第六話
サトルが遣東使としてティレニア王国の王都を発ってから一週間。
一行は旅を続けて山岳連邦に近づいていた。
「はあ、先は長い。でもまあ、本当に野営でもOKだったのは朗報か」
平地や丘陵ばかりだったティレニア王国も、北上して山岳連邦に近づけば山が増えてくる。
ぴったり同じではないものの、サトルがいた世界で言うところの北イタリアである。
ティレニア王国ではこのあたりの道も整備されているが、それでも平地や丘陵と比べると道は悪い。
天候に恵まれない日は宿場や町にたどりつけないこともあった。
だが、王宮育ちのソフィア姫も貴族で騎士のプレジアも、野営することに文句を言わなかった。
ソフィア姫はむしろ楽しそうで、そしてプレジアは姫様との野営にハイテンションだった。いまのところプレジアの『八つの戒め』は守られている。サトルが守らせている。
「いくら第三騎士団ががんばってても、山に近づくとモンスターが増えるなあ」
遠くを見つめながらボヤくサトル。
山地に入ったいまではアップダウンで見通しが悪く、深い森も広がっている。
国内のモンスター討伐を任せられた第三騎士団も、モンスターを見落とすことが多いのだろう。
ほとんどの山や森は、人ではなくモンスターの領域であった。
「……分身の数を増やそうかなあ。でもそうすると旅の疲れがキツくなるんだよなあ。悩ましい」
街道の横をわずかに下ると、キレイな小川が流れる川原があった。
サトルは川原の石に腰かけて頭を悩ませている。
「きゃっ! 川の水とは冷たいものなのですね!」
「姫様がおみ足をあらわに……姫様の生足……」
「おいプレジア、見蕩れるなよ! ほら、馬の世話をするように!」
「むっ、だがサトル!」
「俺にこっちに来るなって言ったのはプレジアだろ? 馬がバテたら姫様は徒歩で山越えすることになるんだぞ?」
「くっ、そんなことをさせるわけには! わかった、諦めよう……」
「渋々って。ほんと大丈夫かこの護衛騎士。スキル【八戒】で自分で立てた『八つの戒め』の中に、姫様に見蕩れないってのがあったはずなのに」
背後から聞こえる声に、サトルはがっくり肩を落とす。
上司と後輩の板挟みや仕事量に悩むベテラン小役人から解放されたのに、サトルの気苦労は絶えないようだ。おっさんの哀しさよ。
隣国である山岳連邦に向けて旅をしていた一行は、川原で休憩していた。
この先から上りが続くため、馬を休ませようとしたのだ。
サトルは大型リュックを下ろし、手頃な石に座って川に背を向けている。
ブーツを脱いでズボンの裾をまくり、生足をさらしたソフィア姫への配慮であった。紳士か。素人童貞なのに。姫様を見ないサトルの代わりに馬の世話を買って出たのに、姫様に釘付けの護衛騎士とは大違いである。
「おっと、よしよし、いまブラッシングしてやろう! 先に水を飲むか?」
ブルルンッと馬が鼻を鳴らす。
馬具を外して身軽になった馬が、川に口をつけて水を飲む。
うららかな陽射しに満ちた、旅の合間の穏やかな時間だった。
この時までは。
「わっ! 見てくださいプレジア、おっきな影です! さかなでしょうか?」
「おお、よく見つけましたねさすが姫様! ん? 魚影にしては大きいような?」
川の中に何かを見つけたのか、はしゃいだソフィア姫の声がサトルの耳に聞こえてくる。
続けて、不審に思ったプレジアの声も。
「姫様、下がってさいッ!」
プレジアの慌てた声にサトルは立ち上がり、振り返って川を見た。
川の淵から近づいてくる巨大な影。
浅瀬に素足をつけたソフィア姫の元へ急ぐプレジア。
気配を感じたのか、白馬が数歩あとずさる。
まるでスローモーションのようにゆっくりと、サトルにはすべてが見えていた。
巨大な影が水面を割る。
ザバッと水音がした。
「うっそだろ!?」
「くっ、姫様、サトルのところへ下がってください!」
影が飛び出して水飛沫をあげ、うららかな陽光を受けてきらめく。
鋭い牙、爬虫類のような顔立ち、額から伸びる角、縦長の瞳孔がギョロリと獲物を捉える。
長い首をもたげて水面から飛び出て、濃い藍色の鱗に覆われた体をさらす。
体が細身なのも両翼が畳まれているのも、水の抵抗を軽減するためだろう。
岩をも斬り裂く爪を川原に突き立てて、飛び出た勢いを制動する。
「なんでこんなところに! ドラゴンが!?」
ドラゴン。
この世界でも物語に謳われるモンスターが姿を現した。
大きな口を開けて獲物に襲いかかる。
「下がれプレジア!」
「くっ、だがサトル!」
「ムリだ、助からない! 諦めろ!」
川原にサトルの声が響く。
サトルは地面に置いた円盾を拾い上げ、手にした杖をドラゴンに向ける。
