誰かの日常その1
世界が壊れる瞬間を見た人間は誰一人として存在していない、それは世界が壊れるなら観測者もまた無事では済まないという酷く単純幼稚な理由で証明された事実で聖書にあるカタストロフィや最後の審判の日は幸いにしてまだ起こって居ないという証左だろう。
仮にノアの方舟を信じるにしてもだ、世界が沈む程の大洪水が在ったならば少なくとも彼と救われた動物達は見たのだろうが局地的な豪雨か津波か高波か、とりあえず確実に一地域が被害に合っただけで別の大陸や同じ大陸でも被害が在った事さえ知らなかった地域もあるだろう、仮に神話が語るように垣根無しにエベレストさえ沈む程の大洪水なら地上は塩害で大変な事になりその除去に手を取られて今ほど人類がこの世を謳歌する事はなかった筈だ。
当時知られていた範囲のみが局地的に沈んだと考えるのがベターだろうしそもそも論としてそれが起こった証拠は見付かってはいない、方舟探しは今もなお続けられているとも聞くが雌雄でこの世の生物を収める船となると原油タンカーくらいのサイズは必要だろう、そして多様性を考えるなら雌雄一対では無意味が過ぎる、洪水を生き延びた個体が居るにしても血が濃くなりすぎる、それらを踏まえれば大洪水は怒らなかった、もしくは起こったが全世界ではなく局地的な物だったと言える、何せ神話を信じるなら飛ぶ鳥が逃げ場を失うような大洪水だ、海抜をキロメートル単位で押し上げる程の大雨が必要になるしそんなに雨が降ったのにその水が消えた謎も生まれる、やはり局所的な大雨に高波と考えるのが妥当だろう。
そんな誰も見た事がない破滅の瞬間を私は20代頃の数年間毎日の様に、その後も今に至るまで月に3回は見ている、例えば地震が来るとか火山が噴火するとか台風が全てを薙ぎ払うとか倫理が崩壊して誰もが誰もを傷付け罵倒する事を厭わない世界になる、なんて事はなく、日常の中で前触れもなく足元が脆くも崩れ去り、粉々に砕けた地球から解き放たれた肉体が死を迎える瞬間を何度となく見てきた。
最大で一年先まで、それも一年先でさえ二割程度の正答率を誇る予知という私の異能がある日を境に翌日だったり数時間後だったりはするが世界の崩壊を報せてきた、一年先なら二割程度、だが明日なら九割以上は当たる極めて精度の高い私の予知は幸いにして世界の崩壊のみ外れ続けている、日頃の行いか異能のスランプか数秒後というもはや外れたのはその一度だけというくらいに希なパターンさえも乗り越えて人類は、私はこの世を暮らしている。
最初は諦めだった、例えば地震や火山や台風なら逃げる事もできる、例えば病ならば自衛ができる、倫理の崩壊なら自分だけでもそれを守ろうとするくらいはできるだろう、だが足元から崩れ去るなんて状況をどう逃げればいい、どう対策すればいい、逃げ場も対策のしようもない、ただ諦めて家族や友人に感謝を伝えてその時を待つしかなかった、幸いにしてその時は来なかったがその日から毎日の様に予知には崩壊の瞬間が紛れ込み、私は何度も何度も自らの死と世界の終わりを見続けた、理由も解らない、もしかしたら理由もないのかもしれない、唐突に脈絡もなく始めからそうであったかの様に世界が壊れる様を。
そしてその理由を知った日も唐突だった、毎日のような崩壊に嫌でも慣れさせられた頃、ふいに月に数回に落ち着いて驚異は去っていないが一息と思って数年、そんなある日だ。
前日の予知ならば何時もと変わらぬ火曜だった、朝起きてシリアルを食べ、幾つかの株を売り買いしてドルや円にユーロにポンドを交換して、利益を確保しながら昼までパソコンに張り付き、カフェで昼食を取りそのままジムで運動してスパで汗を流す、夕飯はレストランで済まして家に帰ってシャワーを浴びてテレビを見て予知して寝る、そんな変わらない平日の光景で急に何処か遠くに行ってみようなんて思い立ちでもしない限りは変わらない日を過ごす予知は九割近い確率でその通りに既に書かれた小説のページを読み進めるような決まりきった手順で進み無理にでも予知と異なる点を探すならば家を出る時間が0.2秒遅いとか、お昼のサラダに乗ったコーンが一粒少ないとか、その程度で大きな違いにはならない、と言うかそういう細々した差異を含めるなら私の予知はほぼ100%外れてしまう。
ともかく、前日の予知と変わらず起きて朝食を取り、延びる予定の株を買い、ある程度育った物を売り、手数料や税金を差し引いても数日は暮らせるだけの利益を確保する、それを続けて一財産を築くのは誰しもがやっていて、私の場合はリスクが少ないというだけで僅かなボタンの掛け違いで破産も見えるギャンブルだが始めた当初のレバレッジも利用した大博打から手持ちの資金を転がすだけで基本的には日銭からは離れる金額の上下が有るだけで負けても家賃の半分も損しないし勝っても家賃分が増えるかどうかでそれを毎日続けて全体的にプラスにしていくだけだ。
そうして昼までに粗方めぼしい物を売り買いしてドルやユーロに円、ネット通貨を取引して適当に外貨も持ってく、少し遅めの昼食を取るために家を出ようとした所でチャイムが鳴り来客を知らせた。
昨日の予知には無かったがこれまでもこういったイレギュラーが皆無だった訳ではない、とは言え大抵が予定より速く通販で買った服が届いたとか、隣に運ぶデリバリーを配達員が間違って届けそうになった程度でほんの僅かな時間を浪費するだけ。
その筈だったのだが除き穴から見えるのは謎としか形容できない存在だ、子供にも老人にも男にも女にも動物にも無機物にも思える、この瞬間も顔が変わり続けているかのように掴み所がなく印象がコロコロ変わる存在。
「こんにちはダイアナ、君の見る破滅に付いて少し話がしたい、時間はそう取らせないしサンドイッチも買ってきた、昼食がてら聞いて貰えないかい?」