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すべてはその手の中に  作者: 黒澤ヨカ
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14.安藤弓枝

この先もずっと、時間を殺しながらただ生きるだけーー

そう思っていた。


陰影×青春ヒューマンドラマ。


第14話:実父と対峙することの恐怖で身動きの取れない葵の前に、偶然現れたのは恩師・安藤の娘、弓枝だった。彼女は葬式で見せた冷たい表情とは裏腹に、にこやかな態度で葵をある場所に連れて行く。


 期末テスト、三日目の水曜。


 葵は一昨日以来、柊はもちろん、仁のことも避けていた。彼らと会うと、

(私は逃げている)

と現実を突きつけられる。

(逃げて、また逃げて……、どこにも救われる場所なんてないのに)


 午後練が終わり、最も非効率的に仕事を片付けた上で最後に部室を出たが、時計は午後三時半。まだ空には燦々と太陽が照っていた。

 うなだれるように息をついて、行き先も分からないままに国道を渡り川沿いの道を辿った。


 プップー。

 車の軽いクラクションが聞こえ、何となく振り向いた。

 ベージュの軽自動車に乗ってハンドルを握っているのは、安藤弓枝だった。

 葵は表情を硬くして足を止めたが、目が合うと彼女は笑顔で片手を上げた。


「相変わらず元気ないわね」

 ハザードランプを焚いて路肩に停車すると、彼女は窓を開けてそう話しかけた。

 通夜で見た喪服と厳しい表情の記憶が嘘だったかのように、さっぱりとした態度だった。


 それから二言三言会話するうちに、葵は流れで彼女の助手席に乗った。

「お仕事中、ですか」

 グレーのスーツ姿と後部座席に置かれたビジネスバッグを見て葵は聞いた。トートタイプのバッグの口から、クリアケースに入った書類が覗いていた。

「そ、派遣社員さんの営業やってるんだ。って言っても分からないよね。要はあっちこっちで仕事の愚痴聞き係してるのよ。誰にでも良い顔してさ、はいはい、って釣り合いとるの。これがなかなかストレス溜まる仕事でね。でも今日はあと会社に戻るだけだから。――あなたに会えて良かった、ちょっと寄り道しようと思ってたの。付き合ってよ」



 車は国道を走り、バイパスに乗った。一つ目の出口で降りて、程なく広い寺院の駐車場に入った。

「さ、着いたよ」


 葵は車を降りて、周囲を見回した。木々に囲まれた静謐な場所。瓦葺きの門の向こうに、立派な本堂が見える。

「こっちよ」

 門をくぐって、正面の本堂には向かわずに弓枝は左へ行く道を歩いた。


 良く手入れされた植木に沿って小道を進むと、墓地があった。


 その中の一つに、彼女は足を踏み入れた。

 墓石に「安藤家」と彫ってある。葵が数歩後ろで立ち止まると、弓枝が振り返って言った。

「とうとう父も仏になって、ここに入ったわ。つい先日のことよ」

 そしてしゃがんで手を合わせた。まだ生けられたばかりの花が凛と咲いている。


「はい、あなたの番」

 弓枝は立ち上がって場所を空けた。

 少し戸惑ったが、葵はゆっくりと段を上り、しゃがんで墓石を見上げた。黒い石の向こうから西陽が射して、神々しく見えた。


(先生……)

 両手を合わせ、静かに、強く祈った。

(私、どうしたらいいんですか)

と、目を閉じて彼に語りかけて、しばらく動かなかった。


 もちろん、答えは聞こえて来ない。じりじりと暑い陽射しが、優しく叱るように葵を照らした。


 葵は一度目を開けた。

 その墓石は、堂々と、ただそこにあった。それが現実だった。当たり前のことだった。


 そしてやっと気が付いた。答えなど、本当は分かり切っていることに。


(先生、ずっとお世話をかけっ放しでごめんなさい。――でも、私に、もう一度勇気を下さい)

