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すべてはその手の中に  作者: 黒澤ヨカ
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7. 安藤の死(後編)

この先もずっと、時間を殺しながらただ生きるだけーー

そう思っていた。


陰影×青春ヒューマンドラマ。


第7話(後編): 安藤の通夜後、現実にまったく向き合えない葵。部活でも失敗の連続で、周囲から責められてしまう。深い絶望と自己嫌悪の闇に沈んだ葵に、仁が取った行動とは。

 その翌日が、安藤の通夜だった。


 朝からひどく湿気のあるどんよりした日で、夕方からは霧雨が降り始めた。

 葵はカエデとともに、通夜に訪れた。

 セレモニーホールの受付ロビーには、かつての同級生達が集まっていた。皆一様に目を充血させていた。


「なんだか、まだ信じられないよ……」

 いつもは気丈なカエデも涙で顔を真っ赤にしていた。

「うん……」

 葵も下を向いた。

 しかし、これ以上は泣きたくなくて、大きく吸った息と唾を一緒に飲み込んだ。

「昨日会ったのに。そんなに急にいなくなっちゃうなんて」

 顔を覆ったカエデの肩を葵はぎゅっと抱きしめた。


 通夜は沢山の学校関係者とともに、しめやかに執り行われた。

 壁いっぱいの白菊に囲まれた安藤の遺影は、彼らしく穏やかに微笑した写真だった。

 白い花に、白い壁、そして黒ずくめの人々。

 モノトーンの空間と、濃厚な白檀の香りは葵をクラクラさせた。

 心の中の、何色か分からないもやもやしたものが、この世界から拒否されているような気がした。

 遺影は何も語りかけてこない、だが葵にはそれを必要以上に直視することも出来なかった。


 そして結局、葵は一度も棺の中の安藤の死に顔を見に行かなかった。

 到底そんな勇気は湧いてこなかった。

 捧げられた様々な花や思い出の品に囲まれ、静かに横たわった安藤のそばで、こみ上げる嗚咽をこらえて焼香した。


 それが精一杯だった。



 通夜が終わると、出口にどっと人が流れた。

 ぼうっとしながらホールを歩いていると、何人もの人が葵の肩を掠めて追い抜いて行った。


「ちょっとトイレ行ってくるね」

 カエデが言った。

 その間、一人で窓の外を見るともなく見ていた。

 窓に映り込んだ自分の顔に、沢山の水滴が重なっていた。


「北川葵さん……って、あなた?」

 急に名前を呼ばれて、葵は振り向いた。


 まとめ髪で、きちんと喪服を着込んだ若い女性がそこに立っていた。

「安藤弓枝です」


 数秒あけて、先生の娘さんだ、と気づき、葵は急いで深く頭を下げた。

 通夜の間、親族にほとんど注意を向けなかったから、言われるまで分からなかった。


「ーーやめてよ」

 弓枝は、初めから声も顔も怒っていた。

 下げた頭を葵が戻し切るより先に、乱暴に右手を差し出した。


 突如、葵の目のほんの数センチ前に薄茶色のカバーのかかった文庫本が現れた。

「これ。あなたが父に持って来たものでしょ。返すわ」

「……どうも」

 葵は両手でそっと受け取った。

 捨ててよかったのに、と思った。


「――手紙が入っていたわ」

と、弓枝は言った。

 口調の怒気がやや薄れ、代わりに悲哀を含んだ。

「悪いけど読んだわよ。父が最期に、わざわざそんなもの残すなんて。他人のあなたの何をそんなに心配していたのか知らないけど――」

 目に涙をたくさん溜めて、彼女ははっきりと葵をにらんだ。

「そんな陰気な顔、二度と私達に見せないでよね。そうじゃないと、父が浮かばれないから」


 そう言い捨てると、彼女は身を翻した。

 コツコツと響くヒールの音が、冷たく遠ざかって行った。


 例えそれが正当性を欠いていたとしても、葵は彼女の敵意を受けることに異存はなかった。

 むしろ他人の自分が、安藤の死にこれ程の痛みを感じることは正当か不当か。

 いや、そんな思考は全て意味をなさない……。


 葵は両手に持っているものに目を落とした。

 文庫本から、白い封筒の頭がはみ出していた。

(手紙……?)

