3.病院
この先もずっと、時間を殺しながらただ生きるだけーーそう思っていた。
陰影×青春ヒューマンドラマ。
第3話:葵の恩師・安藤の病気と、仁の兄・柊との出会い。
毎週月曜日は、サッカー部にとって休日だった。
土日に公式戦や練習試合をこなしているので、 平日ながら、この日が唯一のオフなのだ。それが部員達にとって楽しみなのは、言うまでもないことだった。
が、葵はこの時間をとてつもなく持て余していた。
まだ明るい午後、学校を出て河川敷を眺めると、グラウンドも公園も人々で賑わっていた。
葵は大きな溜息をつくと、川沿いの道を目的もなくぽつぽつ歩き始めた。
「葵!」
そのとき、背後から自転車の音とカエデの声がした。とても急いで来たようで、カエデは片足をついて止まると、ハァハァと肩で息をついた。
「どうしたの?」
葵が聞くと、
「会えて良かった。探してたんだ」
息を整えながら、カエデが続けた。
「安藤先生が入院したんだって。詳しいことは知らないんだけど、病院は分かったから、行ってみようよ」
葵は驚いた。
中学三年の担任だった安藤は、葵にとってはただの恩師ではなかった。
カエデは自転車を降りて、言葉を失った葵を心配そうに窺った。
とにかく二人は近場の停留所からバスに乗り、二十分ほどで目的地に着いた。
『桐林医科大学病院』
アイボリー色の建物が、広い敷地に大きくそびえ立っていた。二人はロータリーの先の中央入口をくぐった。
開けたホールには何列も長椅子が置かれ、診療受付をする人、会計や薬を待つ人、病院関係者たちが溢れていた。大病院の夕方は、静けさとはほど遠い状況だった。
「外科棟......あっちだね」
カエデは持って来たメモを開いて、三階の外科病棟に向かった。
エレベーターを出て、二人で安藤の病室を探して歩いていると、
「――あ」
横に延びた通路の先に、葵は知っている顔を見てつい声を上げた。その声に、カエデも目線を追った。
「ああ……。同じクラスの、ええっと、――三浦仁」
カエデが呟くと、仁がこちらを見た。カエデはマズった、とばかりにすぐに目を逸らした。
仁も仏頂面でそっぽを向いたが、仁と一緒にいた車椅子の青年が、にこやかにこちらに会釈した 。
葵はつられて、会釈を返した。
「葵、行こ」
カエデにつつかれて先を急いだが、去り際、葵はもう一度振り向いて軽く頭を下げた。
その後すぐに、安藤の病室は見つかった。
「先生、具合が悪いって聞いたんだけど」
カエデが心配そうに言うと、五十がらみの人の好い顔をくしゃっとさせて、安藤は笑った。
「なに、この歳になると、あちこち故障が出るものなんだよ」
葵は昔から、カエデのように親しげに話すことはできなかった。ただ脇で不安げに黙っている葵に、安藤は穏やかに話しかけた。
「葵も元気にやっているようだな。安心したよ」
「......先生のおかげです」
葵は控えめに笑顔を見せた。
葵の目に、安藤は以前よりだいぶ痩せたように見えた。壁のフックにぶら下がったプラスチックの袋から、レモン色の透明な液体がぽたぽたと管を伝って左腕に点滴されていた。
「しばらく、入院するんですか?」
探るような質問を投げると、安藤は屈託なく笑って、
「そうだなぁ。せっかくだからゆっくり休ませてもらうよ」
とだけ言った。何の病気なのか聞いても、曖昧な返事をするばかりだった。
「――じゃ、先生、また来るね。とりあえず様子が分かってよかったよ」
と、カエデが明るく笑って立ち上がった。
葵もカエデに付いて病室を出たが、どうも気持ちは晴れなかった。
廊下をエレベーターへと戻る途中、通りすがりに、葵はさっき仁たちがいた通路に目をやった。
頭上を見ると、『ここから先はリハビリテーションセンター』と案内がある。併設の別施設で、ちょうどここが連絡通路となっているようだ。
その通路の途中に、部屋があった。
ドアには『学習室』と書かれていた。
(この部屋に、入ろうとしてたのかな)
葵が立ち止まっていると、
「おーい、行くよ。また来週ゆっくり来ようよ。サッカー部、月曜は休みなんでしょ」
カエデが言った。葵は頷き、その場所を後にした。
次の月曜、葵は病院へ向かう前に、ひとりで本屋へ立ち寄った。
残念ながら、カエデは家の用事で行けなくなってしまったのだ。無口な自分では安藤の慰みにはならないと思い、本でも差し入れようと思いついた。
文庫本のコーナーに来て、いざ選ぼうとすると、大量の本に閉口した。国語も読書もあまり得意でない葵が、国語教師の安藤に薦められる本など見つけられそうもなかった。
(どうしよう)
と、悩んでいると、ふと知っている作家の名前が目に留まった。
(あ、これ......)
