海恋語
随分と昔の話です。
それは、まだ海が透明だった頃。
海の底にある国に、とても可愛らしい女の子が生まれました。
アリシアと名付けられた女の子は、人魚や魚、みんなに愛され、すくすくと育っていきました。
やがて美しい娘へと成長したアリシアは、ふと外の世界を見てみたくなりました。
魚たちがいつも話してくれる地上の様々なものをこの目で見てみたくなったのです。
しかし、地上には危険もたくさんあるということも聞かされてきました。
もしこんなことを誰かに話したなら、きっと止められてしまうでしょう。
そう思ったアリシアは、誰にも言わずに家を出ました。
「ちょっと覗いてくるだけだわ。お日様が沈む前に帰ればいいのよ」
太陽が降り注ぐ方向へ、アリシアはぐんぐんと上がっていきます。
しばらくして海面へたどり着いたアリシアは、なにかキラキラとしたものを見つけました。
「何かしら?」
岩陰に挟まったそれは、どうやらペンダントのようです。光にかざすたびにキラキラとするそれに、アリシアは夢中になりました。
手に取って見つめていると、不意に足音が聞こえました。
アリシアは魚たちの言っていた言葉を思い出しました。
『人間は僕たちを獲って食べてしまう、恐ろしい奴らなんだ』
「大変!見つかったら食べられてしまうわ!」
アリシアは慌てて海に潜り、自分の家へ帰りました。
次の日のことです。
アリシアは困ってしまいました。
昨日慌てて帰ってきたせいで、ペンダントを持って帰ってしまったのです。
どうしようか迷っていると、魚たちの声が聞こえてきました。
「ねぇきみ、知っているかい?浜辺に住んでる男の子、岩場でペンダントを無くしたんだってさ」
「へぇ、そりゃあ大変だ。何てったって、アレは彼の母親の形見だろう?」
「そうそう。彼も彼の家族も、僕たちが網に引っかかったら逃がしてくれる優しい人間だったのにね。可哀想に、海に流されていたら、もう見つからないかもしれないね…」
いよいよアリシアは困ってしまいました。
「返しに行かなくちゃ!」
もう日は傾き始めています。ペンダントを握り締め、全力で泳ぎました。
昨日の岩場に出ると、案の定、少年が岩場を探しているようです。
「どうしましょう。ペンダントを返したいけれど、見つかったら食べられてしまうのよね」
アリシアは少し考えると、ペンダントを目立つ位置に置いて、石を少年の足元へ投げました。
少年はその小さな音にちゃんと気付いたようで、不思議そうにしながらもこちらを向き、ペンダントを見つけると嬉しそうに駆け寄ってきて、そして不思議そうにこちらに視線を向けました。
その様子を見ていたアリシアは海に潜ったものの、わずかに遅かったようで、少年と目が合ってしまいました。
「待って!」
少年の言葉を無視し潜り続けます。
「待って、ねぇ、人魚さん!」
その言葉に一瞬だけ動きを止めたアリシアは、しかしすぐに底へ底へと泳いで行きました。
「お願い人魚さん、明日もここへ来てください!待っているから!」
海の中で、くぐもった少年の声が響きました。
「ねぇ、僕たちの話聞いてる?」
「え?ごめんなさい、ぼーっとしてたわ」
「今日のアリシアはずっとそうだね」
アリシアがそう言うと、魚たちは不満そうにそう言いました。
「そうかしら」
アリシアが気になっていたのは、他でもない少年のことでした。
姿を見られてしまったのにもう一度会いに行くなんて、自殺行為だとしか思えません。
しかし、昨日の少年の「待ってる」という言葉が耳から離れないのでした。
魚たちと別れたあと、アリシアはそっと家を出ていきました。
岩場近くに顔を出すと、少年がこちらに気付いて身を乗り出しました。
「本当に来てくれたんだね」
「あなたが待ってるって言ったから。ねぇ、あなたは私が人魚だって気付いたのに、どうしてあんなことを言ったの?捕まえて食べてしまう気かしら」
