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すべてはその手の中に  作者: 黒澤ヨカ
10/17

8.葵の傷

この先もずっと、時間を殺しながらただ生きるだけーー

そう思っていた。


陰影×青春ヒューマンドラマ。


第8話:柊と仁と葵のモラトリアムは、安藤の死によって揺らぎ始める。カエデから葵の過去を聞いた仁は、葛藤のような感情を抱く。それを持て余し、勢いで彼女を本城家に誘うが…

 中間テストの時期になった。テスト三日前から部活動は原則停止、ということで、金曜だが葵と仁は病院の柊のところで勉強会をしていた。


「はぁー、勉強ってホント嫌になるな」

 仁が弱音を吐くと、

「何言ってんだよ、授業で教えてもらってるだけマシだろ」

 柊が文句を言った。

「オレなんか教科書が先生なんだぞ」

「そうだけどさ……」


 葵は二人のやり取りを微笑ましく聞きながら、現代文の教科書を鞄から出した。

 机の上で開くと、自ずと溜息が出た。

 実は、葵は現代文が一番苦手だった。特に決まった正解がないような、自分の考えを述べさせられるような問いには、嫌悪感さえあった。


「現代文?」

 隣にいた柊が葵の教科書を覗き込んだ。

「うん。でも苦手で」

「何で? オレ一番好きだよ。本を読むのと一緒じゃないか」

「だって……作者の意図なんて分からない。これで正解なのかなっていつも確信が持てないの」

「難しく考え過ぎだよ。読んだ葵が感じたまま、書いて行けばいいんだよ」

「感じたまま……? だって私なんか……」


 戸惑いに目を泳がせた葵を、柊が遮った。

「そんなに違うのかな、葵やオレや、作者の人って」

「え?」

「例えば、毎日の生活を振り返ってみなよ。どんな行動にだって、それなりの理由があるんじゃないか? 感情だったり、合理性だったり。誰にだって、理由があるんだ。そう考えれば、葵が感じ取ったことが、正解なんだよ」

