね!色んな『シェル』が聞けるぅ!」
「ユウちゃん、オタクの素質バリバリで私、嬉しいよ!」
イェーイとハイタッチする。
恋は終われど、アオハルは続く。
「ユウちゃん、歌聴きながらで良いから衣装合わせするからね!」
「どれー?文豪がスゴイ超能力を持ってる世界線でドンパチやるアニメ?それとも世界各国の英雄が幽霊になって召喚されるやつ?」
「……光宗優奈、落第につきそこに正座ぁ!」
「えぇー?そう説明したの律ちゃんなのに!」
「初心者用の温い説明を真面目に受け止めちゃ駄目ー。ここからは、オタ勉の時間です。文学史と世界史どっちが良い?」
「えっと、世界史なら昨日授業あった、よ?」
「どのあたり?」
「確か…ジャンヌが処刑されるあたりの…」
「はい、こちらのゲーム、ジャンヌダルクが出てきます」
「そうなの?」
「ジャンヌの麾下にして狂気に堕ちた元帥、ジルドレも出てきます」
「へー」
「シャーロック・ホームズのお話、読んだことあるでしょ?」
「うん」
「出てきます」
「えぇ?」
そしてその日はオタ勉で終わって行く。優奈はゲームやアニメを履修しては、このキャラクターには『シェル』のこの曲が合う!と言い出しお互いに好き放題だ。
互いの好きものを尊重していれば、何の不都合もない。
「ユウちゃん、次のコミケでコスプレデビューだからね!」
「よっし頑張ろー!」
と再びのハイタッチ。
「で?どういう風が吹いたら、前まで断固拒否ってたラブソングを歌うまでになるんだ?」
金城永は首堂宅にて菓子を摘みながら、胡乱な目で首堂まほろを見つめる。彼は相変わらずの表情に乏しい顔を、永に向けることもなく、言った。
「『寂しくて、幸せ』んだって」
「……なんだって?」
「好きって言って、有難うって返されたら、そう感じたって」
「オイオイオイオイ、珍しく断片的過ぎて分かんねぇ話し方するじゃねーの」
「プライバシーに配慮したらこう言うしかないんだよ。告白してやんわり断られたのに、寂しくて幸せって……僕には全然理解出来なくて」
「……おぉー」
「君が持って来た歌詞も、恋愛はよく分からないけれど、動悸息切れがするって書いてたから」
「動悸息切れとは書いてねーだろ!中高年のお悩みみたいな歌詞書いてませんー」
「そういうものなのか、と思って興味が湧いたから、実験的に歌ってみた」
永は菓子をバリバリと噛みながら思う。
──情緒が育ったぞコイツ。
彼からは一切相手について触れられていないが、恐らくあの白杖の子だろう。彼に告白して、振られたのは。そしてその時に語ったのだ。『寂しくて、幸せ』。確かに成る程そうだよなーとはならない、新たな恋の終わりの受け止め方だと思う。辛い、苦しいのではなく、寂しい。そして──幸せ。彼女はやり切ったのだろう。告白した自分を誇れたのだろう。だから──幸せだと言えた。言うことができた。
その感情を向けられた首堂まほろは、好奇心を抱いている。人の心の動きについて。あれだけ静かに暮らしたい、心に波風を立てたくない、そう言ってきた、彼が。
「恋は人を変えるとは言うけどよぉ、まさか振った側も変えるとはな」
──恐るべし、というべきか、有難う、というべきか。
縄張りを守るための心理戦でしか、相手を見定めようとしなかった奴だったのに。
「お赤飯だな」
「何?食べたいの?うちの今日の夕食はハッシュドビーフだけど」
「うわ美味しそうだな……!!」
「食べていけば?母さん、いつも作り過ぎるし。この間僕も君の家でお世話になったし」
「今心がぐらぐら揺れてるから。ぐらついてるから!」
「君がぐらついてる時は大体負ける時だよ。母さんに言っておくから」