アリシアが捕まえられない距離を開けて答えると、少年は困ったように頬を掻きました。
「君はペンダントを見つけてくれたでしょう。だから、お礼が言いたくて。安心してよ、僕は君を捕まえたりも食べたりもしないよ」
不思議とその言葉は嘘には思えませんでした。
それでも警戒を隠さないアリシアに、少年は足元に置いていたバスケットを海に放り投げました。
大きな水しぶきを上げて着水したバスケットは、浮き袋のおかげでぐらつきながらも浮いています。
「それ、ペンダントのお礼。よかったら受け取ってよ」
恐る恐る中身を見ると、不思議なものがいっぱい入っていました。
赤くてすべすべした丸いもの。紫色の房になっているもの。黄色い弧を描いたもの。
「それ、全部地上で採れる果物なんだ。気に入ってくれたら嬉しいんだけど」
「これ、食べ物なの?すごいわ!」
どれも見たことのないものばかりですが、とても美味しそうです。
「でも、これは受け取れないわ。だって私はおうちにこれを持ち帰れないし、食べていく時間もないんだもの」
少年がくれた果物を海のみんなにも見せてあげたら、きっと喜ぶでしょう。ですが、そうしてしまったら地上に遊びに行っていたことや、ペンダントの話までしなければなりません。かと言って、ここで食べていくにはもう時間がありませんでした。太陽が沈みかけているのです。
急いで帰らなければ、みんなに心配されてしまいます。
アリシアが残念そうにバスケットを近くの岩に置くと、少年はなんでもないように言いました。
「なら、明日もおいでよ。気になったものから毎日ひとつずつ食べて行けばいいよ。果物がなくなるまで毎日、僕はここにいるからさ」
なるほど、それなら問題はないかもしれません。
アリシアが頷くと、少年は嬉しそうに笑いました。
「気が向いたら行くことにするわ」
そう言ってアリシアは海に潜りました。
「僕の名前はリュゼ。それじゃあ明日、待っているから」
底へと泳ぐアリシアを、またくぐもった声が追いかけてきました。
翌日も、その次の日も、アリシアは岩場へ行き、リュゼから果物をもらいました。
アリシアが果物を食べている間、リュゼは様々な地上の話をしてくれました。そのどれもが面白く、アリシアもまた、お礼に海の中での話をするようになりました。
いつの間にか、果物を食べているだけの間だった会話の時間は、太陽が海に顔を付けるまでの間になっていきました。
アリシアとリュゼの距離も、日を追うごとに少しずつ、近づいていきました。
ある日のことです。
いつものようにリュゼと話していると、不意にリュゼが言いました。
「実は、これが最後の果物なんだ。今までここに来てくれてありがとう。人間の近くにいるのは怖かったよね」
それを聞いた瞬間、アリシアは胸が締め付けられた気がして、思わず叫びました。
「そんなことないわ!果物はとても美味しかったし、リュゼの話はとても面白くて楽しいわ!それに私、リュゼのおかげで人間が怖くなくなったのよ!今だってほら、手の触れられる距離にいるわ。だから私…!」
それ以上の言葉を続けることができずに、アリシアは逃げるように海に潜りました。
どんなに速く泳いでも胸が苦しいのが消えることはありませんでした。
あれから何日経ったのでしょうか。
アリシアは何もせずに、日がな一日部屋にこもっているようになりました。
ベッドに入って丸まっていると、リュゼのことばかり思い出します。
リュゼが話してくれる地上の話はとても面白いものでした。
太陽に向かって伸び続ける大きな木や、ふわふわとしている気まぐれな猫、砂で出来た砂漠という海。
それをリュゼと見ることができたらどんなに素敵なことでしょう。
ですが、果物がなくなってしまった今、もうリュゼはアリシアに会う理由などないのです。
「ああ、私が人間だったら!」
その日の夜、アリシアはそっと家を出て行きました。
