1,ソメイヨシノ
この先もずっと、時間を殺しながらただ生きるだけーー
そう思っていた。
陰影×青春ヒューマンドラマ。
第1話:高校生活を始める葵。これからの人生に何も期待などしていない。しかしーー。
サッカー少年・仁との出会い。
その花の色は、ピンクというには淡すぎる。
相対して幹は、焦げたような陰影の深い色。
花曇りの空を背負う川沿いの並木を見上げながら、まるで水墨画のようだと葵は思った。
四月の早朝、葵は高校の入学式に向かって歩いていた。まだ肌寒さの残る大気に、真新しい制服のブレザーが防寒にちょうどよかった。
この並木道の先、信号を渡って坂を少し下ると、目的地はすぐ目の前。
だが、式開始の時間まではまだだいぶあった。
時間を持て余して、葵は足下の河川敷を眺めた。緩やかな斜面には芝生が広がり、その先に多目的グラウンドや、いくつかの遊具を擁した公園が見渡せた。
平日の朝のこと、人はまばらだった。風景に目を馳せながら、葵は昨晩のことを思い出した。ーー
珍しく三人そろった夕食の席で、父親がぎこちない笑顔で口を開いた。
「明日は入学式だね、おめでとう」
葵は視線を他所にそらしながら、ぼそりと言った。
「......余計なお金をかけて、すみません」
父が困ったように黙ってしまったので、母が取り繕うように、間に入った。
「そんなこと言わないの、葵。今まで家庭の都合に振り回されて、大変だったでしょ? だからこれからは、あなたの好きなことを自由にやって欲しいと思ってるのよ、私たち」
葵は無表情に聞き流して、
「気を遣ってくれて、ありがとう」
と、短く答えた。母は諦めたように肩をすくめると、付け加えた。
「式は、仕事で行けないけど......高校生だもの、いつまでも親と同伴でもないわよね」
葵は箸を置いた。
ーー今までだって、行事なんてろくに来たことなかったくせに。
そんな言葉は、もうずっと飲み込んでいる。
「ええ、もちろん。ーーごちそうさまでした」
メニューが何であったか、すぐに思い出せないくらい、寂寞とした夕食の時間だった。
(……)
ふと、視界の中に動くものを感じて、葵は現実に意識を戻した。
自分と同世代くらいの男が、グラウンドで一人サッカーボールを玩んでいる。ルーズに着崩している白シャツにレンガ色のネクタイ、紺色のズボンは、制服のようだった。
(わ......、すごい)
そのボールはまるで忠実な飼い犬のように、蹴られても次の瞬間には足に吸い付くように戻って、 彼の思い通りに動いているように見えた。
実際には彼がボールを追っているのに、不思議だった。
(きれい......)
しばし、葵はその様子に見とれた。
そのうちに彼はボールを右足の下に捕らえ、静止した。それから肩で一息ついて、天を仰ぐように 斜面の上に顔を向けた。
目が合いそうになって、葵はあわてて体を背け、再び歩き出した。
(あの制服......。同じ学校の人かな)
歩く足が、さっきより僅かに軽かった。
他の何かで一瞬でも自分を忘れたことなど、かつてあっただろうかーー。
程なく学校に着いたが、やはりまだ静かなものだった。
葵は校舎へ入らず、構内を散策することにした。
歩いていると、南北の校舎の間に中庭があった。芝生とむき出しの土が半々で、石像やベンチが点在している。
渡り廊下を越え、そのベンチに何となく腰掛けると、校舎の中の掲示板が窓越しに見えた。
そこには、部員募集のポスターが所狭しと張ってある。テニス、バスケ、バドミントン、柔道、野球......。何度見てもそこにサッカー部のものは見つからない。
その理由は、明白だった。
この神奈川県立綾西高校が、全国出場レベルの強豪チームだからである。入部はむしろ狭き門なのだ。
そして葵には、入学を決めた時から考えていたことがあった。この強豪サッカー部で、マネージャーとして働くことだ。
(朝から晩まで、少しの休みもなく......)
