17.カエデと葵の母
天高く輝く太陽に、どこまでも突き抜ける青い空と、積乱雲。
真夏の開放的な暑さの中、カエデは、すぐ下の弟・啓斗と近所のスーパーに来ていた。
「まったく、何でこんな日にこんなことさせるかなあ。夏休みに入った途端コレだもん。お母さんは私を家政婦か何かと間違ってるんじゃないの」
ブツブツ言いながら、頼まれた食材をカートの中に入れ込んで行った。
「人のこと言えんのかよ。何でオレまで付き合わされなきゃなんねーの? 頼まれたの、姉ちゃんなのに」
啓斗も文句を言った。
「バカ言わないでよ。こんな大量の買い物あたし一人で運べる訳ないでしょ。大体大食いなのは誰よ」
「姉ちゃんだって大食いなくせに。少しはダイエットとかしろよ」
「余計なお世話だっつーの」
姉弟は遠慮なく不満をぶつけ合った。
店内を一周してメモの食材を全て入れ終わり、レジへ向かうと、会計の列はどの列も商品棚の奥まで続く長さとなっていた。
「特売日の昼過ぎって、こんなに混むのぉ」
カエデと啓斗はげんなりして列に並んだ。
「全く、夏休みなんて家にいるもんじゃないわね」
カエデは更にグチった。
すると啓斗はニヤリと笑った。
「オレは来年こんな事しないぜ。綾西のサッカー部に入るんだ」
「ええ? あんたウチの高校来る気なの?」
カエデはウンザリ顔になった。
「しかもサッカー部なんて……。強豪なのよ、あんたみたいな初心者がやって行けるワケないでしょ」
「大丈夫だよ、運動神経には自信があるんだ。体育でサッカーした時だって、めっちゃイケてたから! 先生に『お前、今からでもサッカー部に来い』ってスカウトされたんだぜ」
啓斗は高校に合格してもいないのに、得意顔だった。それから思い出したように、やや眉をひそめて、
「ていうか、葵は本当にサッカー部のマネージャーやってるんだよな?」
と、姉に確認した。カエデは訳知り顔になって、
「ああ、そういうこと。それこそ不毛な努力だと思うけど」
小馬鹿にするように笑った。
「うるせえなぁ。それだから彼氏出来ねえんだよ」
「ちょっとぉ……」
二人がまた姉弟ゲンカを始めた頃には、列はだいぶ前に進んだ。
商品棚の通路に作っていた列から抜けると、隣のレジに並ぶ列が見渡せた。
ふと見ると、カエデはすぐ隣の前方に、見知った女性の姿を捕らえた。
(あれは……、もしかして)
斜め後ろからのアングルで分かりにくかったが、姿形だけでなく、醸し出す雰囲気がカエデを確信づけた。
そう気付くと、カエデは落ち着かなくなった。彼女は、先に順番が回り、すぐに帰ってしまいそうだった。カエデはいてもたってもいられなくなった。
「ゴメン、啓斗。急に用事思い出した。後、よろしく」
弟はギョッとした。
「は?! ウソだろ!」
「本当にゴメン。あんたなら出来る。後で、借りは返すから」
「おい、姉ちゃん――」
カエデは悲愴な顔の弟を置いて、もう買い物袋を下げて店の外へと去って行った彼女を追いかけた。
「待って! 葵のお母さん!」
歩道へ差しかかったところで、カエデは呼び止めた。
彼女は立ち止まって振り向いた。とても驚いた顔をしていた。
「あなたは……?」
追いついたカエデは、息を整えて自己紹介した。
「松山楓と言います。中学の時から、葵の友達です」
葵の母は、納得したように頷いた。しかしまだ疑問を含んだような視線だった。
「ちょっといいですか?」
同じ通りのファストフード店で、二人はテーブルに向かい合った。
改めて目の前に座ると、カエデは何故こんな事をしてしまったのかと口を開くのを躊躇した。だが、葵の母が、
「驚いた。あんな呼ばれ方、初めてかもしれないわ」
と、半ば独り言のように言うと、カエデはカチンと来た。
「初めて?」
露骨に嫌な顔をした。
「それって、母親として失格ですよね」
「――そうね」
彼女は静かに同意した。カエデの用がどのようなものなのか、すぐに察したようだった。空気を飲み込むような深い色の瞳は、葵のものと良く似ていた。
しかしカエデは、言わずにはいられなかった。
