7.安藤の死(前編)
この先もずっと、時間を殺しながらただ生きるだけーー
そう思っていた。
陰影×青春ヒューマンドラマ。
第7話(前編): 安藤の見舞いが日常の一部になりつつあった葵。しかし、それは予想もしない瞬間に、突如として終わりを迎える…
五月も終わりに近づいて、暑い日が続いていた。
湿気も高く、不快な汗が一日中まとわりつくようだった。梅雨の到来も間近に思われた。
いつもの月曜日、葵はカエデと安藤を訪ねた。
ベッドを半分起こしてまどろんでいた安藤は、二人の気配に気づいて目を開くと、ヨイショ、と重たそうに座り直した。
「おう、来たか。松山も、忙しいのに悪いな」
「気にしないでよ、先生。それより具合どうなの?」
カエデが気楽に言うと、「まぁまぁだな」と安藤は笑った。昔の教室を思い出させるその親しげなやり取りを、葵は少しうらやましそうに眺めていた。
それがここでの恒例の光景だった。
傾きかけた太陽のいたずらか、ただの郷愁なのか、いつの間にか葵はそれが永遠に続くような、そして自分がそれを望んでいるような、妙な感覚に陥っていた。
「そういえば葵、お前の気にしていた問題の生徒は、落ち着いたのか?」
安藤に急に話を振られて、葵は我に返った。
「あっ、はい。先生の助言通り、監督に相談したら、すぐに上手くまとまったみたいです」
「何、何の話? サッカー部?」
カエデは不思議そうに安藤と葵の顔を交互に見た。
「それは良かった。手に負えないことは、人に頼っていいんだよ。大切なのは、信じる勇気なんだ」
安藤は穏やかに、しかし凛とした表情で言った。
葵も真剣に頷いた。
一人蚊帳の外で、カエデは愛嬌のある膨れっ面を作った。
「おいおい松山、カエルみたいだぞ」
安藤がからかって、葵も笑った。
「じゃあ先生、また来るね」
十五分ほどで二人は立ち上がった。
安藤もにこやかに手を振った。
病室の前の廊下を歩いていると、遠くから仁が歩いてくるのが見えた。
「あ、三浦だ。葵もこれからまた学習室行くんでしょ? 三浦のお兄さんと……勉強?」
カエデが足を止めて言った。
学習室はこの先の通路を右に折れたところだ。
「うん。――でも、エレベーターまで一緒に行くよ」
徐々に縮まって来た仁との距離が妙に息苦しくて、葵は今すぐに一人にはなりたくなかった。
「そう? ありがと」
カエデは再び歩き出し、仁は葵を一瞥して通路を横に折れた。
「相っ変わらず、無愛想だなー」
カエデが文句を言った。
「お兄さんは感じのいい人だったけど……。でも葵もよくやるよ。そんなヘンな空間よりやっぱり家の方が嫌なんだね」
「えっ、まぁ……。別に学習室にいるのは楽しいよ。カエデも来たらいいのに」
葵はカエデの物言いが心外、と言うように誘った。
するとカエデはギョッとして、右手を顔の前で必死で振った。
「いやいやいやいや、ムリだから。テスト前でもないのに勉強とか、ホントムリ!」
「何その大げさな拒否反応。誰も、無理にとは言わないよ」
葵が苦笑すると、カエデはホッと胸を撫で下ろした。
エレベーター前について、じゃあね、と二人は別れた。
さて、と葵が元来た廊下を戻っていると、目の前のナースステーションからバタバタと看護師が二人飛び出した。
(どうしたんだろう)
何となく目で追っていると、二人が入ったのが、安藤の部屋のように見えた。
葵は妙な胸騒ぎを覚えた。
(…………)
何故か、そこから逃げたい衝動が沸き起こっていた。
しかしそれとは裏腹に、足は一歩、また一歩とそこへ近づいて行く。
急に背後からサッと風が吹いて、白衣の医師が早足で葵を抜かして病室に入った。
「安藤幸雄」と書かれた病室のドアは、ついさっきまで開け放たれていたのに、今は面会謝絶のプレートが貼られていた。
葵は目を疑った。
さっき普通に会話した安藤に何が起こったのか。
パタパタとお構いなしに場面が変わる夢の中にいるようだった。
「安藤さん! 聞こえますか?」
「血中酸素低下してます!」
「血圧は?」
「急いで痰吸引して」
慌ただしく言葉が飛び交っているのが聞こえた。ピッ……ピッ……ピッ……。何かの電子音もしている。
葵が部屋の前で石のように立ち尽くしていると、ドアが開いて、看護師が勢いよく飛び出して来た。
「あ、ごめんなさい」
葵にぶつかりそうになって、看護師は急いで謝って早足で過ぎ去った。
ゆっくりと自動でしまっていくドアの向こうに、ベッドを取り囲む白衣の人々と大きな機械とケーブルや細いチューブが見えた。そんな特別そうな機械、一体どこから出てきたのだろう?