 本を握る力が少し強くなった。


 しかし、葵はそれを開かずに、すぐに鞄にしまった。

(――そんなもの、怖くて読めない)

 背後から、小走りのローファーの足音が耳に入った。

「おまたせ」

 カエデがポンと葵の肩を叩いた。




 翌日も、葵の気は晴れなかった。

「遅れてすみません」

 いつも一番に朝練に来る葵だったが、今日はマネージャーの中では一番最後だった。

 寝坊した訳でもない、ただ、現実にやるべきことに上手く直面できないのだ。気がつくと、思考停止したロボットのように、何もしない時間だけが過ぎていた。


「いいよ。昨日、中学校の先生のお通夜だったんでしょ? ショックだよね」

 範子が優しく言った。

 葵はもう一度頭を下げた。

(ちゃんとしなきゃ)

 しかし葵は、全くと言っていいほど役に立たなかった。ボール出しで転んでカゴのボールをぶちまけ、部員に頼まれたことを忘れ、ランニングでタイムを計り間違えた。


 朝練が終わると、葵はフォローしてくれた範子に謝罪した。

「すみませんでした」

「私は大丈夫だけど。午後練からはしっかりしてね、チームの皆が困るから」

 範子はチーフらしく訳知り顔で頷いて、葵の肩を軽くたたいた。

 葵は失敗したことが余計に申し訳なく、初めて部活を休みたいと思った。



 朝練が終わって教室に行くと、いつも元気をくれるはずのカエデの「おはよう」は、今朝は聞こえてこなかった。

 葵を見て寂しそうに笑うと、

「今日は、告別式なんだよね。……もう、本当に会えなくなるんだね」

 しんみりと呟いた。葵も頷いて目を伏せた。


 席について、ただ時が流れ過ぎるのに身を任せていた。

 考えることを拒否したいのに、様々な記憶がごちゃごちゃに入り交じって頭の中を往来した。


 昔、公園で飼っていた子猫のことが頭をよぎった。

 それも確か初夏の出来事だった。

 本当の家を持たない小さな存在に、葵は自分を重ねてたびたび会いに行った。


 だがある日を境に、その猫は姿を見せなくなった。

 ねぐらは荒らされ、何者かの悪意ある襲来を伺わせた。

 葵はそこでうずくまって、猫のことを思った。


 そして何日か経って、近所の男の子達がいたぶって遊んでいるのを見てしまった。

 ーーもう干涸びて無惨な姿になったその猫を。


 そして葵は逃げ出した。

 公園から、家から、自分から。

 いつも、自分の力の及ばないところに何か巨大で凶悪な何かが存在し、罪のないささやかな安らぎすらも強奪して行く――。


 葵は頭を覆った。

「北川。顔色が悪いぞ。保健室でも行って来い」

 三時間目の数学教師が言った。


「――いえ、大丈夫です」

 シャープペンシルを持ち直して、机の上のノートに向き直った。

 だが、それは二時間目の古典のノートだった。

 葵は溜息をついた。 


 そして、何ら気持ちの整理のつかないままに、午後の練習を迎えた。

 やはり葵は失敗ばかりしていた。

 範子を含め、マネージャー陣は徐々に苛立ち始めた。

「もうそろそろ気持ち切り替えてよ」

「やる気ないなら、出なきゃいいのに」

「逆に迷惑だよね」

 二年女子が、聞こえよがしに言った。

 ただでさえ六月の公式戦に向け、レギュラーやレギュラーを狙う部員は特にピリピリしている。


 自然、部員の不満も募っていった。

「何やってんだよ! こっちは真剣なんだぞ!!」

