閑話1
ティレニア王国の王都。
王宮の地下にある薄暗い部屋。
この部屋の存在は王や一部の者にしか知られていない。
また、入室の許可が出るのも一部の者だけだ。
壁際に並べられたロウソクの灯りが「祈りの間」と呼ばれる部屋をぼんやり照らしている。
ロウソクの灯りは魔法なのか、部屋は暑くなることも呼吸できなくなることもなかった。
そのロウソクに向かって正座し、両手を合わせる一人の女性がいた。
ロウソクの灯りできらめく艶やかな黒髪、ティレニア王国では見かけない服装。
伏せられた瞳は黒い。
トモカ妃である。
「やはりこちらにおったか」
「陛下。うむ、あの子の安全を祈っておったのじゃ」
薄暗い部屋に現れたのは、ティレニア王国の国王その人だった。
遣東使の各組に遅れてサトルたちが王都を出立した日から三日後のことである。
「遣東使のうち早いものが出立してから一週間か。命の灯の様子はどうだ?」
「すでにいくつか消えておるのじゃ」
「ふむ……やはり遣東使は過酷よのう」
壁際に並べられたのは、ただのロウソクではない。
命の灯。
事前に登録しておけば、遠く離れた人物の生死を教えてくれる魔道具である。
どれだけ離れていようと、登録された人物が死ねばロウソクの灯が消える。
このマジックアイテムがあるから、過去の遣東使の死亡率も判明したのだ。
99.9%という絶望的な数字だが。
命の灯はすでに4本が消えていた。
この世界における「旅」は、サトルがいた世界の旅ほど安全なものではない。
「ソフィア、プレジアの灯は変わりなく燃えておる。悟とやらも問題ないようじゃ」
「ソフィアが出立したのは三日前だったか。まだこの国を出ておらぬだろう」
「じゃが! すでに死んだ者もいるのじゃ! 半分しか旅しておらぬ妾でも遣東使の過酷さは知っておる!」
「すまん……こうすることでしか娘を守れなかった、不甲斐ない我を許してほしい」
そっと寄り添う二人。
服装さえ気にしなければありふれた夫婦のようだ。
現在「祈りの間」には第八側妃であるトモカ妃と国王しかいない。
国王にとって数少ない、包み隠さぬ本音が言える機会であった。
「望まぬ婚姻を避け、不審がられぬよう最少人員で遣東使として任命する。我の権勢が強くなれば、途中で呼び戻すつもりでおる」
「それには及ばぬ。ソフィアは強い子じゃ。きっと、もう一つの故郷の土を踏んでくれるじゃろう」
日の本の国から嫁いだトモカ妃には後ろ盾となる貴族がいない。
だからこそ第八側妃であり、国王には正妃のほかに6人もの側妃がいる。
とうぜんほかの妃たちには実家の貴族家やその派閥があり、正妃にいたってはとある国の王族だ。
トモカ妃とソフィア姫が苦しい境遇に置かれるのは自然なことだったのだろう。
「愛する者を守れぬとは……国王とはなんなのか。ままならぬものよ」
「じゃが、優秀な人材をつけてくれたのじゃろう?」
「うむ。知っての通り、プレジアはソフィアに忠誠を誓っておる。あのスキルをもってソフィアとともにいる限り、個人の戦力としては騎士団でも最強に近いだろう」
「あれか……母親としてはどうかと思うのじゃが……まあソフィアを守るためじゃ、仕方あるまい」
「それと、世間擦れしていない二人のためにつけた『文官』だが――」
「黒髪黒目の異邦人じゃな。どこか懐かしい顔立ちじゃったが、なんぞ秘密でもあるのかのう?」
「12年前、突如として山岳連邦内の小国に現れたソロ冒険者がいた」
「山岳連邦、12年前。ちょうど妾がそのあたりを通った頃かのう。さて、有名どころの冒険者にはソロの者などいなかったはずじゃが」
「登録時はレベル1だったのに、その冒険者はわずか2年でダンジョンをソロで踏破したのだという」
「……は? レベル1から2年でダンジョンを踏破? ソロで? 笑えぬ冗談じゃ」
「そしてその冒険者はダンジョン踏破後、こつ然と姿を消した。『冒険者を引退する』と言い残して。その冒険者は黒髪黒目で、さまざまな民族と国が集まった山岳連邦においても見慣れぬ顔立ちだったという」
「……まさか」
「サトルという下級官吏が、本当にその冒険者かどうかはわからぬ。だが爺、魔法省長官が密かに使った鑑定魔法によれば――」
遣東使に任命するため、国王はサトルを執務室に呼び出した。
同席していたのは財務大臣、近衛騎士団団長、そして国王に何やら耳打ちした魔法省長官だ。