 そして、祈った。


 弓枝がポンと肩を叩いた。

「きっと通じたわよ」

 振り向いて葵は頷いた。



 二人は墓地を出て、駐車場の自動販売機でドリンクを買った。

「はい」

と、弓枝が渡した麦茶を受け取ると、汗ばんだ手にひんやりと心地よかった。

「すみません」

 ベンチに座り、一口飲むと、

「お通夜の日、ごめんね」

 弓枝が言った。


 葵は驚いて彼女に顔を向けた。

「あれから、ホント嫌なことしたなって後悔してたの。――父は、癌が見つかった時にはもう転移もあって、手術を諦めて延命治療をしていたの。急死する可能性も、最初から知らされていたのよ。それでも、ひょっとしたら治るんじゃないか、なんて気持ちも捨て切れてなくて。私、昔からすごいパパっ子だったんだ。……失うことを誰かのせいにも出来なくて、ずっと苛立ってた。だから……ごめんね。当たったりして」


 弓枝は葵から顔を背けるように遠くを見ながら話した。涙ぐんでいるのを隠しているのだと葵は思った。

「いいえ、いいんです」

 大きく首を振って言った。

「お参りさせてくれて、ありがとうございました」

「いつでも、来てあげて。これからも」


 弓枝は向き直って明るく微笑むと、缶コーヒーを一口飲んだ。

 木陰の涼やかな空気が、夏の午後の暑さをひととき忘れさせてくれた。


「もし良かったら、話、聞かせてよ。父が気にかけてたあなたの事、知りたいんだ。――安心して、もう嫉妬とかしないからさ」

 弓枝は照れを隠すように自嘲気味に言った。その謙虚な言葉は、染み入るように葵の胸に届いた。


「あの……、」

 決心の覚束ないままに、言葉が先走った。

「先生にお願いしたこと――聞いてもらえますか」

 目は泳ぎ、声は少し震えていた。

「――うん」

 その真摯な態度に、弓枝は真剣に頷いた。


「私……一番恐れている人に、きっと会わなければいけないんです」

 葵は少しずつ話した。自分と父の関係、仁と柊のこと、そのために必要なこと。

 弓枝は何度も頷きながら聞いてくれた。


 話し終わると、葵はだいぶ気持ちの整理がついた。

「――なるほど、確かに。父なら放っておかないわ」

 呆れたように笑って、弓枝は腕を組んだ。空を見上げるように思案顔をした後、

「信じろ、って、言うんじゃないかな」

 弓枝は呟いた。


「え?」

 葵が聞き返すと、

「あの手紙、読んだ?」

と、弓枝は聞いた。

 そして葵が首を振るのを分かっていたように、

「そんなに怖がらなくて大丈夫よ。大したこと書いてないわ。言ったでしょ、あたし、読んだんだって」

 そう言われて、葵は鞄の中から、茶色い紙のカバーがかかった本を取り出した。上の方から少し、白い封筒が覗いている。


「本当そのままね」

 弓枝がそれを見て苦笑した。

 葵は本を開き、封筒を手に取った。

『葵へ』

と、少し頼りない筆跡で宛名が書かれていた。

 ゆっくりと、緊張しながら中の便せんを取り出す。


  自分を信じろ。

  他の誰でもない、自分を。

  勇気や、覚悟がいるだろう。

  だが、それが、全てだ。


  いいか、全ては、お前の手の中にある。

  それを手にしたいと、お前自身が望むかどうかなんだよ。


  頑張れ。

  がんばれ。


 葵はじっと紙面を見つめ、繰り返し何度も読んだ。

 そのうちに涙でぼやけて読めなくなった。

『大切なのは、信じる勇気なんだ』

 病院で相談したあの時も、そう言ってた……。他人を信じるって意味じゃなかったんだ。

 瞬きを忘れた瞳から、ぽろぽろと雫が落ちた。

 隣で黙っていた弓枝が、そっと彼女の背中を撫でた。

 静かな時間が流れた。


 日が傾き始めて、

「さ、帰ろ。着く頃には薄暗くなるよ。あたしも会社に戻らないといけないしね」

と、弓枝は葵を車に促した。


 言われるがままに葵は本を戻しながら、ふと気付いた。

「この本……私が先生にあげたものじゃないです」

「え? そうなの?」

 車のキーをバッグから取り出しながら、弓枝は首を傾げた。

「でも、最初からそういう風になっていたのよ」


