エピローグ 1
「さ、寒すぎる……まだ冬じゃないのになんだこれ……」
体にマントを巻きつけて、サトルが白い息を吐いた。
目の前には雪と氷の白銀の世界が広がっている。
冬でもないのに。
ユークリア王国の湖畔の村を出発してから10日ほどで、サトルたちは国境を越えた。
といっても『丘と湖が点在する辺境』と『北の帝国』の間にはっきりとした国境はなく、検問もなかった。
いまサトルたちは『北の帝国』の統治下にある最初の街を目指して雪原を進んでいる。
たどり着いて手続きすれば、明確に『北の帝国』に入国したことになるはずだ。
雪原を進んで、たどり着ければ。
「サトルさん、これはどういうことでしょうか。ユークリア王国はこれほど寒くありませんでしたし、お母様は冬じゃなくても『北の帝国』がこれほど寒いとはおっしゃっておらず」
「そうだぞサトル、なんだこの寒さは! 姫様が凍えてしまうではないか! 姫様が凍えて氷の彫像に、つまり姫様の可愛らしさが永遠に」
「溶けるだろ。まあプレジアの妄言はいいとして。ほんと、どういうことだろうなあ。国境付近を過ぎたらいきなりこれだし」
やっぱり魔法なんだろうか、と顎に手を当てて考え込むサトル。
夜は多少冷え込む程度のユークリア王国を出たら、凍えるほどの寒さだった。
サトルが元いた世界ではありえないほど突然で、限定的な気候の変化である。
「だからユークリア王国最後の村で聞いても『ここ数年、北の帝国から旅人が来ない』って言ってたのか……雪が積もってるって聞いた時は正気を疑ったけど」
国境を越えるにあたって、サトルがユークリア王国で聞き込みをしなかったわけではない。
ソフィア姫の母親であるトモカ妃はこの北まわりのルートでティレニア王国にたどり着いたらしいが、それも10年以上昔のことだ。
だが、ユークリア王国の冒険者ギルドで聞いても、最寄りの村で情報を集めても、聞こえてくるのは疑わしい話ばかりだった。
いわく、ここ数年、北の帝国は冬が続いている。
いわく、終わらない冬のせいで旅人も商人も冒険者もユークリア王国に来なくなった。旅人さんも無茶しねえで諦めた方がいい。
信じられない情報に、サトルたちはひとまず自分の目で確かめようと『北の帝国』を目指した。
結果、情報は正しく、眼前には銀世界が広がっている。
「寒い。最初の街まで雪がなくても歩いて二日かかるらしいし、これは準備しないと無理だな。……冬の野営か。準備しても無理じゃないかなあ」
サトルはちらっと振り返る。
馬上でマントにくるまるソフィア姫の頬は、寒さで赤くなっている。
横を歩くプレジアは、金属製の鎧が冷えるのだろう、震えてガチガチ歯を鳴らしている。
そして。
「あのサトル様、アタシちょっとキツいかなって、でもでもサトル様が行けっていうならその」
「ベスタもダメか。いや、寒さに強い動物に変化すればなんとか? 人が乗れて荷物も運べて寒さに強い動物……何かいたかなあ」
水龍系のドラゴンであるベスタは、馬の姿のままガタガタ震えている。
ドラゴンでも寒さに強い種ではないらしい。
「あら、わたし、なんだか眠くなってきましたわ。手足の感覚がなく……サトルさん、ヒトはこのような時、裸で抱き合うと聞いたことがありますの」
「抱き合いません。その前にもっと厚着してください。あー、サハギンって魚系なわけで寒さはダメかあ」
人化したサハギンのシファは震えている。
腕を組むことで強調された谷間が揺れる。
谷間が見えるほどざっくり胸元が開いた服は見るからに寒そうだ。
ティレニア王国を出てから七ヶ国目、『北の帝国』に入ってすぐに、サトルたちは苦難を迎えていた。
サトルの【分身術】やプレジアの【八戒】といった強力なスキルがあっても、ソフィア姫が【回復魔法】の使い手でもどうにもならない。
レベル65のサトルも、オークを倒しまくってレベル43まで上がったプレジアも、レベル43でブレスを吐けるベスタも、船を作り出す特殊能力を持つシファもどうしようもない。
このまま進むか、ユークリア王国に戻って準備をしてから進むか、あるいは別のルートを探すか。
サトルが考え始めたところで、雪景色と青空に変化があった。
雪の反射光で目が痛くなるほどの雲ひとつない快晴だったのに、遠くから黒雲が近づいてくる。
見てわかるほどの勢いで、サトルたちがいる方へ。