 柊はにこっと笑った。



「ーー!」

 そこに一瞬、安藤の影が重なった。

「……先生」

 ほんの微かに、葵の口から漏れた。

「何?」

 柊に聞き返されて、葵はハッとした。

「うん、や、やってみる」


 向かい側の席にいた仁は、黙ってその会話を聞き流しながら、不機嫌そうにパラパラと教科書をめくっていた。

 葵と柊の会話が一旦やむと、

「葵。歴史の範囲、どこまでだ?」

と割り込んだ。


「あ……えっと」

 葵は現国の教科書の上に歴史の教科書を置くと、付箋を貼ったページを開いた。

「六十八ページだよ。範囲も知らないなんて……授業寝過ぎだよ」

と、呆れ顔で言った。


 仁は膨れっ面で、

「あんな念仏みたいな授業、起きてられるわけねーだろ」

と投げやりに返した。

「でも、勉強もちゃんとやらないとって、監督言ってたよ」

 葵はマネージャーらしく小言を言った。文武両道が、高校教師である本城のポリシーだった。


 柊は二人のやりとりを羨望の混じった視線で見ていたが、やがて静かに吐息して、自分の教科書に目を移した。




 その日、まだ太陽が沈む気配を見せない夕刻、カエデは近所の大型スーパーに、母に頼まれた食材を買いに行った。

「お母さんたら、完全にあたしを小間使いにするんだから」


 用を済ませ、一人で愚痴を言いながら自転車で川沿いの通りを走っていると、先を歩いている仁に目を留めた。

 個人的にはそのまま無視して追い抜いても問題なかったのだが、ーー近づいてベルを鳴らした。

「ウッス!」

と、男らしく手を挙げ、声をかけた。


 仁はカエデのおどけっぷりに煙たそうな視線を向け、

「松山。何か用か」

と愛想なく言った。

「相変わらず、感じ悪いわー。あんたクラスで逆に有名だよ」

 カエデは平然と憎まれ口をたたいた。

 実際、仁がクラスメートとまともに会話しているのを見かけるのは稀で、一部のミーハーな女子が、話しかけて返事があるだけで喜ぶくらい、彼は無口だった。


「三浦は病院で勉強しないの」

 カエデが不思議そうに聞くと、仁は唇の端を苦虫を噛み潰したように歪めた。

「そんなに何時間もやってらんねーよ」

 ついさっき、覚えられる気のしない歴史の勉強に嫌気が差して、あの部屋を辞退して来たところだ。


「アハハ、同感」

 思い切り頷いて、カエデは大笑いした。

「あたしも葵に一緒にやろうって誘われたけど……ワザワザ勉強しに行かないでしょ、普通」

 カエデは自転車を降りて転がしながら、仁の隣を歩いた。


 仁はそれきり特に言葉を発しなかった。

 少しの間、カエデも無言で歩いた。

「――ところで、」

 しばらくして、カエデはやや重たそうに口を開いた。

「あんたのお兄さん、いい人だね」

 仁はカエデを一瞥すると「まあな」とだけ言った。


 カエデはさっきまでとは打って変わって、真面目な口調になった。

「立ち入ったこと聞くけど……お兄さんの足って、治るの?」


 仁の足が止まった。

「お前に関係ねえ」

 カエデを睨みつけ、凄んだ。


 しかし、カエデにとっては十分覚悟の展開だった。

 その鋭い瞳を真っ直ぐに見返した。

「葵にも、関係ないと思う?」

「……」

 仁は返事に詰まった。カエデの意図がうっすらと理解できて、釈然としないものも感じた。


 が、結局、言葉少なに答えた。

「今の病院では……多分……」

 苦渋の表情で最後を濁した仁の意味を汲み取って、カエデは表情を曇らせた。

「そっか、ゴメン」


 二人は沈黙し、再びゆるゆると歩き始めた。

「――葵って、いい子なの。すごく」

 言い訳するように、カエデは言った。

「で、いつも色々余計に背負っちゃうの。だから……なんか気になって」


「それって、わざと?」

 仁は、部活での葵が自虐的なほど働くのを思い出して言った。

「まさか。そこまで投げやりじゃないよ。だから心配してるんだ。よかれと思って選んだ道が、自分をもっと苦しめるんじゃないかって」

 カエデは力強く言った。


「まるで親みてーだな」

 仁の小馬鹿にしたような相づちを、カエデは全面的に肯定して頷いた。

「そういうつもりもあるね。今、葵を守れるのはあたしだけだって、自分では思ってる」

 そして溜息をつくと、強い視線で進むべき方向を見つめた。


 不意に、仁の頭の中に、部室で聞いた話が浮かんだ。普通とも平和ともかけ離れた、葵の家の事情。


「でも、三浦には余計なことだったね。今のは忘れて。あたしも、まだ――しばらくは忘れる」

 そう言うと、カエデは自転車にまたがった。


「待て」

 今度は仁が急いでそれを引き止めた。

 カエデは怪訝な表情で振り向いた。

「アイツ、本当は頭いいんだろ? 何でウチの高校に来たんだ」


「……」

 カエデは仁を見返したまま、なかなか口を開かなかった。

 ――そう仁は感じた。

 間違ったことをして咎められた時のような、落ち着かない気持ちになった。


 やっぱりいい、と喉まで出かかったとき、カエデは言った。

「あたしが誘ったから」


「――はぁ?」

 仁は拍子抜けして、逆に苛立った。

「女ってそんなもんなの? 気持ちワリぃな」

 あからさまに毒づくと、カエデは頬を紅潮させた。

「ちょっと、ヘンな勘違いしないでよね。葵は、あたしが説得しなかったら、中卒になってたんだから」


 今度は仁が黙る番だった。

 カエデは肩で溜息をつくと、また自転車を降りた。

「あんまり言いたくないんだけど……、葵の親メチャクチャで」

「ああ……そうらしいな」

 言いかけたカエデに、仁が部室でのことを話した。

 カエデは「ウソ! 信じられない! 高本、最低!」と、一通り激昂した後、話を続けた。


「とにかく、中三の時にお母さんが今のお父さんと再婚したから、葵はすぐにでも家を出たかったんだと思う。高校進学自体を嫌がってたの。でも中卒じゃ将来苦労するの目に見えてるし――実はうちの両親がそうだからさ……、で、何とか一緒に行こうよって、あたしと安藤先生で半年掛かりでやっと説得できた訳よ」

