第五話
「なんかもう何も気づかなかったことにして倒しちゃった方がいい気がしてきた」
ぬらぬらと鱗を光らせて二足歩行するサハギンを前に、肩を落としたサトルがボソリと呟いた。
現実逃避である。
「あら、わたし、倒されてしまうのでしょうか? 押し倒されて襲われてしまうのでしょうか?」
サトルの言葉を受けて、サハギンが頬に手を当ててくねくねと身をよじらせる。
ぬめった体の艶めかしい動きに、相対していたサトルはヒッと短い悲鳴をあげて後ずさった。
タワーシールドからチラ見しているプレジアの顔も引きつっている。
「ほんとに厄介ごとの依頼だったなあ。これどうすりゃいいんだろ」
水車小屋の入り口にもたれかかって、サトルが空を見上げる。
夕焼けが、空に美しいグラデーションを描いていた。
「うふふ。わたしからのお願いは、すごく簡単なことですよ、お強い方」
冒涜的な見た目の魚人の声とは信じられないほどに美しい声が発せられる。
サトルがあらためて周囲をキョロキョロ見渡すが、ほかに人影はない。
美声は間違いなくサハギンの声だった。
「はあ。とりあえず言ってみろ。モンスターの願いごとなんてロクなもんじゃないだろうけど。なあベスタ?」
「えっ。アタシはあの時『死にたくない』ってお願いしただけでそれは生き物としてしょうがないというかロクなものじゃなくはない……いえなんでもないですサトル様そんな目で見ないでくださ、あ、でも冷たい目がなんかゾクゾクして気持ちいいような」
「ベスタに振った俺がバカだった。はあ、それでなんだって?」
サハギンに負けじと身をよじるベスタから視線をそらして、サトルはサハギンに向き直った。
というか、ニョイスティックを構えるサトルはサハギンから視線を外していないのだが、本体のサトルが向き直った。
「お強い方、あなたの子種が欲しいのです」
恥ずかしげに両手で顔を隠して、サハギンが言った。
広げた指の間の水かきが顔をおおって、サハギンの表情は見えない。
見えたところでサトルたちに読み取れるかもわからない。
サトルも、サトルの分身も、微動だにしない。
「…………は?」
「あなたの子種が欲しいのです」
サトルの問いに、サハギンは同じ応えを繰り返した。
サトルも、サトルの分身も、固まっている。
プレジアは意味がわかっていないようで首を傾げ、ベスタも揃って首を傾げている。
タワーシールドからひょこっと顔を出したソフィア姫は真っ赤だ。8歳の美女児は耳年増であるらしい。
あるいは、他家に嫁ぐ王族の女性として早いうちから保健体育を教えられたのか。
「……いやいやいやいや。見た目、魚じゃん。二足歩行する魚ってハードルが高すぎるだろ」
「やったな俺、一目惚れされたっぽいぞ! ところで早く分身を解除してもらっていいかな?」
「落ち着けオレイチ。解除したって俺は俺だ、俺の記憶も体験も、分身したって共有されるぞ」
「ああああああ! イヤだ! 人生初の恋人がサハギンなんてイヤだ!」
サトルが頭を抱え、サトルが地面に両手とヒザをつく。
「あらいやだ、わたしったら。少しお待ちくださいね」
べちゃりと音を立てて、サハギンが身を翻した。
ドボンと水路に飛び込む。
サハギンの姿が消えて、川原には一瞬の静寂が訪れた。
「いますぐ出発しよう俺。すぐにこの村から脱出しよう」
「姫様、プレジア、申し訳ありませんが可及的速やかに水車小屋から――」
「お待たせしました」
サトルが振り返って水車小屋の中のソフィア姫とプレジアに声をかけたところで、サハギンが戻ってきた。
ビクッと立ちすくむサトル。
レベル65の強者であっても、怖いモノはあるらしい。
サトルの目に、小屋から外を見るソフィア姫とプレジアとベスタがくわっと目を見開いた様子が映った。
よっぽど驚いたのかソフィア姫は口元に手を当てて、プレジアは震えながらサトルの背後を指差している。
室内を見ていたサトルは、おそるおそる振り返った。
「この姿ならどうでしょうか」
変わらず美しい声。
だが、サハギンは変わっていた。
波のようにウェーブした髪は大河の深みと同じ濃緑。
ぬめぬめとテカっていた鱗肌は面影もなく、白く滑らかな肌を見せている。
くっきりとした目鼻立ち、ブラウンの瞳。
申し訳程度にまとった布はしっとり濡れて肌に張り付き、サトルの視線は深い谷間に吸い込まれる。