指示を受けて諦めたのだろう。
タワーシールドを構えたプレジアがじりじりと後ろに下がる。
バクンッと、ドラゴンの顎が勢いよく閉じた。
まるで抵抗などないかのように、肉を断ち切って。
グチャグチャと咀嚼音が聞こえてくる。
ドラゴンに喰いちぎられ、大半を失った体が、どちゃっと川原に崩れた。
ドクドクと真っ赤な血が流れる。
人間を嘲笑うかのように、あっさりと一つの命が失われた。
「キャサリーーーン!!! くそう、ドラゴンめ!」
「サ、サトルさん、プレジア、わたくし」
「大丈夫です姫様。さあ俺の後ろに。……ってプレジア、白馬に名前つけてたのかよ」
川の近くにいたソフィア姫は、プレジアの背後で震えながら、素足のままサトルに近づいてくる。
咀嚼していた白馬を、ゴクリとドラゴンが呑み込んだ。
まわりの岩ごと噛み付いて、残る白馬の下半身を口にする。
「石も岩も関係なしか。ドラゴン。話で聞くより小さくて細身だな」
「サ、サトルさんは冷静なのですね。わたくし、腰が」
「ぷるぷるする姫様かわいいです! でも当然です姫様、あまりの強大さに私も身が震えていますから」
プレジアのプレートメイルがガチャガチャ鳴っているのは、身の震えが止められないからだ。
自分よりレベルが10以上離れたモンスターと相対した時に起こる現象である。
「姫様、走れますか? プレジアは?」
「が、がんばります。わたくし、わたくしはけんとうしで、日の本の国へ行くために、おかあさまの手紙を、」
ガチガチと歯を鳴らしながら答えるソフィア姫。
プレジアがレベル32なのに震えていることを考えれば、レベル11のソフィア姫が立って話せているだけで驚異的だ。
だが、走れそうにない。
地面ごと白馬を喰い尽くしたドラゴンが、ギョロリと三人に目を向ける。
ソフィア姫は「ヒッ」と小さく悲鳴を漏らしてサトルにしがみつく。
プレジアがうらやましがる声はない。
ソフィア姫の護衛騎士は、体を震わせながら盾を構えていた。
まっすぐドラゴンを見つめて。
「……サトル」
「なんだプレジア。『私が姫様に触れたいのに』って苦情は受け付けないぞ」
冗談めかして言うサトルだが、プレジアの固い雰囲気は変わらない。
「姫様を連れて逃げろ」
「ダメです、プレジア、逃げるならみんなで、わたくしは一人で走れますから」
「……本気か、プレジア?」
「もちろんだ。言ったろう? この身に代えても姫様を守ると」
盾を構えて前を、ドラゴンを見つめたままプレジアが微笑む。
ソフィア姫の護衛騎士として。
「プレジア、わたくしは、プレジアも一緒に」
「オークと人間のダブルだと、父様と母様のいいとこ取りなのだと自信を持てたのは姫様のおかげです。いままでありがとうございました。姫様の旅が成功するよう祈っております」
「そんな、プレジア、これが最期みたいなことを、わたくしはプレジアと」
「サトル、姫様は任せたぞ! 短い間だったが世話になった!」
そう言って、プレジアは背中にかついだ両手剣を抜いた。
左手でタワーシールドを、右手で両手剣を構える。
オークとのハーフで、生まれ持った力を利用した戦闘スタイルである。
命に代えても姫様を逃がす、とばかりにドラゴンを睨みつけるプレジア。
プレジアの決意を感じて涙を落とすソフィア姫。
襲うかどうしようか考え込んでいるように動かないドラゴン。
先ほどまでの、うららかな陽射しに満ちた穏やかな時間がウソのような緊張感。
そんな川原に、やけに気の抜けた声が響いた。
「しゃあない、本気出すか……プレジア、下がれ。姫様を頼む」
サトルはすたすたと歩いて、命がけの戦いに挑もうとするプレジアの前に出る。
「サトルさん!?」
「サトル、正気か? 相手はドラゴンだぞ? 文官が前に出てどうするのだ!?」
サトルは円盾のベルトをいじって左腕に固定して、右手の杖を持ち直す。
濃いブラウンの革鎧と厚手のマントを身にまとったサトルが、気負うことなくドラゴンに近づいていく。
「プレジア、姫様も。黙ってて申し訳ありませんでした」
ドラゴンを見据えたまま、サトルが二人に告げる。
最期の言葉。
いわゆる遺言、ではない。
「俺、レベル64なんです」
なんでもないようにサトルが言った。
魔法省長官の鑑定魔法を受けた時より1上がっている。
「……え? サトルさん?」
「…………は? レベル64? レベル64ッ!? なんだそれは! 騎士団長や一流冒険者以上だぞ!?」
木漏れ日が落ちる川原に女性陣の声が響く。
近づいてくるサトルを警戒したのか、あるいは警告なのか。
グルルルルッとドラゴンが喉を鳴らす。
「さて。ここまで一緒に旅をしてきた白馬の仇を取ってやらなきゃな」