 カエデは思い出して辛そうに目を伏せた。

「それで先生もホント喜んでくれてたんだけど……こんなにすぐにいなくなっちゃうなんて」

 カエデはまた涙ぐみ、仁は気まずそうに河川敷に目を逸らした。


「――そういや、姉ちゃんがいるって言ってたけど?」

「知らない。十コも上なんだって。中学の時には一緒に住んでなかった」

 カエデは眉をぴくりと上げ、その見たこともない姉にも苛立ちをあらわにすると、何度目かの深い溜息をついた。


「ちょっとしゃべりすぎた。――じゃあね」

 再び自転車にまたがり、ペダルに足をかけた。

 それから、思い出したように付け加えた。

「でも葵、サッカー部は楽しいみたいよ。何にも言わないけど、前よりイキイキしてる」


 カエデは取り戻した笑顔で仁に軽く手を挙げ、「それにしても高本の野郎ぉ……」と独り言を言いながら帰って行った。



 残された仁は、今は自分のすみかである本城の家に帰る気になれなくて、少し土手を降りて芝生の上に座り込んだ。


 自然、葵のことを考えてしまう。

 表面だけ見れば、ごく普通の、少し控えめな女子。そして献身的なマネージャー。真面目で、時々世話好き……。


(何でこんな話を聞いてしまったんだろう)

 仁はブルブルと首を振った。

(オレはそんなにヒマじゃない。もっとサッカーを、兄さんの分まで頑張るんだ)


 素早く立ち上がると、土手を走り降りて、空き地でダッシュやジグザグ走りをムキになってやった。

 制服の白いシャツが汗で背中に張り付いた。仁は構わずに、今度は筋トレを始めた。

 そのうちに、疲れて大の字に寝転がった。日没に近づいた太陽がひどく眩しい。

 目をつぶった。そよ風が、汗をかいた体を心地よく撫でた。




 ーーあれは多分、まだ新学期の雰囲気が抜け切らない春のことだった。


 カラカラ、と教室の前の扉が開き、溌剌とした表情の安藤が入って来た。そして年季の入った木の教壇に似つかわしい、堂々とした態度で立った。

「起立、礼、着席」

 日直の号令でクラス全員が同じ動きをする。葵は教壇の正面の列、前から三番目の席だった。


 安藤は黒板の右側に「カメレオン チェーホフ」と大きく書いて、向き直った。

「よーし、今日から新しい話に入るぞ。皆、家で読んで来たか?」

 静かだった教室がざわついた。

「やべー」

「読んだ?」

「一応……」

 いろいろな声が飛び交ったが、予習をしてこない生徒が大半だった。


「よしよし、じゃあ順番に朗読してもらおう。最初は……」

 安藤は出席簿を見て生徒を指して行った。

 そして朗読が済むと、当てられずにホッとしていた男子生徒を、見透かしたように名指しした。

「じゃ、感想を聞こう。どう思った?」


 驚いて立ち上がった彼は、いかにも聞いてませんでした、という様子で頭を掻きながら、

「えーと、……さすがチェーホフだと思いました」

と、半笑いで答えた。


 ドッと教室に笑いが起こった。

 葵は笑わなかった。

 不真面目な答えだと思った。この人、きっと怒られる……


 そう思って安藤を見ると、

「うん、その通りだ。いいこと言ったな」

 安藤はにこやかに言い放った。

 その男子生徒も、クラス全体も、ポカンとして沈黙が起きた。

「何がさすがなのか、皆、これから俺と読んで行こうな。じゃあ最初のページに戻って――」


 葵は驚きと、爽快感でいっぱいになった。

 安藤幸雄という教師に、好感を持った最初の出来事だった。

 教師とは、勉強を教えるだけの職業ではないことを、安藤に出会って初めて気づいた。殻に閉じこもった葵の心に芽生えた、一人の人間に対するほのかな執着心。それは、人が恋と呼ぶものに似ていた――。



 パラパラパラ……

 窓からの風に、ページがめくれた。

「あ……」

 学習室で葵は我に返って、現国の教科書を押さえた。


「今日は天窓が開いてるんだな。気づかなかった」

 柊が振り向いて言った。

「閉めようか?」

と、葵に聞いたが、

「あ、私は別に――大丈夫」

 葵は柊からすぐに目を逸らした。さっきから教科書にじっと見入っていたが、余計な事ばかり考えてしまい、何も頭に入ってこなかった。


 仁が勉強に飽きて去ってしまってから、柊と二人の空間が今日はやけに重く感じた。

 時折、他の入院患者が入って来て、本を物色して行く間がホッとするくらいだった。


 視界の端で少し隣の真剣な横顔を窺うと、それは今までと同じ柊なのだが、何故安藤と重なってしまうのか。まだあの決別から数日。しばらく安藤を思い出さずに日々を過ごしたいのに、塞がっていない傷口を痛めつけられるような思いだった。