「サトルのレベルは、63だったという」
「63じゃと!? 騎士団長や超一流冒険者クラスではないか! なにかの間違いじゃろう!?」
「うむ、爺も信じられず鑑定魔法を二度使い、二度とも同じ結果であったらしい」
「なんと……いや、ソロでダンジョンを踏破した者であればあるいはそのレベルも当然かもしれぬが……じゃがなぜ下級官吏に? それほどのレベルであれば、どの国であれ騎士に迎えるじゃろう。貴族の護衛、冒険者として名をなすことも可能じゃ」
「さあ、それはわからぬ。だが、これでソフィアを害することは不可能に近いだろう」
「道理で、文官なのに妾が放った殺気にも動じぬわけじゃ。とんだくわせ者じゃのう」
「そんなことをしておったのか。あいかわらずよな」
「むっ。大切な愛娘を預けるのじゃ、それぐらい当然じゃろう! むしろ薙刀を持ち出さなかっただけ褒めてほしいところじゃ!」
ぷっくりと頬をふくらませてむくれるトモカ妃。
夫に甘えているのだろう。
ひさしぶりに最愛の人と二人だけ、たがいの立場も気にしない状況なのだから。
あるいは愛娘を危険な旅に送り出した心配と寂しさもあるのかもしれない。
「だがそれだけの実力があれば、問題なくこの国を抜けられるだろう。死亡率99.9%の遣東使なのだ、放っておいても死ぬのに手を出す貴族もおらんだろう」
「三人じゃからな。手を汚す危険を冒すとしたら帰りの方が危ないかもしれぬのう」
「うむ、そこは考えねばな。だが手を出すとしたらおそらく、ソフィアの立場とは関係なく」
「教会か。妾たちの国の信仰は認められぬと。神は唯一にして絶対、らしいからのう」
「魔法書はともかく、異なる宗教体系が書かれた聖典は秘匿しておけばよかったものを。父は何を考えていたのか」
「それは難しいのじゃ。妾たちの『魔法』の根源には、その考え方があるからのう」
「むう。いずれにせよ監視を強めるしかないか。目的は聖典ではないと言うのに」
遣東使のリスクは、モンスターや盗賊、長い長い旅路だけではなく、ほかにもあるらしい。
この国や周辺諸国には一神教の宗教が根付いている。
教会にとって、「異なる宗教」でしかも「多神教」の日の本の国の信仰体系は認められないらしい。
「それにしても……遣東使。まさか我が、娘や未来ある若人たちを死亡率99.9%の過酷な旅に送り出し続けることになるとは」
「空いた領地はなく、空く席は少ない。為政者としては仕方ないところじゃろう。他国との戦争や単なる口減らしではないだけまだマシじゃ」
「だが……」
「その優しさは好ましいのじゃがのう。それに、妾もソフィアも可能性に賭けたのじゃ。きっとほかの遣東使たちもそうじゃろう。あるいは『冒険』を望んだのかもしれぬがの」
眉を寄せて悩む国王の頬に、トモカ妃がそっと手を添えた。
気が抜けたように、国王が深いため息を吐く。
為政者として臣下にもほかの妃にも見せない姿である。
「いかに厳しい旅であろうと、為せば栄達が約束されておるのじゃ」
「そうだな。たしかに、そうだ」
「それに……望まぬ婚姻や窮屈な後宮暮らしをさせるぐらいであれば……たとえ異国で死のうとも、あの子に自由を味わわせてやりたかったのじゃ」
「トモカ……すまぬ……」
「もし日の本の国が気に入ったら、帰ってこなくともよい。ソフィアに託した手紙にはそんなことも書いてあってな」
「はは、トモカらしいのう」
「ふん、妾らしくないわ。本当の妾であれば……すべてを捨てて、捨てさせて、お主とソフィアと旅に出るじゃろうからな」
国王に抱きついたトモカ妃が、上目遣いでニカッと笑う。
「はは、ならば我らも遣東使になればよかったかもしれぬな」
すべてを捨てて逃げ出して、愛する妻と娘とともに、妻の故郷を目指す。
いかに魅力的な案だろうと、決して叶わぬ妄想だ。
国王は生まれた時から王族であり、トモカ妃は理解したうえで側妃となったのだから。
「さて。我は仕事に戻ろう。この扉を出て、国王とならねばな」
「では妾は、妾たちの娘の無事を祈っていよう。お主の分まで」
二人はそっとくちづけを交わして身を離した。
トモカ妃はふたたび床にヒザをついて正座し、手を合わせる。
国王は振り返ることなく扉を抜ける。
ティレニア王国の王都。
王宮の地下にある薄暗い「祈りの間」。
そこには、旅に出た娘の無事を祈る一人の母親がいた。