誰もいない夜の海を、アリシアは慎重に泳いでいきます。
アリシアが向かっているのは海の底の国の外れに住む魔女の家でした。
いつだったか、魚たちが魔女の持っている魔法の薬について話していたのを思い出したのです。
その魔法の薬を使えば、もしかしたら人間になれるかもしれません。
魔女の家をノックすると、すぐに扉があき、アリシアの腰ほどまでしかない老婆が出てきました。
「おやおや、こんな遅くにお嬢さんが何の用だい?」
「魔女様、お願いです。私を人間にしてください」
「それはまた、何故だい?」
魔女の質問に、アリシアは胸を刺されたような気分になりました。
「岩場で会ったあの人が忘れられないのです。でも、このままではもう二度と会うこともないかもしれないわ。そんなの耐えられない。…ああ、私は人間のあの人を好きになってしまったのだわ!」
アリシアの告白を、魔女は何も言わずに聞いていました。
「魔女様、どうか、私の願いを叶えてください!」
「なるほどねぇ。確かに、わしは人間になれる薬を持っているともさ。だが、ただというわけにはいかないよ。お前のその、海の国で誰もに愛されて育った記憶を全ていただこうじゃないか」
アリシアは今まで愛してくれた両親や、お魚たちや、みんなのことを思い出しました。そして、リュゼのことを思い、決意を固めると、頷きました。
「よしよし、契約したからね」
そう言うと、魔女は小さな小瓶をアリシアに渡しました。中にはキラキラと光る液体が入っています。
「それを飲めばすぐにでも人間になれるだろうさ。だが、忘れてはいけないことが一つある。それは、その薬を飲んでちょうど一年たったなら、決して海に入ってはいけないよ。もし入ったならば、たちまちその足は尾ひれに戻ってしまうだろうさ」
「わかりました。ありがとうございます、魔女様。このご恩は忘れません」
アリシアは一息にその小瓶の中身を飲み干しました。
するとどうでしょう。みるみるうちにアリシアの尾ひれから鱗が取れ、中から透き通るような白い二本の足が出てきました。
それと同時に、アリシアの頭の中からたくさんの思い出が消えていくのを感じました。
アリシアはもう一度魔女に頭を下げると、ゆっくりと海上に向かって泳いで行きました。
ところが、もう少しで海上に出るというところで、海が荒れてきました。
嵐が来たのです。
アリシアはいつものように尾ひれを動かして泳ごうとしますが、なかなかうまくいきません。当然です、今のアリシアは人間の足で泳いでいるのですから。
アリシアは必死に泳ぎましたが、やがて波に呑まれ、流されてしまいました。
次にアリシアが気がついたのは三日後のことでした。
「気がついたんだね!」
目を覚ますと、リュゼが覗き込んできました。
「よかった。水を飲むかい?安心して、ここは僕の家だよ。…といっても、ボロの小屋だけどね」
あはは、と笑うリュゼからコップを受け取ると、アリシアは一息に飲み干しました。
「君が浜辺に打ち上げられていたのを見つけた時は驚いたよ。その足はどうしたんだい?」
「魔女に頼んだの。…ああ、リュゼ!私、あなたに会いたくて…」
アリシアの言葉に、リュゼは驚いたように目を見開きました。
「僕は君に嫌われてしまったのかと思っていたよ。あの日から毎日待っていたのに、君は来てくれないんだもの」
アリシアはぶんぶんと首を振りました。
「そんなことないわ。私、あの日にあなたに最後の果物って言われて、もう会ってくれないんじゃないかと思って。そうしたらどうしようもなくなって。なんだ、私の勘違いだったのね」
リュゼの手が伸びてきてアリシアの髪を撫でます。アリシアはその手をそっと握って頬に当てました。
「ねぇ、私、あなたが好きだわ」
「僕も好きだよ。ずっと君に会いたかった」
リュゼの言葉を聞いた瞬間、アリシアは胸が苦しくなりました。
「なぜかしら。目の奥がとっても熱いわ」