「あぁ〜お世話になりますぅ……皿洗いとかさせてください……」
──ハッシュドビーフは美味かった。料理は科学、と語る彼の母の手料理は間違いなく美味しい。
そのまま泊まり込み、次の新曲について語り合いというより最早討論しているうちに寝落ちていた。よく覚えていないが、朝、互いに胸倉を掴んでいたので、恐らく紛糾したのだろう。よくあることだ。そういうことにしておく。
──酒乃の雷帝の時代が終焉を迎えた。
時が満ちれば必ず来る──彼の代の卒業だ。
光宗優奈と斎賀律は、卒業式の為の人員としてちょっとした役目を担っていた。式が行われる体育館から出て来る卒業生へと、紙吹雪を散らすという簡単な割り振りに、優奈は喜んだ。私でも出来る、任せてもらえる、と。指先には細かく切った紙の切れ端。
「ユウちゃん、みんな出てきたよ!それぇ!!」
「それぇ!!」
精一杯身を乗り出し、撒き散らす。
きらきらと春の日差しを受けた紙吹雪に、卒業生達は様々な反応を示した。──うわ、凄い──待って待って、セットした髪に付いちゃうってぇ〜──皆、笑っていた。晴れの日だ。ハレの日だ。別れの日だ。
「泣いたり、笑ったり。──私達もあぁやって卒業していくんだろうねー」
「うん。いっぱい泣いていっぱい笑おう」
卒業生達はふと立ち止まり、教師陣や在校生に向き直る。彼らの中の誰かが、せーの、と呼びかけて始まる、別れと感謝の歌。それはどう聞いても、『ヴァニタス』の曲だった。
混声合唱からソロへ──独唱を担うのは、やはり、彼。
──サヨナラだけが人生で
──でもってイツカの再会、夢にしない
──とりあえずイキテみましょう
──とりあえずイキしていきましょう
──血反吐吐いて、もがいても
──やってやったと拳掲げて
マイクを通さない、本当の、歌声は高く低く響き渡った。テノールから一気にソプラノへ。この難所を歌い切れる人間は少なく、更に完成させているとなると、彼以外に──首堂まほろ以外、あり得ない。その声に続く。重なる。卒業生達が歌い重ねる。唸りを上げる。歓喜を吼える。再会を約して高らかに歌う。
泣きながら歌うものもいる。せんせー有難うとしゃくり上げるものもいる。
その中で首堂まほろは──
「──うん、いつも通りの冷徹なお顔してるよ、ユウちゃん」
「だよねー!」
優奈は律の導きで首堂まほろを追いかけていた。──が、同じ目的のものが数人。彼の部下たる図書委員達だ。
「よう、光宗っち!首堂先輩だろ?」
「うん!」
「私達も一言言ってやらないとね!」
「しかし多いな、人!仕方ねぇけど!」
「ハイ、すみません通してくださーい」
「足速くないあの人!?」
そうして漸く、校門前で彼に追いつき──
「首堂先輩!」
皆の声に、彼は立ち止まり、振り返った。
「なに?」
いつも通り過ぎる声に皆苦笑いを浮かべる。この先、会えるか分からないのに。何が起きるか分からないのに。彼は平然と、在る。
「有難うございました!!」
一斉に吠えて、頭を下げる。
その勢いに道行く人々は驚いていたが、構うものはいない。
彼は、鷹揚に頷き、
「こちらこそ──有難う」
そうして彼は踵を返し、正々堂々と名残を惜しまず、皆を置き去りに行く。
その背後に皆声を上げる。
「最高だぜ俺らの委員長!」
「あんたがいれば日本の海は安心っすね!」
「また図書館に来てくださいよ!一般開放日あるんだから!」
優奈は、万感の思いで叫んだ。
「これからもずっと、先輩の一ファンです!!」
End
目指せ!悪者なんていない世界!をモットーに書いたら、想像以上に難産でした…。よろしければ、評価、感想いただければ幸いです。