エピローグ 2
「あー、生き返るー。本当の意味で生き返るー」
湯船の縁に後頭部を乗せて、サトルは手足を伸ばした。
閉じたまぶたにお湯で濡らしたタオルを乗せる。
「しんどい旅だったなあ。まだ三ヶ国目なのに。山岳連邦を小分けにすれば四ヶ国目かー」
ひさしぶりのお風呂に、身も心も癒やされているようだ。
お風呂。
温かなお湯をたっぷり溜めたそれは、ティレニア王国と山岳連邦では貴族や王族しか堪能できない贅沢である。
だが、それほど大金を積まなくても、山を越えてたどり着いたこの国ではそれなりの宿屋なら楽しめるものだった。
ティレニア王国から出発したサトルたちは、山岳連邦のルガーノ共和国とボーデン公国を抜けて次の国に入った。
森と大河の国・ダナビウス国。
森林で採れる茸や山菜、食肉や森に生きるモンスターも有名だが、安価で利用できる「お風呂」もこの国の名物だ。
山岳連邦のボーデン公国を抜けてダナビウス国に入ったサトルたちは、さっそく風呂がある宿屋を取っていた。
サトルの希望であり、ソフィア姫とプレジアがサトルを心配したからでもある。
「生き返る。ほんと、何度も死んだし魔力も空になったからなあ」
風呂は命の洗濯だ、とばかりにリラックスするサトル。
ちゃぷちゃぷと聞こえる水音も心地いい。
ボーデン公国で、サトルはスキル【分身術】を使ってアンデッド枢機卿と死闘を繰り広げた。
死闘というか、サトルの分身は30人ほど死んでいる。
スキルのデメリットを受けて、サトルは30人の死を追体験した。
ただでさえ拷問のように気力を削がれた上に、サトルは奥の手であるスキル【風魔法】を使って行く手を阻む『聖火焔』を消した。
分身1000人分の魔力を使って。
馬のベスタにぐったりと寝そべって運ばれたサトルには、分身を吸収して以降のボーデン公国の記憶がない。
気がつけば国境を越えてダナビウス国に入っており、気がつけばお風呂に放り込まれていた。
「はあ、やっぱお風呂は最高すぎる。このままずっと浸かってたい」
「ふふ、安心しました。サトルさんはずっとあーおー言うばかりで、わたくし、本当に心配したのです」
「あれ、なんだろ。姫様の声が聞こえる。お風呂に、つまり男湯に入っているはずなのに」
「サトル、男湯ってなんだ? お風呂は一つだろう?」
「プレジアの声も聞こえる。あー、俺やっぱまだ回復してないんだな。さすがに1000人分の魔力を回復するまで時間かかるか。いくら俺がレベル65って言っても、魔力量も回復速度もいまいちで魔法使いの道を諦めたぐらいだし」
男湯の浴槽のフチに後頭部を乗せてぐったりと湯船に浸かっているのだ。
サトルは男で、ソフィア姫もプレジアも女で、つまり声が聞こえるのは幻聴だ。
サトルはそんなことを考えていたのだろう。
「あー。でも幻聴にしてはリアルだったな。まさか、異世界では混浴が普通だったりして。ははっ」
半笑いで、自分の冗談を打ち消すかのように、サトルがまぶたに置いたタオルを取る。
目を開ける。
微笑むソフィア姫と目が合った。
ソフィア姫の背後では、プレジアが不思議そうにサトルを見ている。
「…………え? マジで混浴?」
「わたくし、この国では専用の服を着てお風呂に入るって聞きました。ちゃんと宿屋の女将さんに聞いたんですよ」
きゅっと拳を握ってサトルにアピールするソフィア姫。
わたくしデキるオンナなのです、とでも言いたいのか。
8歳の美女児の体に、濡れた湯着がぺったり張り付いている。
「そういえば、お母様もお風呂が好きでした。でも後宮では『お風呂は何も着ないで入るのじゃ』ってお母様に教わったような……」
「やめてください俺が捕まってしまいます。ほらそれはきっと男女別だったからで。ここは混浴なわけで」
「え? お母様もお義母様も、お父様と一緒にお風呂に入ってましたよ」
「さすが王様ですね! 本物の後宮ってヤツか! おい護衛騎士、姫様を止めなくていいのか」
「そうですよ姫様! ここはトモカ妃の教え通り湯着など脱ぎ捨てて!」
ザパッと水音を立て、ヒザ立ちでソフィア姫ににじり寄るプレジア。
ソフィア姫を止めるのではなくむしろ脱がせたいらしい。護衛騎士なのに。
深くはない浴槽に、ヒザ立ち。
腰までお湯に浸かっているが、薄い湯着をまとっただけの上半身がまる見えだ。
デカい。
いや、身長の話である。
人間とオークのダブルのプレジアは170cmちょっとの高身長なのだ。
ソフィア姫ににじり寄ると薄い湯着の下でぷるぷる揺れる。
「待て。待って。そこは止めようプレジア。なんで護衛騎士が姫様を脱がせようとしてんだ」
伸ばしていた体を縮めて浴槽であぐらを組むサトル。
王族を前にリラックス体勢を止めただけである。他に理由はない。