反射的に手に取った。
安藤は先週と変わらず、笑顔で葵を迎えた。
点滴用の針を刺した左腕は、痛々しい青紫の斑点模様になっていて、葵は目を逸らした。
「これ、差し入れです」
葵が本の入った袋を手渡すと、
「そんな余計な金使わなくていいのに」
と困った顔をしながらも、受け取って袋の中を覗いた。
「おお、こりゃ名作だ。じっくり読むよ。ありがとう」
安藤は微笑んだ。それで葵も安堵した。
「――そういえば、このフロアに学習室っていうのがあるんですね」
沈黙が続いて気まずくなり、思いついて口に出すと、安藤は知らなかった。
「先週通りかかって、覗いてみたんです。小さな図書室みたいに本がたくさん並んでましたよ」
「ほう。それはいいな」
「誰でも使っていいみたいで......」
葵がそう言いかけると、安藤は顔を曇らせた。
「相変わらず、家に帰りたくないのか」
「あっ、いえ、そういう意味じゃないです」
葵はごまかした。安藤にまた心配をかけたくなかった。
「じゃ、そろそろ帰りますね。来週はカエデも来るって言ってました」
わざと早めに立ち上がった。
「そんなに心配してくれなくていいぞ。若いんだから、こんなオヤジのところになんか来ないで、デートでもしなさい」
安藤の言葉に、葵は苦い顔で吐息した。
「先生こそ。病気を治して、早くご自宅に帰ってくださいね」
「こりゃやられた。もっともだなぁ」
安藤は朗らかに笑い、葵に手を挙げた。
病室を出て、まっすぐエレベーターへと歩いていた葵は、やはり引き返して学習室を覗いてみた。
ガラス窓の向こうは学校の教室分くらいの広さで、正面の壁際に本棚が並んでいた。
両脇には六脚ほどの学習机と、隅の方にパソコンも数台設置してあり、中央には緩やかな流線型のテーブルが二つ。
だがその良好な設備環境にも関わらず、中はがらんとして、見たところ使用者はたった一人だ。
(あ……)
その一人ーー中央テーブルで熱心に勉強している青年ーーが、先週見た仁の知り合いだと葵は気づいた。
さっきまで持っていた、
(少しだけ入ってみようか)
という思いが、一瞬でしぼんだ。
(やっぱり帰ろう)
と、諦めたとき、すぐ後ろから声がした。
「何やってんだ?」
振り向くと、他でもない、仁そのひとだった。
不意を突かれ、当然、葵は心底から驚いた。声も出せずにいると、彼はいぶかしげな表情で、
「そんなにビビんなよ。先週もここで会ったろーが」
と、ごく自然に口を開いた。
「う、うん」
葵はまた驚いた。
彼とは、部でもクラスでもほとんど会話したことはない。彼が自分を見知っているということを、今初めて感じていると言っても過言ではなかった。
しかし、何とか葵も普通に話そうと努めた。
「あの、私の中学の先生が入院してて。お見舞いの帰りなんだ。――三浦くんは?」
「......」
仁は直接質問に答えずに、
「来いよ」
と、学習室のドアを開けた。
その音に気付いて、中の青年が軽く手を挙げた。
葵は緊張しながら、言われるがままに足を踏み入れた。
明るい部屋の中は、木と本の清廉な香りに満ちていた。
青年は、葵を見てまた微笑んだ。葵は、森林の澄んだ空気に出会った心持ちがした。
「――あ、サッカー部マネージャーの北川葵です」
はっと我に返ると、あわてて自己紹介して頭を下げた。
「見舞いの帰りだってさ」
仁が付け足した。
「先週も会ったよね。仁の兄の柊です。マネージャーさんか。弟がお世話になっているんだね、ありがとう」
「えっ、いえ、お世話だなんて......」
恥ずかしくなって、隣にいる仁を見上げると、彼はそっぽを向いていた。
柊は気にせず、
「こいつ、愛想ないけど勘弁な。悪気はないんだ」 と、いたずらっぽく笑った。
仁はますます仏頂面になった。
葵は不思議だった。話す気もないのに、なぜ中に入れたりしたのだろう――。
