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すべてはその手の中に  作者: 黒澤ヨカ
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5.仁(前編)

この先もずっと、時間を殺しながらただ生きるだけーーそう思っていた。


陰影×青春ヒューマンドラマ。


第5話(前編):仁に少しずつ興味を引かれる葵。偶然、仁の抱える問題を知ってしまい……

 三寒四温の気圧配置は、ゴールデンウィークが明けてもずっと続き、サッカー部員たちはこのところ体調不良を訴えるものが続出していた。


「いかんなぁ。この程度の自己管理が出来ないようじゃ」

 本城は愚痴をこぼした。

「まあ仕方ない。体調が悪い者は、無理せず練習を休んで、早く治せよ」


 一年生もだいぶ部に慣れて来たところだっただけに、本城が落胆するのも当然のことだった。六月に入ると、インターハイ予選に向けて部全体を引き締めていかなければならない。


「うちみたいな県立高校にとってインターハイは一番輝かしい舞台なのよ。他の大会みたいにクラブチームが入ってこないから、ある意味で一番フェアよね。クラブと高校の部とでは環境も体制もまるで違うから。それでも勝つことを目指すけど、やっぱり高校サッカーの頂点に立つのは一つの夢だものね」

 範子が葵に言った。


 葵がなるほどと頷こうとすると、

「夢じゃないぞ。目標だ」

 監督が脇で訂正した。

「そうですね、すみません」

 彼女はペロッと舌を出した。


 ウォーミングアップとフィジカルトレーニングが終わり、プレーヤーは三グループに分かれて練習を始めた。先輩マネージャーもストップウォッチを持って各チームに散り、葵は他の一年生マネージャー達とともにドリンクの準備に取りかかった。


 葵は部活動中、相変わらず熱心に労働したが、唯一注意をそらされることがあった。


 時々、仁の様子を気にしてしまうのだ。


 病院で会うようになってからは、特にそうであった。彼が葵に話しかけたのは、最初に学習室に導いてくれたあのときくらいで、それからは病院でも、もちろん学校でも会話らしい会話はほとんどしない。


 しかし、彼はそこに葵がいることを認め、拒むこともない。


(不思議な人だなぁ)

 葵はいつも思った。

 そうして注意して見ていると、彼は葵だけでなく部員の誰とも特に仲良くもないし、教室でも一人だった。


 ただ分かっていることは、彼はサッカーがとても上手く、きっととても好きなのだろうということ。


(でも、サッカーはチームプレーなのに)

 本当に、葵には理解できなかった。



 また月曜日がやって来て、葵は病院に向かった。マネージャーはいつも部員より片付けの分遅くなるので、学習室へ行くと、大体仁は葵より先に来ている。


 葵が病院前の歩道をバス停から正門へ向かって歩いていると、ちょうど出て来た仁を見かけた。

(……?)