まだ回復しきってない魔力のせいか、サトルの反応は鈍い。一部の反応は素早い。いちおう童貞ではないのだが。
「……おいプレジア、スキル【八戒】で身体能力を高めるための『八つの戒め』はどうした」
「八つの戒め?」
「なんで首を傾げる。戒めの六つ目は『姫様の湯浴みにご一緒しない』だっただろ」
「…………はっ! だ、だがしかし! ダナビウス国名物のお風呂を姫様と一緒に体験しないなど! 私には耐えられない!」
「ダメだコイツ弱体化しやがった。なあ、うっすらとしか覚えてないんだけど、宿の女将さんが『最近、大河に強力な水棲モンスターが出て困ってる』って話してなかったか?」
「そうなんです。わたくし、サトルさんが元気になったら相談したいと思ってまして」
「近い、近いです姫様。あとで話聞くんでちょっと離れてもらっていいですか?」
サトルに近づいてくるソフィア姫、ソフィア姫ににじり寄るプレジア。
ダナビウス国名物のお風呂はカオスである。
「ほら離れて。あんまり騒がしくするとほかの客に迷惑だから」
宿屋の風呂は貸し切りではない。
男女が分かれていないのも、部屋ごとではなく宿屋に一つしかお風呂がないのも「キレイな水を供給する」「お湯を沸かす」設備を用意するのが大変だからだろう。
宿屋に一つしか風呂がない以上、サトルとソフィア姫とプレジア、旅の一行以外が入ってくるのも当然だ。
サトルの視線の先には、脱衣所の扉を開けて入ってくる人影があった。
湯気でよく見えない。
人影はサトルたちを気にすることなく近づいてくる。
そのまま、バシャッと湯船に飛び込んだ。
「えーっと、この国のマナーってどうなってんだろ。男女分かれてないし湯着も着てるし、体を洗わないで入っていいのか?」
サトルが呟く。
湯船に飛び込んだ女性がビクッ! と飛び上がって、おそるおそるサトルに目を向ける。
背中の半ばあたりまで届く長い髪は青みがかった黒だ。
どこかぼーっとしているが顔立ちは端正で、体のラインも美しい。
まるで作りもののように。
サトルと目が合った女性は顔を歪ませた。
男がお風呂にいることに、ではない。
「ササササトル様ッ!? 違うんですアタシはお風呂が名物だって聞いて決してサトル様と同じお湯に浸かろうなんて大それたことを考えたんじゃなくてすみませんいますぐ出ますから」
ザバザバと大きな音を立てて後ずさる。
サトルからできるだけ速く離れようとするかのように。
「その声、その口調、その内容……まさか」
「あ、あったかいお湯って気持ちいいって聞いたから興味があってすみませんサトル様できれば叩かないでほしいっていうかでも優しくなら叩かれてもいいかなあって」
「お前……ベスタだな?」
「何を言ってるんだサトル? ベスタは馬、いや、ドラゴンでこちらの方は女性だぞ? そうか、まだ疲労が抜けないか。しばらくゆっくり――」
「待ってくださいプレジア、ドラゴンが馬に化けたのです。ひょっとしたら……」
プレジアはサトルの正気を疑い、ソフィア姫はサトルと同じ推測にたどりついたようだ。
「はい、アタシはベスタですだからその、叩くときは優しくお尻を」
「あああああ! 人化できたのかよベスタァ! しかも全裸って! 湯着を着ろ湯着を!」
「すみませんアタシすぐ戻って着てきますでもニンゲンの服って難しくて」
「ベスタが人化できるんならなんかもっといろいろやりようがあったんじゃないですかねえええええ!」
「落ち着けサトル! 増えてる、増えてるぞ! スキル【分身術】が暴走してサトルが増えてるから落ち着くんだ!」
「プレジアもプレジアだろ! 強力な水棲モンスターが出るって話の大河を前になんで弱体化してんだよおおおおおおお!」
サトルは頭を抱えた。
せっかくおっさんがお風呂で癒やされていたのに。
「ふふ、よかった、サトルさんが元気になったようですね。わたくし、ちょっと安心しました」
めずらしく叫ぶサトルを見て、ソフィア姫がくすくす笑う。
サトルが遣東使としてティレニア王国の王都・ティレニアを出発してから一ヶ月半が経つ。
サトルたちは誰一人欠けることなく四ヶ国目にたどり着いた。
だが目的地の東の果て、日の本の国はまだはるか先だ。
「帰りたい。日本に帰りたい。いや日の本の国じゃなくて。そりゃお米や味噌や醤油があるかもとか、どんな国なのかとか気になるけどさあ」
長い長い旅路は、まだはじまったばかりである。
サトルの苦労は続く。
安全と安定と清潔さを求めて役人になったのに、死亡率99.9%の遣東使として。
強力な水棲モンスターとはひょっとしてまだ登場していないあの・・・?
そして今話のシーン(いわゆる温泉回!?)がイラスト付き読める「異世界おっさん道中記」書籍版はMFブックスより絶賛発売中です!
次回から道中記第二幕、出発!