 翌日、葵はまたタイムを計り間違えて、プレーヤーに怒られていた。その前にも、ドリンクの補充が出来ていなくて注意されたばかりだった。


 特に練習に厳しい三年の練習に付き合っていての出来事だったので、葵はグラウンド中に届く大きな怒声を浴びた。

「すっ、すみません……」

「何回同じことやってんだよ! 出来ねーんなら、辞めちまえ!」


「おい、そんくらいにしとけよ」

 キャプテンの北川が制したが、

「お前は甘いんだよ」

 三年の牧山の怒りはなかなか収まりそうもなかった。

 牧山は女子にも容赦のない男として有名な部員だったが、連日の失態に周囲はやむを得ないという雰囲気に包まれ、他に間に入る者はいなかった。


 葵は蛇に睨まれたカエルのごとく青ざめた顔で立ち尽くしていて、この事態がどう収まるのか、グラウンド中の視線が集中した。


(本当だ……。こんな私、迷惑だよね。私の居場所なんて、最初からどこにもないのかも……)

 怒られながら、葵自身、自己嫌悪に苛まれた。



 そのとき、仁は近くで武人とパスの練習をしていたが、

「あ、オイ……」

 急にそれをやめてツカツカと葵のところまでやって来た。


「何だよ、三浦。文句あんのか……」

 葵と自分との間に割って入った仁に、牧山が言いかけた時、仁は葵にいきなり平手打ちを食らわした。


 パンッ! ーーと高く大きな音が響き、葵は予想もしない力を受けて、吹き飛ばされるように地面に横座りの格好で倒れ込んだ。


 そこにいた全員が、あっけにとられてそれを見ていた。

「いい加減に目ぇ覚ませ! お前が今いるのは、グラウンドだぞ!」

 舞い上がった土煙が収まると、冷静かつ凄みのある声で仁が言った。


 葵は顔を上げて、真っ直ぐに仁を見返した。


 意志の強い視線が見下ろしている。

 打たれた頬に、無意識に手を当てた。ーー痛いというより、ヤケドのように熱い。


 グラウンド全体が、波を打ったように静かだった。


「ーーみ、三浦ぁ、そりゃ、やりすぎだろ」

 二年生の真鍋が、軽めの口調で沈黙を破った。


 それを皮切りに、皆口々に葵に同情を向けた。

「大丈夫? これで冷やして」

 範子がすぐに保冷剤を持って来た。

「女子に手上げるなんてひどいぞ、三浦」

「しかも顔はない!」

 一気に、仁が悪者のムードになった。


「さすがに俺もそれはやらねーよ」

と、牧山も苦い顔をして仁を見た。

 もう、葵を怒っていたことなど忘れてしまったようだ。


(そうか、助けてくれたんだ)

 葵はやっと、止まっていた映像が再び流れ始めたように、目の前の景色を現実として受け入れることが出来た。


 仁はまだチームの皆から非難を浴びていた。

 彼の勇気に、もう少しだけ頑張る気力がわいた。

 グッと手をついてゆっくり立ち上がると、大きく息を吸った。


「皆さん、色々ご迷惑をかけてすみませんでした。私、これからはちゃんと頑張ります。もう一度、よろしくお願いします」

 そう言って、頭を下げた。


 仁に向かって騒いでいた皆が、また沈黙した。

「ーーおう。全く、しっかり頼むぜ」

 牧山が最初に返事をくれ、キャプテンが爽やかな視線を葵に向けて頷いた。


「いつもの葵ちゃんはデキる子だろ」

「三浦怖さに辞めるなんて言わないでね」

 武人や、他の皆のたくさんの笑顔が帰って来た。

 葵も、笑うことが出来た。

 そして、ざわざわと、それぞれがポジションに戻って行くにつれ、仁も何事もなかったかのように身を翻した。


(あ、……)

