第一話
ティレニア王国の王宮に、一人の男の姿があった。
くすんだ灰色の服は下級官吏の制服である。
すれ違う下級官吏と目礼を交わしながら、男は廊下の端を歩いていた。
「朝はお貴族様や上級官吏がいなくて歩きやすいな。はあ、いつもこうならいいのに」
孫乃 悟、30歳。
下級官吏としてティレニア王国の財務局に務める小役人である。
「お役所勤めのデメリットは、平日は仕事があることと貴族や上級官吏の存在だよなあ」
職場へと向かいながら、サトルは小さな声で独り言を呟いた。
10年前にダンジョン『混世蟻の迷宮』を踏破したのを最後に、サトルは冒険者を引退した。
スキル【分身術】は強力だったが、デメリットが大きかったのだ。
分身が受けたケガも死も追体験する。
実際にケガを負ったり死ぬわけではないが、自分の身に起きたように感じるのは変わらない。
ダンジョンが元の世界に繋がっていないと知ったサトルは、拷問のような生活から抜け出した。
「お役所勤めの一番のメリットは安全と安定と清潔さだな。今日のトイレもキレイでした」
冒険者を引退したサトルは隣国へと移住した。
魔道具の研究と開発が盛んだったその国は、高級宿や貴族の屋敷、王宮など一部のトイレに魔道具が使われていたのだ。
しかも海も山も平野もあり、食文化も充実している。
もちろん、元の世界とは比べるべくもないが。
冒険者を引退したサトルには稼ぐ手段がなかった。
貯金はあったが働かないで一生暮らせるほどではなく、高校生だったサトルは手に職もない。
ほどほどに稼ぐ程度では、魔道具を使った清潔なトイレがある暮らしは不可能だ。
そこでサトルは思ったのである。
そうだ、設備が充実した安全なところで働けばいい、と。
幸いなことに、サトルはこの世界の文字を読み書きできるし、会話も問題ない。
高校生だった以上、とうぜん四則演算は楽勝だ。
この世界の平民としては珍しいことに。
「んじゃ今日も働くか。おはようございまーす」
こうして、孫乃 悟は元の世界に還る夢を諦め、冒険者を引退して、ティレニア王国の小役人となったのである。
□ □ ■ ■ □ ■ ■ □ □
「サトルくん、こっちの書類も頼むよ。検算だけでいいから」
やりかけていた書類から目を上げて、上司である上級官吏を見つめるサトル。
サトルの机の上に羊皮紙が積み上げられた。
「……わかりました」
「頼んだよサトルくん。儂は納品物の確認に行ってくる。あとは任せた」
ひらひらと手を振って、上級官吏が扉から出ていった。
いつもの光景である。
「先輩、大丈夫ですか? 僕、手伝いますよ?」
「まあこの程度なら問題ない」
「でもあの上司、いっつもこんな感じで」
「お貴族様の言うことには逆らうなって。それにほら、頼まれたのは検算だけだから」
「さすが先輩です。計算速いからなあ」
見かねた後輩がサトルに手伝いを申し出るのも、サトルが断るのもいつもの光景だ。
サトルの職場は、ティレニア王国財務局王宮財務部である。
簡単に言うと、王宮の経理を司る部署だ。
王宮の各部署で発注した物品が報告され、支払額を確認する。
納品物のチェックや支払いの準備も王宮財務部の仕事である。
ちなみに実際の業者への支払いは、王宮財務部がまとめて払うのではなく各部署から行われる。
出入り業者からのキックバックや特定業者への優遇など癒着の元となりそうだ。
まあそのあたりは「頼んだ俺がお金を払ってやる」という見栄やメンツもあるのだろう。なにしろ発注責任者はたいてい貴族なのだ。
あるいは王宮財務部が業者へまとめて支払わないのは、過去の財務大臣や上級官吏が不正でもやらかしたか。
全部署分の支払いまで行うとなれば扱う額も大きく、それに伴う権力も大きなものになるだろう。
実際はそこまで扱わず、王宮財務部にたいした権力はない。
なお、サトルのような下級官吏は書類のチェックと納品物の確認程度がせいぜいで、直接お金を扱うことも各部署と折衝することもない。
そのあたりは貴族出身の上級官吏のお仕事である。
つまりサトルは紛うことなき下っ端。
小役人だった。
「一段落したらお茶でも淹れるかなあ」
「いいっすね先輩! この前、実家の商会から香草を送ってもらったんで、僕が淹れますよ!」
「ああ、ありがとう」
サトル本人は小役人なことを気にすることもなく、それなりに充実しているようだが。
そもそもサトルからしたら、文字さえ読めれば計算など楽勝であり、日が落ちる前に勤務時間も終了するのだ。
6日働いて1日休みの勤務形態だが、週30時間程度の労働、しかもサトルに任されるのは簡単な事務仕事だけである。