「サトルさん、あれはなんでしょうか? 雲とはあのように突然できるものでしょうか? 速く動くものでしょうか?」
ティレニア王国の王宮を出たことがなかったソフィア姫は、突如できた雲を見て首を傾げる。
サトルは額に手をかざして、厳しい視線で黒い雲を見つめる。
「いいえ姫様、いきなりああなるわけがありません。明らかにおかしいです」
やがて、黒雲は警戒する一行の頭上に到達した。
ごぱっと雲が割れる。
中から出てきたのは二体のモンスター。
地上へ翔ける先頭の一体は、黒灰色の鱗に爬虫類のような顔立ち、額からは立派な角を生やして、サトルたちを睨みつけて牙を剥く。
黄金色の鱗を光らせてもう一体が続く。こちらはサトルたちではなく、先を行く一体に顔を向けている。
雪煙を上げて、二体がサトルたちの目の前に着地した。
「マジか、二体も。しかもベスタと違ってデカくて立派な……」
黒雲を割って現れたのは、二体のドラゴンだった。
ソフィア姫が目を見張り、シファの顔がひきつり、ベスタが決死の表情でソファイ姫の前に立ち、サトルが叫ぶ。
「て、撤退! 撤退するぞ!」
「姫様、私のうしろへ! 必ず、この身に代えても必ず私が姫様をお守りします!」
「プレジアも下がれ! 相手はドラゴンが二体、この圧力は推定レベル80オーバーだぞ! 一人二人残ったところでムダだ!」
「むっ、だがサトル! ここは足場の悪い雪原だぞ! 誰かが足止めしなければすぐ追いつかれて」
「分身の術ッ!」
プレジアの言葉を遮って、サトルがニョイスティックを構えた。
と、サトルが増える。
一人だったサトルが3人に、10人に、30人に、さらに続々と。
「俺、ここは俺に任せて先に行け!」
「それ言いたかっただけだろオレロク」
「俺、接触は諦めて遠隔解除で頼む」
「はあ、これが捨て駒ってヤツかあ。まあどうせ俺の恐怖も痛みも寒さも俺が追体験するんだけど」
サトルはレベル65の強者であり、強力なモンスター相手でも群れを相手にしても、スキル【分身術】で有利に戦える。
だが相手はドラゴン、それも二体だ。
圧倒的強者の前では、どれほどのサトルがいたところで蹂躙されるだけだ。
サトルがサトルの分身に任せたのはただの時間稼ぎである。
プレジアとシファを引き連れて、サトルはドラゴンに背を向けた。
だが、一人反応しない。
一人というか一頭というか、あるいは一匹というか一体か。
ベスタはただ、二体のドラゴンを見つめて立ち尽くしていた。
馬に変化している、ドラゴンのベスタは。
「アタシと同じドラゴン、でもサトル様の敵で姫様の旅を邪魔して、だったらアタシは」
「ベスタさん?」
「姫様、下りてください。アタシは白馬のつぐないで馬になったけど、サトル様と姫様とプレジアさんとの旅は楽しくて、だからアタシは」
ベスタが何をするつもりか、まだ幼くとも聡いソフィア姫は理解したのだろう。サトルよりも早く。ソフィア姫が、馬のベスタから下りる。
王族の護衛騎士であるプレジアも意図を察して、すぐにソフィア姫を抱えた。
無言で、ベスタに目礼を送って走り出す。
「おいベスタ、旅の仲間にシファの名前が抜けて……待て、何をする気だ?」
いつもと変わらないツッコミを入れようとしたところで、サトルも気がついた。
ベスタの気配がいつもと違うことに。
「がおおおおおおおんッ!」
ベスタが吠える。
と、ベスタが運んでいた荷がボトボトと雪上に落ちる。
雲を割って現れたドラゴンの前に、もう一体のドラゴンが姿を見せた。
サトルたちを背後にかばって、二体のドラゴンと相対して。
「逃げてくださいサトル様姫様プレジア、あとまあシファも! コイツらが強そうだからって、震えがきたって、アタシはコイツらと同じドラゴンなんだ! だから時間ぐらい稼いでみせます!」
ベスタは、ティレニア王国山間部の川原で馬に襲い掛かって以来、一緒に旅を続けてきたドラゴンは、サトルたちを逃がそうとしていた。
推定レベル80オーバーの二体のドラゴンを前にして、ドラゴンの自分なら対抗できるだろうと。
レベル43と、サトルよりレベルが低いのに。
ソフィア姫とプレジアに遅れて、ベスタの決意を理解したサトルがくるりと踵を返す。サトルがベスタの右に、サトルがベスタの左に並ぶ。ここは通さない、一緒に戦うぞ、とばかりに。