 仁の足取りがどこか覚束なく見えて、葵は首を傾げた。険しい表情で、時々、手で頭を押さえている。


 そして横断歩道に差しかかった。

 その瞬間に、歩行者信号は点滅から赤に変わっていた。


「えっ!?」

 気がついていないのか、仁がそのまま横断歩道に足を踏み入れたのだ。


 葵は走り寄って腕を掴んだ。

 と同時に、信号待ちをしていたスポーツカーがアクセル音を響かせて走り出した。


「ちょっと、信号赤だよ! 見えなかったの?」

 葵は急に走ったのと驚きで心臓がバクバクしていた。


「……お前か。悪ィ」

 仁は充血した目で葵を見下ろした。顔色も蒼白で、具合が悪いことは葵にも一目瞭然だった。


「来て!」

 葵は仁を病院へ連れ戻し、いつもの外科棟ではなく外来窓口へ向かった。診療受付は締め切り間近だったが、何とか滑り込むことができ、二人は内科へ向かった。


「うん、まぁ風邪のようだね。このところ暑かったり寒かったりするからねー。お薬出しとくから、それ飲んで安静にして下さいね」

 若い医者は軽い調子で言った。


 大したことがなくて、葵は安堵した。

「熱あるのに部活出るなんて、無茶だよ」

 葵は今日仁がグラウンドにいたことを思い出して、マネージャーらしく小言を言った。


「家まで送るよ。どこ?」

「いいよ。一人で帰れる」

 仁は拒否した。


 が、葵は負けなかった。

「赤信号渡るくらい、フラフラなのに? 死んじゃうよ」

 葵は病院前のロータリーに待機していたタクシーに仁を押し込み、自分も乗り込んだ。


 仁は諦めたように、ぐったりとシートに全身を委ねた。


 だが、行き先を運転手から尋ねられた葵が彼の保険証の住所を読み上げようとすると、それを遮った。

「そこじゃない。緑が丘三丁目××……アメミヤ荘」


 走り出した車は、いつもバスで通る国道を戻っているように見えた。日没時の込み合った道路を避けて脇道に入ってからは、葵ももうどこを走っているのか分からなくなってしまった。


 乗って十五分程度で、車は停車した。

「ここだよ」

 タクシーの運転手が、二階建ての古いアパートを指差した。


「えっ?」

 葵は首を傾げたが、清算を待っている運転手に急かされ、仁と一緒に降りた。


 タクシーが去ってしまった後、葵が困惑して立ち尽くしていると、仁は一人でそのアパートの外階段を上り始めた。

「こ、ここなの?」

 追いかけて葵は聞いた。


 錆びて赤茶けた階段と所々苔むした外壁は、かなりの築年数を感じさせた。

 仁は無言で、階段を上り切って一つ目のドアの鍵を開け、中に入った。


 玄関の明かりをつけると、中は1DKで、散らかった殺風景な様子が薄暗い照明の中に浮かび上がった。


「――もういいだろ。帰れ」

 不機嫌そうに仁は言った。


「でも……」

 玄関の前で葵は、前にも後ろにも一歩を踏み出せなかった。


 状況は彼が一人で暮らしていることを物語っていた。予想もしていなかった衝撃に、葵は言葉がなかった。近くに兄が入院しているのに、この人の両親は一体どこにいるのだろうと思った。


「世話になったな、じゃ」

 仁は、葵を押し出すようにしてドアを閉めた。


 葵は閉じたドアから目が離せなかった。

 謎は考えても一向に解けない。

 ――解けるはずもない。


 外廊下の蛍光灯から届くほの白い光が、その古ぼけたドアと葵のいる場所を頼りなく照らした。

 葵は、仁に押された左肩に熱の感触が残っているのを感じた。


(今、問題はそれじゃない)


 深呼吸すると、葵は肩から下げていたバッグを下ろし、財布だけを持って階段を急ぎ下りた。


 そして二十分後、葵は再び仁のアパートの前にいた。

 ピンポン、と形だけ押したが、ドアが開く前に中に入った。


「何してんだよ」

 奥の部屋から仁の怒った声が聞こえたが、葵は構わずに買って来た物を調理台に広げ始めた。

 額に張る冷却シート、保冷剤、レトルトの粥、ペットボトル飲料……。近くのドラッグストアで買いそろえた。


 奥の部屋へ入ると、六畳ほどの広さの壁際にベッド代わりのマットレスがあり、仁はそこに制服のまま横になっていた。


 鞄も放ったままで、葵を帰らせてそのままベッドに倒れ込んだようだ。

 葵は小さく溜息をついて、仁の額に冷却シートを貼り、保冷剤にタオルを巻いて頭の下に敷いた。


 それから周囲を見回して、部屋の隅にボストンバッグから溢れる衣類を見つけ、そこから適当に着替えを取り出した。

「勝手にごめん。でも、着替えた方がいいよ。その間に、私あっちでお粥温めてくるから……」


 仁は重そうに上体を起こすと、黙って葵の差し出した着替えを受け取った。


 葵は玄関脇の小さなキッチンに向かい、引き出しや開き戸を開けて湯を沸かすための道具を探した。

 しかし棚はほとんどが空っぽで、唯一、古くさい小さな手鍋一つがあるだけだった。それも、前の住人が不要で置いていったような代物……。

 葵はまたため息をつき、鍋を火にかけた。


 お湯の沸くのを待ちながら、葵はつくづく呆れた。

(いったい、普段何食べてるんだろう)