上司がサボリ魔とか貴族とかかわると面倒だとか、そんなことが気にならないほどホワイトな職場であった。
□ □ ■ ■ □ ■ ■ □ □
「あっ、サトルさん! いらっしゃいませ!」
勤務を終えたサトルは王宮を出て馴染みの店に向かった。
下級官吏は通いなのである。
もっとも、貴族も上級官吏も、街中にある屋敷から王宮に通っている者がほとんどだ。
例外は一部の侍女やメイド、騎士や衛兵、それに王宮で暮らす王族ぐらいであった。
「こんばんは。今日もここでメシを食ってくよ」
「いつもありがとうございます!」
簡単な調理しかできないが、いちおうサトルは料理ができる。
ソロ冒険者時代に身につけたスキル外スキルである。
ただ小役人となってから、サトルはほとんど外食で済ませていた。
下級官吏といえど、平民の中では高級取りなのだ。それぐらいの余裕はある。
現代日本で生まれ育ったサトルは、自分の料理に満足できなかったらしい。
あるいは自炊が面倒だったのかもしれない。
「今日は何にしますか? ちなみにオススメは魚介のスープです!」
「港町から隊商でも来たのかな? んー、じゃあそれにスパゲティをぶちこんでくれる?」
「えっ……スープにスパゲティを? そ、その、やってみますね!」
ティレニア王国は食の国である。
国土は半島として海に突き出しており、とうぜん周囲は海に囲まれている。
王都であるこの街から海までは馬車で二時間ほどかかるが、新鮮な海産物はそれほど珍しくはない。
さらに小麦が採れることもあってか、パスタも存在していた。
生麺だけでなく乾麺もあり、しかもフォークで食べるスタイルである。
モンスターが出没するため畜産業の規模こそ小さいが、一方で種類によっては食べられるモンスターも存在する。
この国の「羊皮紙」は、羊の皮だけではなくモンスターの皮も使われていた。
魚、小麦、野菜、肉から、茸や山菜、木の実といった森の恵みまで国内で入手できる。
ティレニア王国の食文化が発展するのも当然のことだったのだろう。
魔道具だけでなく食にも惹かれてサトルが移住したのも頷ける。
「サトルさん、お待たせしました! スープにスパゲティを入れるなんて意外でしたけど、けっこう美味しくできたと思います!」
「あー、ほら、俺がいたところではたまにね」
「あの山と森の国、山岳連邦ではこんな食べ方があるんですね!」
「……行商人に教えてもらったから、あの国でも珍しいのかもなあ」
平日の勤務後に、サトルはよくこの食事処を利用している。
元冒険者ということは伝えてないものの、サトルは雑談の中で出身国を伝えていたらしい。
サトルが山と森の国に転移して2年過ごしていたことは間違いないが、正確には「出身国」ではない。とうぜん「スープスパゲティ」も山岳連邦の食べ方ではない。
サトルはごまかすように笑って、追加でワインを頼んで店員ちゃんのツッコミをかわすのだった。
「さてっと」
ガヤガヤと騒がしい食事処兼宿屋の一角。
サトルは木製のスプーンとフォークを手に食事にとりかかる。
湯気が立つスープには、大ぶりの海老や貝がゴロゴロ入っている。
まずは、とばかりにスプーンでひとすくいすると、わずかに白く濁ったスープが香る。
「見た目はアレだけど……ああ、やっぱり美味い。香味野菜と塩と海鮮の旨みだけでこれだけ美味いなんて。ほんと、食事は外食に限る」
独り言である。
「ふふ、サトルさんは本当に美味しそうに食べますね! お父さんにも伝えておきます!」
いや、店員ちゃんが聞いていたようだ。
店員ちゃんはゴトッと陶器のジョッキを置いて、鼻歌まじりですぐに去っていった。
残されたのは、独り言を聞かれて恥ずかしげなサトルだけである。
「さ、さて、気を取り直してっと」
左手にスプーン、右手にフォークを持つサトル。
店内のほかの客はスプーンかフォークのどちらかを使うだけで、サトルのような両手持ちはいない。
サトルはクルクルとフォークをまわしてスパゲティを絡め、スプーンでよそったスープに浸しながら口に運んだ。
隣の席に座った商人らしき男が「なんと器用な」と驚いているがスルーである。
「悪くない。悪くないんだけど……。一緒に食べるならもうちょっとスープが濃い方がよかったかな」
思ったより微妙だったようだ。
そもそも魚介のスープにスパゲティをぶちこんだだけで、スープスパゲティを知らない料理人は味の調整もしていない。
別々に食べた方が美味しいのは当然だろう。
「今度おっさんに話してみよう。新しい料理のヒントになって、またしばらくメシ代を無料にしてくれるかもしれないし」
