贈り物の日常
今年も来たかこの時期がと思うのは地域や家庭で異なるだろう、例えば京都辺りなら葵祭だとか時代祭、祇園祭辺りを思い浮かべるだろうし米農家なら田植えや稲刈りの時期を想起するだろう、青森ならなまはげだろうし九州ならまた別の何かだろう、その他にも誕生日だとか命日くらいしか思い当たらないなんて家庭もあるだろうが男鹿松平兼守家においては祖父の家から届く段ボールを見るとそれを思い出す。
『あぁ、今年ももうそんな季節か』と『またやって来たのか』と、それは段ボール一杯に詰め込まれた推定10kgは軽く越える大量のクルミ、リス辺りに見せたなら狂喜乱舞のお祭り騒ぎになりそうな光景だがそれを毎年消費する必用があり、それが一つではないのだから絶望もする、殻付きのため可食量だと半分程度にはなるだろうが気休めにもならない、今年も今年で来てしまったものはどうしようもない、幸いにして一箱までは飽きはしても家族総出で片付くが問題は残りの分だ、適当に小分けしつつ知り合いに配るしかなくとりあえず音矢家の分を用意する、家が隣で息子と娘が同年齢の幼なじみで恋人という点を除いても仲は悪くなく時間が合えば食事や旅行を共にするのも少なくはない、今時ではかなり珍しい親密な近所付き合いだが最終的に親族になるだろうという事を含めるならば不思議はなかったりする。
それでも、それでもだ、キロ単位のクルミを毎年毎年だ、嫌にもなるし飽きもする、サラダだとかに使うにも限度もあるのだ。そこで今年は異能と料理の腕と知識を総動員して一挙に処理する妙案を試すという事が妹を除いた家族の総意となり、一部を残してオイルの精製が決定した。
殻を割って中身を取り出し軽く煎ってから粉々に砕く、布で包んで蒸して圧搾すると油が採れる、本来なら手間な筈の殻を砕き粉々に砕き圧搾する工程が道具も無しで手早く終わるからこそ可能な荒業に近いが使える手札を使ったまでだ、無理をした訳でもないし法に触れる事もない、文句を言うならばとりあえず個人でキロ単位でクルミを消費してからにしろと言える。
いわゆるもったいないオバケを信奉している訳でも無いが外聞的に大量の食料を無駄に腐らせて捨てたなんて醜聞はこれで封殺できて、さらに大量の消費を可能とする、採れた油は自家製のドレッシングに使うも良し、料理に使うも良しだ、結局は形が変わっただけで消費の必用には駆られるが量が圧倒的に違う、油なら日々の料理でそれなりの量を使うためリットル単位でも物凄く多いとは感じにくいしボトル一つに収まる、対してクルミそのままなら殻を外しても大きめのレジ袋一つは軽々越える、見た目的な圧は比べるまでもない。何よりもだ、自家製だがやや珍しいクルミオイルとなれば渡すのに支障は無いしそっちの方面で量を減らす手も有る、と言うか祖父の家で作って道の駅で出荷でもしたならばそこそこ売れただろうし来年はそっちで行くか、まだまだクルミは有るしクルミ餅とかだけだと限度も有る、いい加減売り上げ的にも伸び悩んでると言っていたし瓶詰めの用意さえ出来れば後はパッケージくらいだ、加工に関してのルールとか有るかもしれないが除菌云々はバリアーがあるし衛生面の資格は祖父が持っている、最悪どうしても機械が要ると言うならば少しばかりお話をするだけだ。
唯一納得してない妹もまだキロ単位で有るしどう頑張っても一人で消費できる量なんて一箱にも満たない、そろそろその辺りを覚えて欲しいと言うか中学生なんだから理解していない筈も無いのだが納得はしていない、マジで来年には木を斬り倒すか本当に少しだけ残して全てオイルに加工するかだな。