 葵は思い出した。

 持って行ったのは、チェーホフの短編集だった。葵にとって懐かしい思い出の作家の本を、つい選んだのだった。

 だがこれは、太宰治の短編集だ。そして、手紙が挟んであったのは、走れメロスの最後のページだった。


「走れメロス、ねぇ。お父さんが特に好きだったとも思わないけど」

 車を運転しながら、弓枝は不思議そうに言った。

「でも、あたしは結構好きだな。色々あるけど、最後は友情と約束が守られて、ハッピーエンドじゃない」

「ハッピーエンド……」

 葵はオウムのように復唱した。

「そういうことなのかな……」

 呟くと、弓枝は朗らかに言った。

「そういうことでいいんじゃない? 何でも、単純明快に考えないとね」



 葵の家の近くで、弓枝は停車した。

「色々とありがとうございました」

 車を降りると、葵は深々と頭を下げた。正直、彼女の親切が身に余りすぎるような、腑に落ちない気持ちだった。


「気にしないで」

 弓枝は笑った。

「実は、一緒に父を惜しんでくれる仲間が欲しかったのよ。あたし一人っ子だし。あなたから見たらだいぶ大人のくせに、おかしいかも知れないけど、全然立ち直れてないんだよね」

 彼女はまた少し涙を浮かばせた。

 大人なら悲しみに強いということでもないんだと、新しい発見をしたような気がした。


「それと、さっきの話」

 弓枝は口調を戻して言った。

「パパっ子のあたしが偉そうなこと言えないけどさ――やっぱ、もう一度親子としてぶつかってみるべきじゃないかなって思う。だって、どうしたって自分の半分は、父親の遺伝子で出来ている訳だから」


 葵は反射的に表情を固くした。


「……なんてね、余計なお世話。あなたなら大丈夫よ」

 弓枝は独り言のように言って、またね、と走り去った。

 葵はそれを神妙な顔で見送った。


 通りは静かで、時折、遠くから自転車で通り過ぎる少年少女の活気溢れる話し声が響いては消えていった。

 左手首の腕時計を見ると、六時になったところだった。数十メートル歩けば家に着く距離だったが、葵の足は動かなかった。


 立ち尽くしたまま、葵は迷いに迷って、というより、勇気を何とか絞り出して、柊の病院に足を向けた。

 一昨日の事を思い出すと、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。人の気持ちに敏感な彼の事、葵の不審な態度は彼を傷つけたに違いなかった。もちろんまだ、木崎のことは言えないが、自分の中で覚悟が出来た以上、もう一度きちんと柊と向き合って、もう大丈夫だと伝えたかった。



 病院に着いて、学習室を覗いたが彼はいなかった。

 夕食もとうに済み、見舞客も廊下を出歩く患者もごく少ない中で、初めに何を言おうかと考えながら歩いた。


 多少の緊張とともに病室の前で足を止めた。ドアはいつものように開け放たれており、壁をノックしようと手を軽く握ったとき、寸前で葵は止めた。


 楽しそうな、軽やかな女性の笑い声が中から聞こえた。それとともに、柊の穏やかな笑いも。

「優香里さんって、意外と面白いんですね」

「えー、そお? でも良かった、柊くん笑ってくれて」

 綺麗な声が言った。


「これからも、いつでも呼んで。他人の方が気楽って事もあるでしょ?」

「そう……かも知れませんね。今の僕しか知らないあなたは、ある意味一番、フラットな存在なのかな」


「ふふ。そうだ、今度の休み、遊びに来ていい? 他の患者さんにも同僚にも内緒ね。気晴らしに、面白そうじゃない?」

「内緒って? ここ職場ですよ、大丈夫ですか?」

「まかせて! 変装してくるから」

「変装、って……」

 また笑い声が響いた。


 ずっと同じ場所で止まっていた葵の軽く握った手が、少し震えた。

 彼女はそれに気付いて急いで手を下ろし、そこにある気配を全て吸い取るように息を吸った。


 そしてこれ以上ない程静かに、その場所を離れた。



お読みいただき、ありがとうございました。

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