小さく溜息を漏らした後、気配に気づいて葵は振り向いた。
「カエデ」
中学からの親友が、微笑んで立っていた。
「おはよう。髪切ったんだ。一瞬、分かんなかったよ」
葵は左手首の時計を見た。まだ受付開始まで三十分近くある。
「早いじゃない。いつもギリギリなのに、珍しい」
「失礼な。あたしだって気がはやって早起きすることもあるよ」
相変わらずの陽気さに、葵はクスッと笑った。
「そのショートボブ、似合うよ。心機一転って感じ。なんかワクワクするね」
カエデはぴょんと跳ねるように葵の隣に座った。艶やかな黒髪のポニーテールが、生き生きと弾んだ。
「そう言えば、カエデのお母さんは?」
「ああ、後から来るって。家の用事片付けてからね」
「自家営業だもんね、忙しいよね」
カエデの家は、車の板金屋だ。父が実務をし、母が経理を切り盛りしている。
「まぁね。あたしには関係ないけどね」
「強がっちゃって」
葵は、カエデが母を手伝って家事や弟の面倒を見ていること、父親の仕事に誇りを持っていることを知っていた。そんなカエデと家族を見ていると、いつも心が和んだ。
「葵んちは……?」
カエデが遠慮がちに聞いた。
「仕事。いつものことだよ」
葵が屈託なく笑うと、カエデは一瞬顔を曇らせた。しかしすぐに明るい声で、
「お医者さんこそ、そう簡単に休めないでしょ。なにしろ、社会ホウキなんだから!」
「ホウキ? ……それ、もしかしてホウシ? 社会奉仕」
「え? あー、ソレよソレ。だからさ、葵の母親役は、あたしってことで! まかせなさい!」
と、カエデは何故か力いっぱいほうきで掃くジェスチャーをしながら言った。
葵は笑って「いいよいいよ」と逃げるフリをした。
校門の辺りが、人の声でにぎわってきた。入学生徒らが徐々に集まり出したようだ。
二人は、昇降口に向かった。入り口付近に大きくクラス分けが張り出されてあった。カエデがいち早く、名前を見つけた。
「やった! 同じクラスだよ、葵」
葵は素直に喜んだ。
生徒達は張り紙を見て、ぞろぞろと各教室に流れて行った。葵とカエデも、「1−E」の教室でそれぞれ席に着いた。
そのとき、
(あっ……)
カエデの席の近くに、今朝見たサッカー少年が座っているのに気づいた。遠くから見ただけだった が、きっとそうだと葵は思った。
額に降りた少し癖のある茶色がかった髪と、無表情でありながら強い意志をみなぎらせた目。その一角が彼だけの空間のような、触れがたい空気を作り出していた。
教室の喧噪の中で、ただ退屈そうにしているだけの彼は、妙に浮いた存在に見えた。
やがて前方のドアが開き、担任が入ってきた。
午前中で式とホームルームが終わると、
「お腹空いたぁ。葵、帰ろー」
と、カエデが誘いにきた。
が、葵は済まなさそうに言った。
「これから、サッカー部に申し込みしにいくんだ」
「サッカー? 葵が?」
カエデは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
「じゃなくて。マネージャー、しようと思って」
「何それ......。部活ならもっと楽しそうなのにすればいいじゃん。あんなのムダに疲れるだけ」
「ううん。――それでいいの」
葵が静かに、しかしはっきりと言うと、カエデは口をつぐんだ。
「分かったよ。でも、あんまり無理しないようにね」
肩をすくめながら微笑んで、教室を後にした。
葵はカエデを見送ると、すぐに職員室へ向かった。
職員室は一年の教室と同じ一階で、南側の校舎にある。昇降口の前を通り過ぎ、曲がったところで足を止めた。
静かにドアを開けて中に入り、目の前を通りかかった教師に葵は尋ねた。
「すみません。サッカー部顧問の先生はどちらですか?」
その青年教師は、ぎょろりと葵を見下ろした。短髪で浅黒く、やや童顔ながら威圧感があった。
「お前、入部希望者か?」
「は、はい。マネージャー……ですが」
「マネージャー! そりゃ大歓迎だ」
その浅黒い顔はきらりと白い歯を出した。
「まずは入部申込書だ。クラスと名前を書いてくれな。ところで、うちの部については知ってるか?」
彼は自分のデスクから用紙を取ってきて渡しながら、葵に聞いた。
「強豪チーム......ですよね」
そう答えると、彼は頷いた。
「自慢じゃないが、そうだ。つまり、マネージャーの仕事も楽じゃない。選手同様、例年退部者が出る。チームの一員ではあるが、最後まで奉仕で終わり、選手ほどの見返りはないと感じるかも知れない。それでもやるか?」
「はい」
葵は迷わずに頷いた。
「よし。記念すべき新入女子第一号だな! 俺は顧問・監督の本城浩だ。よろしくな」
お読みいただき、ありがとうございました。