涙が次々と目から溢れでます。その様子にアリシアは戸惑ってしまいました。
人魚は涙を流さないので、自分が泣いているということを理解できなかったのです。
その頬を伝った雫は、きらりと光って青く美しい宝石になりました。
それを見たリュゼは驚きました。
「これはきっと神様からのプレゼントだね」
ふたりはこの宝石で小さな家を買いました。アリシアは何かあるたびに嬉しくて涙を流すので、たくさんの宝石のおかげで生活には不自由しません。
また、お話でしか聞いたことのないような様々なものをみる旅行にも出かけたりもし、楽しく暮らしていました。
しかし、その生活も長くは続きませんでした。
宝石の涙を流す少女の話が噂になっていったのです。
毎日のように人さらいたちに狙われる生活を送らなければならなくなりました。
「リュゼ、私悔しいわ。せっかくあなたと一緒にいられるのに、神様はどうして私たちにこんな試練をお与えになったの?」
そう言っている間にも、アリシアが流した涙は宝石に変わっていくのです。二人が楽しく暮らしていけるのはこの宝石のおかげなのに、今となってはそれが憎らしくて仕方がありません。
「悲しまないで、アリシア。僕は君といるだけで幸せだよ」
諭すようにリュゼは言います。
「ええ…そうね、ごめんなさい。私も一緒にいられて幸せだわ。ずっと一緒にいましょう」
それから1年ほど経った頃でしょうか。
二人が旅行に出かけていると、どこから現れたのでしょう、人さらいたちがアリシアを狙いに来たのです。
リュゼが必死でアリシアを守っていると、やがて兵士たちがやってきて、二人は助けられました。
しかし、リュゼは人さらいたちと揉み合っているうちに、その右胸を刺されてしまいました。
その日からリュゼは大変な高熱にうなされるようになりました。人さらいたちが持っていたナイフには毒が塗ってあったのです。
ありとあらゆる医者に見せても、もう治らないと首を振られます。アリシアの必死の看病も虚しく、リュゼは日に日に弱っていきました。
そして、七日後のことです。
「アリシア、悔しいけれど、僕は数日中に死んでしまうだろう」
リュゼは観念したように言いました。
「ああ、でも、君と離れたくないんだ!もし君が許してくれるのなら、今日の夕暮れ、一緒に海に入ってくれないか。天国に行って一緒に暮らそう」
アリシアはリュゼの手を握り締めて頷きました。
魔女から言われた一年後は二日後。今日リュゼから聞くことができてよかった、とアリシアは思いました。それに、人魚には魂がないので、人魚に戻ってしまったら天国に行くことすらできないのです。
その日、ふたりは寄り添って暮らしました。この日ばかりは、人さらいたちも現れませんでした。
夕方になると、二人は身を清め、キスをすると、静かに海へ入っていきました。
頭の先まで海に浸かると、二人は同時に意識を手放しました。
ところが、ああ、なんて神様は残酷なんでしょう!
一年前にリュゼの家で目を覚ましたあの日より前に、三日間も目を覚まさなかったことをアリシアは知らなかったのです!
アリシアの足はみるみるうちにもとの美しい尾ひれへと姿を変えてしまいました。
海の中で目を覚ましたアリシアは、自らに起こったことを理解すると、腕の中のリュゼを抱き寄せました。
「どうして⁉私たちは二人でいればそれだけでいいって、ただそれだけを望んでいたのに!なのに、神様はどこまで私のことがお嫌いなのかしら!」
わぁわぁと、涙なんて出るはずのない海の中、アリシアは泣き続けました。何日も何日も、その涙は止まることがありませんでした。アリシアの涙からできた宝石は海に溶け、やがて海は青く染まりました。
涙が出なくなっても、アリシアの嘆きは止むことがありません。
その嘆きの声はアリシアが死んでも止むことはなく、海鳴りとなって今もリュゼのことを想い続い続けているそうです。