 葵は現国を止めて、数学の問題集を出してみた。

 因数分解し、xとyを求めよ……

 三問解いて、諦めてシャープペンシルを置いた。

「柊さん、私も今日は帰るね。何だか集中できなくて……」

 本を閉じながら葵が言うと、顔を上げた柊は残念そうな顔だった。

「そっか、じゃあ下まで送るよ。オレも少し外の空気吸いたいし」

「……うん」


 二人は学習室を出てエレベーターに乗った。

 階数を示す光を見つめる葵を、柊は気づかれないように見上げた。ショートボブに覆われた葵の横顔から表情は窺えず、細いあごのラインが見えるのみだった。


 一階で降りると、葵は柊を広場まで押して行った。

「ここでいいよ、ありがとう」

 柊は葵を振り返って言った。

「うん。じゃあまた……」

 律儀な葵が、柊の前に回って薄く笑った。

 広場は、小さな子供のはしゃぐ声が響いていた。


「明日、無理に来なくていいよ」

 口元に微笑みを浮かべ、誤解の無いよう優しいトーンで柊は言った。

「まだ、ここに来るの辛いんだろ?」

 葵は驚いたように少し目を見開いたが、頷きも否定もせず、ただ下を向いた。


「大体分かるよ。オレ、足がこうなってから特に人の顔色に敏感になってさ。……大事なもの失うって、辛いよな。だから、来れるようになったら、来なよ。オレはここから動けないから、待つことと、膝を貸すことくらいしか出来ないけどな」

 柊は最後はおどけて笑った。

 自分の状況を冗談めいて言う柊が、葵には痛々しく、余計に自分が恨めしかった。

「ごめんなさい……」

 葵が謝ると、柊はまた微笑んだ。

 そして葵は背中を向け、逃げるように病院を出た。


(柊さん、寂しそうな顔してたな……)

 病院からの帰り道、葵は行き場を失っていた。

(柊さんと先生は違うのに)

 安藤から気持ちを切り替えられない反面、また他の大切なものを失いそうな恐怖も感じて、妖しく揺らぐ不安感に苛まれた。

 考えながらバスを降りて、川沿いの歩道を歩き始めると、葉を茂らせた桜並木の間から、遠くに制服で筋トレしている仁が目に入った。

 葵は、反射的に坂を降りていた。



「何してるの?」

 目を閉じて寝そべった仁の耳に、急によく知った声が降って来た。


 仁は弾かれるように起き上がった。

「今日は早いじゃねーか」

 今、葵と会うのは何となく居心地が悪い気分だった。

「うん……、何か勉強に集中できなくて。外の空気に当たったら、気分変わるかなって」

 冴えない表情で葵は言った。


「これから、家に帰るのか?」

「え? ああ、うん……」

 仁の問いに、葵は目を逸らした。

 一度あのモラトリアムを出たら、今度はまたいつもの現実問題に直面しなければならない。


 葵の様子を見ると、仁は軽く溜息をついて、半ば投げやりに言った。

「――しょうがねえ、一緒に来い」

「えっ……、どこへ?」

「監督んち。ヒマなんだろ」

 葵が驚いて反応できずにいると、仁は立ち上がって無造作に葵の手首を掴み、強引に引っ張って土手を上った。


 

