6.柊
この先もずっと、時間を殺しながらただ生きるだけーーそう思っていた。
陰影×青春ヒューマンドラマ。
第6話:三浦家の事情を聞くため、柊の病院を訪れた葵。そこで知る強さと弱さ。その後、葵はある行動を起こす…。
仁が本城の自宅に呼ばれた同日の午後、葛藤の末に、葵は柊を訪ねて病院へ出向いていた。
学習室でしか会ったことがなかったので、ナースステーションで部屋を聞いた。看護師の案内で向かったのは、外科入院病棟と廊下続きの、リハビリセンターと呼ばれるエリアだった。
葵は、重い足取りで廊下を歩いた。
312、313、……315。
『三浦 柊』
ネームプレートの前で足を止めた。
二人部屋で、下は空欄だった。ドアが解放されていたので、葵はコンコンと壁をノックした。
「はい」
奥の方から聞き慣れた声がすると、葵は唇を引き締め、ゆっくりと中へ歩み入った。
窓際のベッドに柊の姿を認め、
「こんにちは」
と、いつも以上に意識して笑顔を作った。
「……誰かと思った」
月曜日以外で、しかも病室に初めて訪れた葵を見て、柊はとても驚いていた。
「珍しいね。でも、大歓迎だよ。どうぞ、座って」
と、すぐに笑顔で椅子を勧めたが、葵は浮かない顔でそこから動かない。
柊は心配そうに尋ねた。
「何かあった? ――そう言えば、この前の月曜日は来なかったね」
葵は意を決して息を吸った。
「あの……、仁くんは、どうして一人で暮らしてるんですか?」
その問いに、柊はハッと目を見開いた。
「高校から家を出たいとは言っていたけど……」
考え込むように言葉を失った柊を見て、葵は自分がしていることにまた不安になったが、もう引き返すことは出来ない。
「ーー私、月曜日、病院の前でちょうど帰る仁くんとバッタリ会って……」
その日、仁の暮らしぶりを知るに至った経緯を説明した。
「そうだ。確かにあの日、具合悪そうだったよ。オレが『もう帰って休め』って言ったんだった……」
傍にあったカレンダーを見て呟くと、柊は自分の足に視線を移した。
薄い毛布に覆われた二本の足は、他の誰のとも変わらないように見える。
こうして、ベッドに投げ出されている間は。
葵は数ミリも動かずに、沈黙した柊を窺っていた。
徐々に面積を増して来た窓からの朱い光が、音のないこのわずかな時間をずっと長く深いものに象っていた。
葵は答えなど聞かず、今すぐ逃げ出したいような衝動に駆られた。
しかし、じりじりと西陽を受けた葵の足は、そこで機能を失ったように固まって動かない。
ーーついに柊は、決心したように顔を上げた。
「オレの足のこと、話すよ」
葵の心臓が大きく一度鼓動した。
鞄を提げた両手をぎゅっと握りしめた。
「脊髄損傷っていうんだ。二年前に仁と自転車で二人乗りして、転んで腰の辺りを打った。
――坂道でスピード出してさ。二人とも軽い気持ちで、遊び半分で。危ない遊びが好きな年頃だろ、誰だって。
――運が悪かっただけなんだ」
せきずい、そんしょう。
葵は頭の中で繰り返した。
初めて聞く言葉のように思える。
が、柊の口ぶりから、どうやらこの先も治らないらしいと察した。
それから柊はひとつひとつ言葉を選ぶように、ゆっくりと打ち明けた。
「だけど仁はそう思わなかった。オレから夢を奪ったと自分を責め続けて来た。
――オレ、小学生からサッカーやって来て、これでも中学時代はエースストライカーだったんだ。将来はプロになるのが夢で……両親もその気になってたからかな、余計立ち直れないみたいで」
柊は悲しそうに笑った。
そこまで流した涙の台に作られた、繊細で美しい笑顔。
「それから仁と両親はずっと上手く行ってないんだ」
「そうだったんですか……」
葵はただ相づちを打った。
握りすぎた両手が汗をかいていた。
今、どんなに頭を回転させても、うまい返事など見つからないだろう。
「あいつさ、」
柊はぐっと膝の上の毛布を握りしめた。
「オレの代わりにサッカーを始めたんだよ。それまで、いくら誘っても『向いてない』ってやらなかったのに」
「ーーえっ?」
葵は息をのんだ。
始めたのが二年前?