そして逆に、突然の部外者をいとも簡単に受け入れる、車椅子の兄。色白で、眉にかかりがちな黒髪を左右に流した下に、切れ長の瞳と薄めの唇。シャープな印象の顔立ちに、柔和な表情が乗っている。
仁は表情や態度は鋭いが、本来の顔立ちは幼さが残っていて――
「......似てないんですね」
思わず言葉にしてしまって、すぐに葵は両手で口を押さえた。
軽い沈黙が支配した。
「す、すいません。別に変な意味じゃなくて......」
葵が青ざめて謝ると、柊がこらえ切れないというように下を向いてクスクスと笑った。
「いや、気にしないでよ。昔からよく言われるんだ。大体、仁が無愛想すぎるからさ......悪口に聞こえるんだよな、お前にとっては」
仁は兄に「笑い過ぎだよ」と口を尖らせた。
「だって、その反応、久しぶりに見たから」
二人が怒っていないことに葵はホッと胸をなで下ろした。兄弟の打ち解けた空気にも、緊張が和らいだ。
「君は、兄弟とかいるの?」
笑いが落ち着くと、柊が聞いた。
葵はわずかに目を泳がせて、小さく答えた。
「姉が一人いますけど......、ちょっと歳が離れてて。もう、家にはいないんです」
「そっか、それは寂しいね」
「ええ......」
本当はそうなる前から、ろくに会話のない間柄だったが、黙っていた。
仁は、いつの間にか空いている椅子にどかりと荷物を置き、柊の隣にのけぞるように座っていた。 いつもそうしている、というような、自然な態度だった。
「じゃ、私そろそろ帰ります。お邪魔しました」
葵が居辛くなって切り出すと、
「そう? 気を遣わなくていいのに」
柊は名残惜しそうな顔を向けた。
「またお見舞いに来たら寄んなよ。オレ大体ここに居るからさ。見ての通り、他に来る人もいなくて。 退屈なんだ」
柊が柔らかな声で言った。
葵は頷いた。
社交辞令ではなく、惹かれるものがあった。
家に着くと、七時を過ぎたところだった。
亡き祖父から受け継いだ古い家は、かつての隆盛を象徴する大きな二階建ての建物だった。
祖父については、大学病院で外科部長まで務めたということ以外、葵は何も知らなかった。
しかし、固く冷たい鉄の門扉や、何本かただ生えている細い樹木、庭を放置するためだけに流し入れたコンクリートの風化した姿――すべてが衰退の跡のようで、ただ不気味だった。
ドアの鍵を開け、観音開きの片側だけを小さく開けて玄関に入り、電気を点けた。
義父はまだ仕事から帰宅していない。母は月曜は決まって夜勤だった。
当然、家の中も薄暗く、ひやりとして人気はなかった。
一人では広すぎるダイニングで、葵はいそいそと自分だけの食事を済ませた。それから逃げ込むように二階の自室に入り、鍵をかけた。
義父と二人になる日は、一切顔を合わせないようにしていた。それは、彼が法律上の父親としてこの家に来たその時から、ずっとだった。
義父・北川は製薬会社勤務の良識ある中年サラリーマンで、ごく穏やかな人物だ。
しかし葵にとっ ては、思春期に突然家に入り込んできた赤の他人であった。それがどのような合理的な理由であれ、理屈では割り切れない嫌悪感を抱くには十分だった。
制服を着替えると、葵は机に向かい教科書を開いた。
精神が悲鳴を上げそうなときは、決まって 勉強に集中した。学校の試験問題は、必ずそこに答えがある。その安心感だけが、葵の救いだった。
まもなく、玄関のドアが開く音がした。それから階段を上ってくる音。その足音が、葵の部屋の前で止まった。
「――おかえりなさい」
ノートに向かったまま、葵は小さな声で言った。
「ただいま。――今日は部活、早かったんだね」
ドア越しに彼は言うと、そのまま奥の寝室へ行った。
それだけのやりとりで、葵は十分疲労した。
頭を手で覆って溜息をつくと、また意識を机に集中させた。
(――でも)
葵は柊の顔を思い浮かべた。
清々しい風が胸を横切った。
(来週、本当にまた行ってみよう)
そう思うと、以前よりも月曜日の訪れが怖くなかった。
お読みいただき、ありがとうございました。