「人を救える医者であることも、自分の仕事で輝けることも、すごいことだと思います。でも、そのために葵を犠牲にし過ぎだとは思いませんか」
「ええ。そうね」
彼女は再び静かに同意した。その上で、カエデの真の思いに対する答えを続けた。
「でも、もうずっと、あの子は私との接触を拒んで来た。そう簡単に修復できるものではないわ」
「――冗談じゃないわ」
カエデは逆上した。
「家族に戻ることを、母親のあなたが諦めるなら、絶対に修復なんて出来るわけない。葵は、家を拒否することでやっと自分を守って来たんだよ。それをあなたがきちんと謝らなかったら、葵はいつまでたっても心から家へ帰れない」
彼女は目を伏せて聞いていた。たがが外れたように、カエデは更に責め立てた。
「葵のことを思ってる風で、適当にごまかそうとしてるんじゃないですか」
「……そうかもしれない」
葵の母は言った。カエデは言葉を飲んだ。
「でも、愛情の形というのは、色々あるの。あなたは若く、未熟だわ。葵と私が、この先どう和解したとしても、あなたとあなたのお母さんのようになることはないでしょう。それが分かってもらえないうちは、私はあなたにとって敵なのかもしれないわね」
カエデは納得行かなかったが、これ以上何も言えなかった。頭脳も経験も、勝ち目がないと思った。
口をつぐんだカエデに気の毒そうに微笑んで、葵の母は立ち上がった。荷物を持ち直して席を立つと、
「そういえば、知っていたら教えて欲しいのだけど」
ふと思い出したように訊いた。
「葵には、体の不自由な友達がいるのかしら」
カエデは顔を上げた。
「――え?」
一方、啓斗は大きなレジ袋三つにこれでもかと詰め込まれた食品を四苦八苦して運んでいた。
「ちくしょー、マジあいつ殺す」
川沿いの道まで来て、地面に袋を置いた。重さで細くなった持ち手が食い込んで、手の平に真っ赤な跡がついていた。それに息を吹きかけながら休憩していると、
「啓ちゃん?」
すぐ目の前に、葵が首を傾げて立っていた。部活からの帰り道だった。
「どうしたの。すごい荷物だね」
「う、うん。夕食の買い出しだよ」
啓斗は打って変わって軽そうに袋を持ち上げた。すると、勢いで袋の持ち手が切れてしまった。
「うおっ!!」
中身が地面に落ちてしまい、二人は慌てて拾い集めたが、啓斗は溜息をついた。
「あーあ、どうやって持って行こう」
葵は肩を落とす啓斗を微笑ましく思った。
「大丈夫、一緒に運んであげるよ。これあるし」
と、スポーツバッグから小さくたたんだエコバッグを出した。
葵はまず残りの二つのレジ袋から重い物を少しエコバッグに移動し、それから落とした食材を丁寧に詰めてバランスを取った。
「ね、これで運びやすくなったでしょ」
そう言ってエコバッグを自分で持ち、啓斗に「行こう」と声をかけた。一つ年下の彼は泣き出さんばかりに葵に抱きつくまねをした。
「ホント、葵は姉ちゃんとは全然違うな。頼りになるし、優しいし」
葵はただ笑って、
「そんな風に憎まれ口言えるの、いいなあ」
と言った。
カエデの家に着くと、母が出迎えた。
「あら、葵ちゃん! 久しぶりね。やだ、買い物手伝わせちゃった? でも、カエデはどうしたの」
「姉ちゃん、バックレたんだよ」
啓斗が玄関で不平を漏らしていると、奥から「わー!」と男の子が二人走り出して来た。
「葵だ! ねえねえ、遊ぼう」
「オレと!」
「ダメ、オレと!」
葵にまとわりつく少年二人を、啓斗が押しのけた。
「馬鹿野郎! 葵は疲れてんだ」
「え~」
「兄ちゃんうるさーい」
二人は頬を膨らませた。葵は苦笑した。
「いいよ、私で良かったら、全然」
「上がって上がって。せっかく来たんだから、ゆっくりしておいで。コイツらうるさいけど」
カエデの母は豪快に葵を招き入れ、それから仕事場に消えた。
「全く、仕方のないヤツらだよ」
啓斗が今度は兄の顔で溜息をついた。
葵は奥の部屋へ少年二人に手を引かれて行った。
カエデが玄関に入ると、中から騒がしい声が聞こえた。
リビングのドアを開けてみると、葵を囲んで男三人がテレビゲームをしていた。コントローラーを持って、本物さながらにボーリングをしている。葵もキラキラと楽しそうに笑っていた。