川から現れたのは、人間の美女だった。
「お強い方、あなたの子種が欲しいのです」
美女は恋する眼差しをサトルに向けて、人間と同じ足でススッとサトルに近寄ってくる。
「さっきのサハギン、だよな?」
「はい。わたしは【人化の術】が使えるのです。いかがでしょうか?」
そう言って、肌面積の多い美女がくるりとまわった。
圧倒的な質量の双丘がほわんと揺れて、むっちりと肉感的な腰まわりがサトルの視線を釘付けにする。
近寄られたサトルはゴクリと唾を飲み込み、水車小屋の入り口にもたれかかったサトルは「子種、それはつまり」などと呟いて顔を赤くした。素人童貞には刺激が強すぎたのか。
「サ、サトルさん? その、えっと、どうされるのでしょうか?」
「なぜだか顔を赤くした姫様かわいいです! どうするんだサトル! というかこれはなんなのだ?」
「いやわかってないのかよプレジア。そんでわかってるんですね姫様」
「そうだ、どうする俺? 俺はどうすればいいんだ俺? 俺は俺だから俺がしたら俺がしたのと同じなわけで」
「落ち着けオレイチ。まず確認しよう。そこのサハギン? 魚人? 人間?」
「はい、なんでしょうか。あら? こちらの方はお強い方と同じお顔なんですね。まさか同じようにお強いのでしょうか?」
目を細めて含み笑いする美女の色気に、サトルとサトルの腰が引ける。
ソフィア姫は真っ赤な顔を両手で隠し、指の隙間から成り行きを見守っている。
同じように人化できるはずのベスタはぼーっとしている。
「こ、ここ、『子種が欲しい』ってどういう意味だ。それはつまりその、俺とセ、セッ」
サトル、動揺しすぎである。
ティレニアの王宮勤めで平民から見れば高級取りだったのに、サトルに恋人ができなかったのはこのあたりが原因だろう。
ここまでの旅では頼れる年長者だったのに、女性の色香を前にしたサトルは平静でいられないらしい。
サトルのレベルは高くとも、恋愛経験のレベルは低かった。
「いえ、違いますよ? 交尾はできません」
「…………は? え?」
「ぐっ。誘ってきたのはあっちなのに秒で拒絶された。俺、俺はもうダメかもしれない」
サトルがぽかんと口を開け、サトルが胸を押さえる。傷つきやすい30歳である。
「わたしの卵に、あなたの子種をかけてほしいのです」
「…………は? え?」
「あー、なるほどそういう方式でらっしゃると。ちなみにサハギンさん、それはどっち形態で?」
「それはもちろん、先ほど戦った、【人化の術】を使っていないわたしに」
「おおう……マジか……」
「さっき『卵に』って言ってましたもんねえ。どうする俺?」
胸を押さえたサトルはすでに諦めの表情である。
自分がモテるわけがないと思い込んでいるのだろう。
こうしてサトルは、ティレニアで何度もモテるチャンスを逃してきたのだ。サトルは知らない。
「ああああああ! 魚モードかよ! そうですよねサハギンが人化してるだけですもんね! レベル高すぎィ!」
衝撃を受け止めきれなかったのか、サトルが慟哭する。
「うん? サトルのレベルは高いだろう?」
「そういうことじゃねえんだよプレジア!」
「まあ、こちらの方は元気もよいのですね。この様子であれば何度も」
「できるか! 待って、人化モードで近寄ってこないで、いまはやけに露出多くてやたらエロい美女なわけであんまり近寄られるとちょっと」
「よし俺、分身を解除してくれ。俺は俺だけど俺は体験したくない」
「その、サトルさん、房事は房中でするものだとお母様が、わたくしたちは外に出て」
「しませんから! というかトモカ妃は姫様になんてこと教えてるんですか早すぎませんかねえ!」
「あのサトル様、アタシも人化した方がいいですかね? 人化して近寄られてるサトル様はなんだかうれしそうでだったらアタシも変化した方が」
「大人しくしてろベスタ! 厄介ごとの最中に面倒ごとを追加してくんな!」
夕焼けに照らされた川原に、悲鳴じみたサトルの嘆きが響き渡った。
ポルスカ共和国の小さな村で受けた、冒険者ギルドの依頼。
川原に現れた水妖に、サトルは翻弄されていた。戦闘では退けたのに。
レベルは高くとも、サトルのレベルは低いらしい。経験値が足りない。
いや、たとえ一般的な経験値が足りていても、レベルは足りなかったことだろう。「魚人に興奮して卵にかける」など、求められる変態レベルが高すぎる。