 監督の家に着くと、仁を出迎えた瑞穂が、

「おかえり……あら~! かわいいお客さん。いらっしゃい」

 キラキラの笑顔で迎え入れてくれた。

「マ、マネージャーの北川葵です」

 今まで言われたことのない褒め言葉にドキドキしながら、葵は挨拶した。


「クールだと思ってたけど、やるわねぇ。三浦くん」

「違いますよ、ヒマだって言うから」

 瑞穂にからかわれて、仁は仏頂面で言った。

「うふふ、いいのいいの。葵ちゃん、どうぞゆっくりして行って」

 そう言って瑞穂は葵にレースのついたベビーピンクのスリッパを出した。


 仁がシャワーを浴びてくると言って、葵はリビングのソファに案内された。

 が、座っているだけというのも手持ち無沙汰で、遠慮がちにリビングを眺めた。


 白木のテレビボードがあり、その上にいくつものトロフィーが飾られていた。きっと昔本城が得たものだろうと葵は思った。

 壁の所々に、二人の幸せそうな結婚式や、チームの仲間達の写真が、洒落た額に入れられて掛かっていた。


 ここに当たり前のようにある全てが、眩しく輝いていた。

 葵の育った家庭にはなかった、暖かい光。


「葵ちゃん、何か飲む? ジュースとか、コーヒーとか」

 キッチンから瑞穂が声をかけた。

 葵が振り向くと、瑞穂は緩いウェーブのロングヘアを束ね、エプロンをかけたところだった。


「あ……いえ。あの、良かったら、何か手伝わせてください」

「そう? じゃ、お願いしようかな」

 瑞穂は笑顔で頷いた。

 葵は小学五年の時から会っていない姉のことを思い出した。きっと今はこのくらいの年齢だろう。しかし、姉に笑顔の記憶はない。――声も、もう忘れてしまった。


「――あら、すごい。手つきがいいのね。普段、お料理やってる?」

「と、時々……」

 また褒められて、葵はくすぐったそうにはにかんだ。


 仁がシャワーを終えて二階へ上がる途中、ふとリビングのドア越しに葵が見えた。キッチンにいるらしい瑞穂の方に時折言葉を返しながら、テーブルに食器を並べていた。


 仁の視線がわずかに止まった。

 照れたような穏やかな彼女の表情は、これまでに見たことがないものだった。


「いただきます」

 本城も帰宅して、四人で夕食を囲んだ。

「今日は葵ちゃんが手伝ってくれたからいっぱい出来ちゃった。ありがとね」

と、瑞穂が隣の席の葵を見た。

 葵は困ったように微笑んで、首を振った。


 食卓の上には、トンカツに千切りキャベツ、エビグラタン、彩りよく盛られたササミ入りのサラダ、そしてみそ汁と炊きたてのご飯が並んだ。

「ホントだ、ごちそうじゃないか。葵、サンキューな」

 本城が子供のように喜んだ。

「監督、分かりやすい食べ物が好きですよね」

 仁が思わず指摘すると、

「そうそう。揚げ物とかお肉とか。昔からずうっとコドモなのよね」

 瑞穂が同意し、本城は「悪いかよ」と口をいっぱいにしながらすねた。


 モリモリ食べる男二人を前に、瑞穂はあまり箸の進まない葵に気づいて、

「ごめんね、女の子にはボリュームありすぎたかな。残しても全然いいからね」

と、隣を心配そうに覗き込んだ。


「いえ」

 葵は急いで首を振った。

 幸福で温かな食卓を前に、胸が詰まるように苦しくなった。

「……すごく、おいしいです」

 言ったとたん、葵の目から涙がぽろぽろとこぼれた。


 本城も、瑞穂も、仁も食べるのをやめて葵を見た。

「……すみません」

 葵は手で目頭を押さえた。

(こんな時に泣くなんて)

 自己嫌悪でいっぱいになった時、


「いいのよ、泣いちゃって」

 瑞穂が言った。

 そしてそっと葵に寄り添って、背中をさすった。

「辛い時、苦しい時は、泣いていいし、誰かに頼っていいの。悪いことなんかじゃない。誰だってそうしてるの」

 瑞穂の柔らかい髪から、花のようないい香りがした。


「そうだ。お前はいつも一人で頑張り過ぎだぞ。サッカー部だって学校の奴らだって、お前の周り皆が、チームなんだから」

 本城も声をかけた。表には出さないが、顧問という立場上、葵の家庭のことも最初から把握していた。


「――はい」

 涙を拭いて、葵は笑った。頑張って作ったぎこちない笑顔ではあったが、何とか笑えた。

「いただきます」

 箸を持ち直し、顔を上げると仁と目が合った。

 彼は、ただ頷いた。



「何か、悪かったな」

 食事が済んで、仁は葵をバス停まで送る途中で言った。

 竜宮城のような一夜の宴は、葵にとっては酷なだけだったかもしれない。思いつきで、余計なことをしたような気がした。

「ううん、楽しかった。誘ってくれてありがとう」

 いつもの葵に戻っていた。

 それがいいのか悪いのか、仁には分からなかった。



お読みいただき、ありがとうございました。

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