「――あ、おかえり」
試合が一区切りして、葵が気付いた。
カエデは急いで笑顔を返した。
「た、ただいま」
「姉ちゃん、何してたんだよ。葵と途中で会ったから良かったけど、大変だったんだぞ」
開口一番、啓斗は文句を言った。
「ごめんごめん。でも良かったじゃない。むしろグッジョブ、あたし」
カエデは、葵の母と会ったことを胸に秘めながら軽い調子を努めた。
「まさかこんな事に巻き込むとは。ゴメンね、葵」
「ううん、楽しいよ」
葵は頬を紅潮させて言った。言葉通り、楽しんでいる様子が感じられた。
「何か、久しぶりだね。ウチ来るの」
「ホントだね、高校に入ってから、一度も来てなかったね」
「夕食、食べてくでしょ?」
カエデはキッチンに入りながら言った。
「え、でも……」
「遠慮しないで。――ついでに、手伝って」
カエデはいたずらっぽくウィンクした。葵は吹き出して、
「了解」
と、おどけて手を額にかざした。
カエデ一家との夕食は楽しいものだった。慣れ親しんだ人々との、穏やかな時間。葵にとっては、本当の家族よりも家族らしいひとときだった。
「――すっかり遅くなっちゃった」
帰り支度を始めた葵に、
「夏休みなんだし、泊まって行けばいいのに」
カエデは残念そうに言った。
「ありがと。でも、帰らないと。明日も部活だしね」
本当は、外泊すると二度と家に帰れなくなりそうで怖かった。
「オレ、送るよ」
啓斗が率先して立ち上がったが、
「あんたには百年早いわ」
と、カエデが阻止した。
「あたしが行くから」
「え、大丈夫だよ」
葵が困ったように言うと、
「途中までね。食べ過ぎたから、腹ごなしよ」
二人は外へ出た。蒸し暑い空気がムッと押し寄せた。自転車をガレージから出しながら、
「暑っ」
カエデが顔をしかめた。
電柱の上の照明は、虫がたかってぼんやりとしていた。
二人は言葉少なく歩いた。さっきまでの喧噪が嘘のようだった。何か伝えたいことがあると、人はそれ以外のことは口に出せなくなるのかもしれない。
葵の家のある住宅街に入る手前に、小さな公園があった。植木で囲まれた敷地に、鉄棒やブランコ、コンクリートの山などがある。
「懐かしい」
カエデは呟いた。
「覚えてる? あたし達が初めて会話した時のこと」
「覚えてるよ。私があの山のトンネルに逃げ込んだら、カエデが先にいたんだよね。あの日は、雨が降ってて……」
葵も遠い目をした。
*************
狭いトンネルの中に、ピシャピシャと雨の音が響いていた。
中学一年生の夏、カエデはとてもいじけていた。自営業の親は厳しく、小さな弟のいるせいで、カエデの自由はいつも制限されていた。少しの甘えも、欲しいものも簡単には許されなかった。近づく自分の誕生日にねだったものが高価すぎるとはねつけられ、家を飛び出した。
(あんな家、二度と帰るもんか)
そう思って周囲を顧みず走った。
しかし、何も持たずに出て来たので、だんだんとのども乾き、空腹も感じて来た。かといってすぐに帰るのはプライドが許さず、とぼとぼと歩いていると雨まで降って来たのだった。たまたま見つけた公園に雨宿りできる場所を見つけ一息つくと、不安は余計に押し寄せて来た。そのうちに涙が込み上げて来て、立てた膝に顔を埋めた。
――ジャリッ……
トンネルを覗く誰かの気配に、カエデはびくっとした。もう辺りは日が落ち始める時刻、逆光になったその人物が何者なのか、カエデは恐れた。
「……松山、さん?」
戸惑った声でその女は言った。
「泣いてるの?」
彼女はかがみながら言って、そっとトンネルに入って来た。お互い存在が確認できる距離まで来て、ポケットを探ると、彼女はカエデにハンカチを渡した。
「……」
カエデがとりあえず受け取ると、ホッとしたように隣に座った。
その時やっと、彼女が同じクラスの木崎葵だと分かった。
「この公園の近くなんだ。うち」
葵は控えめな笑顔を見せた。
「家にいたくないとき、よくここに来るの」
カエデは葵を見た。
「家にいたくないこと、よくあるの」
「うん。お父さんとお母さん、会えばケンカばっかりで」