下級官吏といえど、街では高級取りな部類である。
高級取りなのだが、サトルはやけにケチくさかった。
ムダ遣いを嫌ってオトクを好む。
やはり小物、もとい、小役人である。
ワイン一杯とスープスパゲティで食事を済ませたサトルは自宅に帰ってきた。
一階の雑貨店はもう鎧戸が閉まっている。
横の扉のカギを開けて、サトルは階段を上っていった。
サトルの自宅は一軒家ではない。
木造四階建ての集合住宅、その四階に住んでいる。
一階は日用品や旅用の雑貨を販売している商店、二階三階はその家族が暮らす住居。
四階の一室がサトルの自宅である。
隣の集合住宅との間に作られた階段は、二階と三階の部屋を通らずに四階まで上がれる。
ギシギシと小さくきしむ階段を上って、サトルはようやく家に帰ってきた。
「ただいま」
カギを開けて自室に入る。
サトルは玄関に敷いた布の上で靴を脱ぎ、上着を脱いでざっと埃を払う。
雑貨屋の家族が見たら「さすがお役人さん、キレイ好きだねえ」などと喜んだことだろう。
大家としては、店子がキレイ好きなことはうれしいポイントらしい。
木製のハンガーに上着をかけて、サトルはようやく玄関から自室に上がる。
室内は仕切りがない一間だ。
階段とは逆に一部石造りの壁面が見えるだけで、あとは木造。
およそ12畳ほどのワンルームである。
トイレはない。
風呂もない。
というか洗面台もキッチンもなく、そもそも水回りがまるごとない。
木製のベッド、座り心地が良さそうな布張りのソファ、ローテーブル、食事を買ってきた時に使うテーブルとイス、壁際の長机、小さな本棚と後付けのクローゼット。
ランタンの光を反射するフローリングは、きちんと蜜蝋を塗って手入れされているのだろう。
シンプルで清潔な部屋だった。
30歳のおっさんは料理以外の家事をこなしているらしい。
「ああ、やっぱり自分の部屋は落ち着く。はあ、今日もがんばった俺」
どさりとソファに座り込んで呟くサトル。
言葉はわかる、文字も読める、仕事はそれほど難しくなく、危険もない。
それでも、一日の終わりにはこうしてぐったりとソファに身を預けるのがサトルの日課であった。
「さてっと」
一休みしてサトルが動き出す。
ランタンをテーブルに置いてクローゼットの扉を開けた。
クローゼットから肩掛けカバンを取り出すと、壁際に置いた長机、サトルいわく「キッチン」に向かう。
サトルは無造作にカバンに両手を突っ込んだ。
何も入っていないように見えるカバンから出した両手は、水がなみなみと湛えられた水瓶を掴んでいた。
水瓶の口からはわずかに湯気がでている。
まるで、いま温めたばかりのように。
「やっぱりマジックバッグが便利すぎる。というかこれがなかったら四階には住めないよな。みんなどうしてんだろ」
自称キッチンに置いていた盥にお湯を注いで布を浸す。
服を脱いで、絞った布で体を拭く。
本来は、水が必要なら中庭の井戸で汲んで四階まで上げなくてはならない。
サトルほどの高レベルになれば苦ではないが、手間はかかる。
上階になるほど家賃が安くなるため、サトルは四階の部屋を借りていた。
なにしろサトルは、ダンジョン踏破の際に『異界の宝物庫』で手に入れた魔法のカバンを持っている。
見た目以上の収納量で、中に入れた物が変化しないマジックバッグは貴重なマジックアイテムであった。
冒険者を引退したサトルは、もっぱら水とお湯を保存する便利な道具としか使ってない。宝の持ち腐れである。
「明日はサウナに寄って帰るか。ほんとこの国に来てよかった。ああそうだ、水とお湯も補充しておかないとな。隙を見て沸かしておこう」
サトルは、忙しくても三日に一度はサウナを利用している。
ティレニア王国の王都ティレニアには、公衆浴場として魔道具で温めるサウナが存在していた。
湯船はない。
利用料はそこそこの値段だが、平民でも高級取りのサトルにとっては問題なかったようだ。
家は風呂なし共同トイレ、水場が遠い木造四階のワンルーム。
それでもサトルに不満はなかった。
なにしろ宿よりも、ひょっとしたら王宮よりも清潔なのだから。
もっとも、清潔でいられるように掃除や洗濯は自分でやっているのだが。
月明かりで本を読んで、室内でもできる魔法の練習をして、満足したのかサトルはベッドに入った。
衣食住足りて礼節を知る。
孫乃 悟、30歳。
元の世界に還るという夢は破れたものの、サトルはほどほどに異世界感を楽しみつつ、小役人として安定した生活を送っていた。
恋人はいない。