綾西のサッカー部は、ジュニアからクラブに所属してきた人が大半だというのに。
(――そうか)
葵は入学式の早朝のことを思い出した。
そして放課後も仁は毎日真っ先にグラウンドに出ている。
今まで葵は、それを彼がサッカーが好きでやっているのだと思っていた。
しかし、そんなに簡単なものではなかったのだ。
空いている全ての時間をかけて、今よりもっとうまくなろうとしているのかも知れない。
失った兄の夢のために。
(でも、そんなの変だ)
何かが葵の胸の中で渦を巻いていたが、言葉にはできなかった。
「オレは嬉しいんだ、仁がサッカーを引き継いでくれたこと。でも、両親には逆につらいんだろうな」
柊が残念そうに付け加えた。
葵は居たたまれない思いでいっぱいになった。
勇気、あるいは覚悟、を、ある程度持ってきたつもりだった。
だが……自分はそれで何を求めてここに来たのか。
「……柊さんには知られたくなかったかもしれないですよね、家を出たこと。余計なことしてごめんなさい」
葵は頭を下げた。ただただ、申し訳なかった。
しかし柊は微笑んで、
「いいんだ。教えてくれてありがとう」
と言った。
西陽が強く差し込んで、窓の閉まった病室は少し暑いくらいだった。
所在ない様子で目を伏せる葵に、柊はさっきまでとは違う明るい声で、
「そうだ、たまには散歩でもしようよ」
と誘った。
戸惑いを浮かべた葵の返事を待たずに、柊はベッド脇の車椅子に移動を始めた。
動かない足は重りそのもので、その移動だけで汗をかく作業だった。
葵が手を貸そうとして近づくと、
「大丈夫。こんなの大したことないさ。いつもやってるし」
と、断った。
「――じゃ、行こうか」
と、柊が葵を見上げた時、こめかみから汗がキラリと流れた。
葵はポケットからハンカチを取り出して柊に勧めるべきか迷った。事情を知ったことで自分が変わってしまったことに気づいた。がむしゃらにサッカーに走った仁の気持ちが、少しわかった気がした。
「あの、これ良かったら」
病室を出たところで、勇気を出して葵はハンカチを渡した。
「あぁ、ありがとね」
柊はごく普通に受け取って汗を拭いた。その気楽な様子に葵はホッとした。
「押しても、いいですか?」
車椅子の背についたハンドルを指差して聞いた。
「うん、じゃあ頼むよ」
二人は病院の庭に出た。
アスファルトで舗装された通路は様々な木々に彩られ、その通路に囲まれた内側は芝生敷きの広場になっていた。見渡せば、木陰で読書する者、ボール遊びする子供と見守る母親、杖をつきながら散歩する老人……。
ゆったりとした時間が流れていた。
「こんなところあったんですね」
柊の車椅子を押しながら、葵は言った。いつも入る正面入口からは、駐車場しか見えない。
「入院してなければ分からないかもな。よく来るんだ。勉強に疲れたりするとね、気分転換に」
木陰になっているベンチを見つけ、その脇に柊の車椅子を停めると、葵はそこに座った。
柊がボール遊びの子供に目を向けたので、葵もそれに倣った。目線の高さが同じというだけで、ずっと気持ちが楽になった。
「オレ、今でもサッカーが大好きなんだ。そりゃプレーできなくて残念だけど、仁には責任を感じて欲しくないし、オレのために家族がおかしくなってるのもつらい。だからいつか、家族の平和を取り戻したい。そのために、今出来ることを頑張ろうって毎日思ってるんだ。勉強も、リハビリも」
勉強というのは、通信制の高校のことだ。
独りでやることの難しさを葵は思った。強い意志がなければ、怠惰な感情にいつ負けてしまうか分からない。
葵は柊の横顔を見つめた。
眉までかかったストレートの前髪が風に吹かれ、さらさらと流れた。遠くを見る切れ長の瞳は陰影を含んだ深い茶色をしていた。
不思議だった。顔も性格もあまり似ていないのに、芯は同じものを持っている。
やはり兄弟なのだな、と葵は思った。
「ーー強いんですね」
嘆息して言った。
「そんなことないけどね。ありがとう」
柊が照れたように言った。
二人は日暮れまでの時間をこの広場を眺めて過ごした。
広場ではみんな幸福そうな顔をしていた。
ここにいる全ての、弱さを抱えながら強く生きる人々に、葵は心から畏敬の念を抱いた。
「何で体育を四時間目に持ってくるかなぁ」
大杉武人は、一人ぶつぶつと不平を言いながら小走りしていた。
体育はE組はF組と常に合同授業だった。
今日、女子はバレーボール、男子はサッカーで、空腹に音を上げていた武人は、本城が終了の合図をすると同時にグラウンドを後にした。
真っ先に教室へ財布を取りに戻りジャージのまま購買に行くと、本城がまだ外にいるのが目に入った。
校舎と体育館をつなぐ渡り廊下で、誰かを待っているようだった。
程なく、着替えを終えたE・F組の女子がわらわらと更衣室から出て来て、本城は葵に声をかけた。
葵はカエデを先に行かせると、本城に従って人気のない方に移動した。
(……?)