「そうなんだ」
カエデは考えた。自分の親がケンカしているところはあまり見たことがない気がする。怒るのは、子供をしつける時だけだ……。
「松山さんは、この近く?」
葵が訊いた。
「ううん。初めてこの辺まで来たの。家出してやろうと思って」
「家出? 何かすごいね」
「すごくないよ……。もうお腹空いたし、心細いし、本当は帰りたい」
カエデは涙声になった。
「じゃあ、これ、はんぶんこしよ」
葵は持っていた菓子パンを開けて二つに割った。
「はい」
「え……。いいの?」
葵はにっこりと頷いて、カエデは受け取った。
あっという間に食べ終わって、少し落ち着いたカエデは、葵に訊いた。
「あんたこそ、こんな所によく来るなんて、寂しくないの」
「……分からない」
葵は困ったように笑った。
「私、いつも一人だから。ここは静かで、気に入ってるの」
「じゃ、あたしがいてビックリした?」
「うん。でも、泣いてたから……。そんなに驚かなかったよ」
カエデは前を向いた。
「ウチの親、あたしを召使いかなにかだと思ってるのよ。家事とか、弟の世話とか押し付けてばっかり。欲しいものも買ってくれないし、皆みたいに遊ぶ時間も全然ないんだから」
と、一気に言った後、少しして付け加えた。
「そりゃ、親が頑張ってウチのお店をやってるから、生活できてるって分かってるけどさ……」
葵は見守るように頷きながら聞いていた。カエデは、自分がただダダをこねているだけに思えて来た。
「……帰ろうかな」
「うん。きっと、お母さん達、心配してるよ」
葵が背中を押すように言い、
「これ、使って」
と、傘を差し出した。
「――でも」
トンネルの外は、糸のように雨が降っていた。カエデは受け取るのを躊躇した。
「大丈夫、うち、すぐ近くだから」
と、葵はもう一度差し出した。
「ありがとう」
カエデはそれを受け取ってトンネルを出た。
街灯に照らされた道を、パシャパシャと足早に歩きながら思った。
(あの子の親は、心配してないのかな……)
翌日、カエデは葵に傘を返し、二人は徐々に親交を深めて行った。そしてカエデは、葵のいる世界の闇をまざまざと見て行くことになったのだった。
*************
(そうだ、あの時から、あたしはどんなときもこの子を支えようと決めたんだ)
カエデはぐっと奥歯を噛み締めた。
葵の家が見えるところまで来て、二人は足を止めた。家の明かりが点いている。
「ありがとう、結局ウチまで送ってもらっちゃって」
「全然。久しぶりにゆっくり話せて良かった」
「カエデも、気をつけて帰ってね」
カエデは軽くウインクして見せ、それから、さりげなく口を開いた。
「ところで……柊さん、どうしてる?」
穏やかだった葵の顔から、瞬時に潮が引くように笑顔が消えた。すぐに微笑が戻って来たが、とても悲しい色をしていた。
「最近会ってない。――忙しいみたい、高校の単位とるのに」
「えっ――」
それはつまり、来るのを拒否されたということか。彼は常にあの病院にいるのだから、そうとしか考えられない。
(それでも、彼のために……)
カエデは口を開きかけて、黙った。葵の母に、今日のことは口止めされているのだ。
「ちょっと……寂しいね」
カエデは言葉を変えた。葵は同じ表情で、俯きがちに言った。
「……分からない。最初に戻っただけだし」
その顔が、三年前の姿と重なって見えた。夜の海を漂流するような孤独はまだ彼女の中に同じように存在している。もしかしたら一筋の光となり得た存在すらも、失ってしまった。
――しかし――
しかし、これが柊について自分が望んだ結果のはずだ、とカエデは思った。
「あのさ、……またウチにおいでよ。バカばっかりだから、なんにも考えなくていいし、笑えるでしょ? だからホント、そうしたい時はいつでも。――ね?」
葵は屈託なく笑い、頷いた。
「うん、またね」
そう言って葵は小走りに自宅に向かい、門の前で一度振り返って手を振った。カエデはそれに応えて、自転車にまたがった。まとわりつく湿気に似た、不快な気持ちを振り切るように、ペダルを漕いだ。