 粥が温まると、仕方なくレトルトの袋のまま仁に持って行き、聞いてみた。

「お皿とか、ないの?」

「ねえな」

 仁はこともなげに言った。


 葵は、もう何も言わないことに決めた。

 さすがに袋では食べにくいので、湯煎した鍋のお湯を捨ててそこに入れた。

「食べられる?」

と、スプーンを渡すと、仁は無言で受け取り、あっという間に平らげた。


 思ったより状態がいいので、葵は安心した。薬と水を飲むように念を押して、仁のアパートを後にした。


 少し歩くと、すぐによく知っている道に出た。

 さっきの買い出しで、ここが学校のすぐそばだということが分かったのだ。


(通学のために、ここにしたのかな? それにしては……)

 その夜、眠りにつくまでずっとそのことばかりが葵の頭の中をぐるぐる回っていた。



 翌朝、葵はいつもより早めに家を出た。

 朝練の前に仁のアパートに寄るためだ。ついでという意味では、好都合の場所に彼は住んでいた。


 葵は仁の部屋のドアを軽くノックした。

 返事はない。そうっとノブをまわしてみると、やはり鍵はかかっていない。


(不用心だなぁ。……というより、動けなかっただけか)

 静かに中に入り、

「具合、どう?」

 玄関で小さく声をかけてみた。

 それでも返事はない。


 さすがに眠ってるよね、と葵は思った。

 やや罪悪感を感じながらも、靴を脱ぎ勝手に奥の部屋に入った。


 閉じたカーテンから朝の光が透けて、部屋の中は明るい。

 そのため昨晩感じた以上に、古ぼけて物寂しい雰囲気が露呈していた。


 歩くたびにきしむ、変色した畳の上を出来るだけ静かに進み、仁の枕元に膝をついた。


 仰向けで目を閉じている仁の額から、乾き切ってパリパリになった冷却シートをそうっと剥がすと、額に手を当ててみた。

 熱は大方下がったようだ。

 葵は胸を撫で下ろした。


 念のために新しい冷却シートを貼って、起きた時の食事用に作って来たおにぎりとボトル水を枕元に置いた。

(これでよし)


 再びきしむ畳に気遣いながらそっと立ち上がると、

「全く、ヒマかよ」

 背後で急に声がして、葵は飛び上がりそうになった。


「お……起きてたの」

「今起きた。ーー何時だ?」

 葵は腕時計を見た。

「六時半だけど」

「そうか」

と言うやいなや、仁は起き上がった。


 葵はぎょっとして言った。

「まさか、朝練行く気?」

「当然だろ」

 葵の質問を蹴散らすように仁は答えた。

「だめ! 今日は無理だよ。授業だって、休まなきゃだめ」

 葵は仁の両肩を押してベッドに戻した。


「お前なぁ……」

 また半身を起こし、仁は葵をにらんだ。

 逆八の字に真っ直ぐのびた眉の下で、はっきりとした目が迫力のある眼光を放っていた。葵は心の底では怯えたが、毅然として言った。


「別にどう思われたって平気。その体じゃ無理だから言ってるの。きちんと自己管理できないんなら、一人暮らしなんてやめた方がいい」


 仁は黙った。


 カーテンの隙間から差し込む朝日が、二人の間を幕のように割って入り、光の中で無数の塵が往来していた。


 その沈黙で、葵も厳しく言い過ぎたと思った。

「ごめん、おせっかいで……。もう行くね」


 葵が出て行くと、仁は目眩がして頭を押さえた。

「クソッ」

 呟いて、またこめかみを走る頭痛に眉間をしぼった。



お読みいただき、ありがとうございました。

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