武人は購買に行くか非常に迷ったが、珍しく好奇心が勝った。こっそり二人の後を追った。
二人は体育館の裏手で話をしていた。だが、話が聞こえるほどの距離までは近寄れなかった。
葵は本城の話を頷きながら聞いていて、途中、とても嬉しそうな笑顔を見せた。それを見て本城も笑った。そして葵は深く頭を下げると、校舎の方向へ身を翻した。
武人は驚いて急いで隠れた。
(まあ……マネージャーと顧問だもんな。何にも怪しくねーか)
武人は頭をかいて、渡り廊下まで戻った。
いざ購買に行こうと校舎へ入ると、
「コラッ! 上履きで外に出たな!」
前から来た教師に怒られた。
見ると上履きには泥がついていて、振り返ると廊下に黒々とした足跡があった。
「あちゃー、やっちまった。すいません」
と、武人は上履きを脱いで手で持った。
「掃除しておけよ」
教師は言い残して去った。
仕方なく廊下と自分の上履きを綺麗にしてから購買に行くと、目当てのパンはほとんど売り切れていた。
泣く泣く売れ残りのラスクやジャムパンを買い、
「はぁぁ、大失敗だぜ。さっさと購買行けば良かった」
とむなしく空腹を満たした。
食欲が満足に満たされなかったせいか、武人は放課後のグラウンドで葵を見ると、恨みがましく声をかけた。
「北川ちゃーん。体育の後、監督とこっそり何話してたの? おかげでパン買い損ねちゃったよ」
用具類を出し終わってドリンクを作っているところで、周囲にはもう部員が相当集まっていた。
葵は突然のことに驚いた。
こっそりしていたと思うならもう少し気を遣った聞き方をするべきなのだが、何事もがさつな武人の地声は大きく、周りにいた部員達が葵に注意を向けたのが分かった。
葵は内心とても焦った。
その件で、部に余計な波風を立てる訳には行かなかった。
「あの……」
最大限平静を装いながら、頭をフル回転させた。
どうすれば切り抜けられるか。
「えっと……、あまり言いたくないんだけど……」
「うんうん」
武人はその巨体で近づいて来た。まるで、葵の答えで腹が満たされると思いこんでいるかのように。
「と……、友達に、本城先生に彼女がいないか聞いてって頼まれて」
葵は思いつきで言った。
中学時代、たまたま通りかかった体育館の陰で、女子が好きな男子に告白するのを聞いたことがあったのだ。
一瞬の間があって、
「へーなるほど、そうだったんだ」
武人は納得した顔になった。
隣にいた同じ一年のマネージャー・樋渡加奈も、
「年上好みの子っているよね。でも、監督結婚してるって」と、話に乗って来た。
面白みがないと分かって、武人は葵から離れた。気がつくと周囲もウォーミングアップに散っていた。
「あ、うん。そうなんだってね」
葵は心底ホッとして、頷いた。
ーーと、グラウンドに行きかけた武人が、急に戻ってきて葵の肩をたたいた。
葵は再度ギョッとした。
「てか、その友達って松山ちゃんじゃないよね!?」
「か、カエデ? いや違うよ……」
「そうか、じゃあいい」
武人はニッコリして今度こそグラウンドへ走って行った。
葵はそれを見送って、胸を撫で下ろした。
「あーびっくりしたね。大杉、激しすぎ。ってコレダジャレじゃないからね」
加奈が葵に同情して冗談を言った。
葵は思わず笑いを漏らした。
ドリンクをベンチに運んで、葵はグラウンドを見渡した。
仁はダッシュとランニングを繰り返していた。体調もすっかり本調子で、表情も引き締まり、以前より周囲に声を出すようになった。
(良かった)
葵はベンチの外の眩しい景色に目を細め、口元に微かに笑みを浮かべた。
「よし、次は買い出しかな」
気持ちを切り替えて、グラウンドを後にした。
お読みいただき、ありがとうございました。