 葵は保冷剤を頬に当てながら、彼に謝らなければと思った。




 藍色の空に白い星が点在して、まだ梅雨入り前の空は意外にも澄んでいた。


 葵は街灯の明かりの中、左頬の冷却シートを時折押さえながら、河川敷を見下ろして歩いた。

 頬は部活中より腫れがひどくなって、しっかり留めたはずのシートが落ちそうに感じるほどだった。


 まだ照明の灯っているグラウンドに、探していた人影を見つけて葵は坂を下った。

 ちょうど階段を降り切った時、彼が蹴り損じたボールが足下に転がって来た。


「あ……」

 ボールを追って来た仁は気がついて声を漏らしたが、葵がボールを拾って両手で差し出すと、バツが悪そうに目を逸らした。


 葵は言葉を発しようとして口を半分開いたが、

「――っ!」

 頬が痛んで思わず手を当てた。

 その拍子にボールは地面に落ちてテン、テン、と転がった。


 それを仁は足で受けると、痛そうに顔を歪めた葵に、

「……悪かったな。そんなにひどくなるとは思わなかった」

と、気まずそうに謝った。


 葵はどれだけ出来たか分からないが、何とか微笑んで首を振った。

「三浦くん、悪役になってくれたんだよね。ありがとう」

 声はいつも以上に小さく、言葉も少ないながら懸命に葵は感謝を伝えた。


 思えば先生が亡くなった日のことも、礼を言っていなかった。しかし、口を開くたびに引き攣れる頬が痛むので、そちらの件は治ったら改めて伝えようと思った。


 仁は、言われ慣れない感謝の言葉に僅かに頬を染め、殊に仏頂面を作ってまた顔を背けた。

 しばらく無言でボールを転がしていたが、

「お前には借りがあったからな」

 ボソッと呟いて横目で葵を見た。


(ーー借り?)

 葵が首を傾げて考え込んでいると、

「監督んち。一人より全然いいよ」

 仁はじれったそうに言った。


 やっと意味が分かって、あまりの不器用さに葵は吹き出しそうになったが、頬の痛みで何とかポーカーフェイスを保った。

「ひどい返し方……」

 苦笑しながら憎まれ口をたたくと、仁の表情が和らいだ。


 笑顔、とまでは行かないが、仁にも警戒を含まない表情があることに葵は安堵した。

 仁は葵から少し離れて、またリフティングをしたり、足の方向を変えて様々な蹴り方を試したりした。葵もすぐに帰らずに穏やかな気分でその様子を眺めていた。


 が、程なくグラウンドの時計が九時を指し、照明が消えた。


 最後に仁は足下のボールを踵で跳ね上げ、素早く体を回すと、そのひねりをバネにして右足を大きく振り、後方にあったゴールに向かってボールを蹴った。

 見事な弾丸シュートが決まった。

 照明が消える前に見たかった、と葵は思った。


 仁はゴール近くまで行ってボールを拾い、ベンチに置いた荷物を取って,葵の立っているところまで戻って来た。

「お前も帰るんだろ?」

 葵は頷いた。


 斜面の階段を登って歩道に出ると、

「じゃ」

 葵は言った。本城の自宅へは、この先からバスに乗ることを知っていた。

 葵はこの国道を渡って、住宅街に入る。


「また病院来いよ。兄さん、心配してたぞ」

 挨拶代わりに、仁は言った。

「――うん」

 葵は柊の優しい微笑みを思い出した。


 とても久しぶりのような感覚だった。

 ぽかぽかと、春の昼下がりのような、温かな気持ちになった。そして心地いいのに苦しいような不思議な感覚がして、胸元を押さえた。


「ーーそれから」

 葵が歩き出そうとすると、再び仁が呼び止めた。

「仁でいい」

「……え?」

 何の話かと、葵は首を傾げた。

「兄さんといても、『三浦くん』って呼ぶ気かよ。『仁』でいいよ」

 怒ったようにも聞こえる口調でそう言うと、彼は葵の返事を待たずに、スタスタと歩いて行ってしまった。


 その背中を、葵は目をぱちくりさせながら見送った。


お読みいただき、ありがとうございました。

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