葵はよろよろと背中から壁にもたれた。全身が熱いような寒いようなおかしな感覚で、こめかみから汗が流れるのを感じた。
学習室で、柊は数学の問題に四苦八苦していた。
「あ~、わかんねえ。やる気なくすなぁ」
と、投げやりになりながら両腕をあげて伸びをした。
壁の時計に目をやると、五時半を回っていた。
「あれ、葵、いつもなら来てる時間だよな。仁、知らない?」
弟に目をやると、机に突っ伏して仮眠を取っていた仁が顔を上げた。
「いや……、来るはずだけど」
廊下ですれ違ってからだいぶ経つ。
――あのまま帰ったのか? 別にそうするのは彼女の自由だが、……。
仁は頭をかきながら立ち上がった。
「……ちょっとトイレ行ってくるわ」
柊は含み笑いをしながら頷いた。
学習室を出た仁は、まず実際トイレに行った。
頭がやっと冴えて来て、
(とりあえず、先生とやらの病室に戻ってないか見てみるか)
と、安藤の病室へ続く廊下へ出た。
そして、すぐに葵を見つけた。
(あんなところで何してんだ?)
数歩近づいて、仁は立ち止まった。
普通じゃないことが起きているのが、葵の様子で分かった。
仁は窓の方に視線を外した。
正直、荷が重いと思った。
このまま兄のもとに戻ろうか。
迷っていると、白衣の医師がゆっくりとした動作で病室から出て来た。葵に目を留めて、何か声をかけ、軽く頭を下げて去って行った。
葵は一瞬静止して、ずるずると床にへたり込んだ。
遠くからでも震えていると分かる両手で、口元を覆った。
そのうちに看護師が機械を押しながら出て来て、葵に気の毒そうに声をかけたが、彼女はそれに反応しなかった。
まるで、光も音も失った異空間に閉じ込められてしまったかのように。
通りすがりの見舞客が、怖いものを見るように病室と葵を交互にちらちら窺いながら過ぎ去って行った。
仁は、何も考えずに動き出していた。
「葵!」
厳しい声で名前を呼び、しゃがみ込んで顔を覗いた。
ーー泣いてはいない。
焦点の合わない瞳が瞬きもせず空間を見つめ、空気が薄い場所で呼吸するように、苦しげな息づかいをしていた。
「おい! しっかりしろ!」
仁は肩を揺さぶった。
やっと葵の目が仁を捕らえた。
急に夢から覚めた時のような顔をしていた。
「行くぞ」
肩を抱くようにして葵を立ち上がらせ、一歩一歩、学習室までの道を歩いた。
仁は、簡単に割れてしまう、薄いガラス細工を抱えているような気がした。
それほどの距離ではないのに、たどり着くと、仁まで肩で息をしていた。
柊は顔を上げていつものように笑おうとして、二人のただ事でない様子に驚き、しばし沈黙した。
やがてペンを置き、車椅子を操作して二人に近づいた。
「ひょっとして……」
柊がまさか、というように安藤の病室の方向を振り返り、仁の顔を見た。
「たった今だ」
仁は小声で呟き、それから首を振った。
全てを察して、柊も悲痛な面持ちになった。
「ーー葵」
青白い顔で視線を下に落として動かない彼女を見上げ、柊は優しく声をかけた。
「泣いていいんだ。今、泣かなくちゃ」
葵は充血した目を彼に向けると、引き寄せられるように柊の足下に膝をついた。その瞬間、堰を切ったように涙が溢れた。
「……っ」
柊が慟哭する葵の頭に触れ、それから手を取った。葵は顔を伏せたまま、その手に導かれるままに柊の膝に顔を埋めた。涙はこんこんと湧き出る泉のように、いつまでも流れた。柊は、子猫をかわいがるように、葵の頭をなで続けた。
その二人からわずかな距離を置いて、仁はずっと無言で、壁にもたれていた。
お読みいただき、ありがとうございました。