取引
(1)
新ゴシック様式と呼ばれる、赤煉瓦で作られた高級一軒家にて、一人の男が自分の背丈の倍近くもあるような、大きな窓の前に立っている。
「クレメンス様、ハーロウ様がお越しになられました」
執事の呼びかけに、「分かった。そのまま、儂の部屋へ通してくれ」と男は振り向くことすらせず、窓から外の様子を見降ろしていた。
時間はすでに宵の口を過ぎようとしているにも関わらず、彼はカーテンを閉めもせずに一体何を眺めているのか。
窓越しに遠く見えるのは、三か月前に落成されたばかりの全面ガラス張りの巨大な商業建造物――、クリスタル・パレスと、その周辺を囲うようにして稼働する移動遊園地、そして、移動遊園地でひと時の愉しみに耽る人々の姿だった。
コンコン、と部屋の扉を叩く音が聞こえたかと思うと、再び執事が姿を現す。どうやら、ハーロウと言う名の客人がやって来たようだ。
「おやおや。いくら夜とはいえ、そんな大きな窓のど真ん中に立っていては、いつ誰に狙撃されるか分かったもんじゃないですよ??メリルボーンさん」
離れ目の割に目と眉の間隔が狭く、トカゲのような顔立ちをしたハーロウは、男――、クレメンス・メリルボーンのやや曲がり気味の痩せた背中に向かって、軽い口調で窘める。
「……ふん、それを防ぐのがお前達の仕事だろうが……」
加齢により垂れ下がった瞼に埋もれかけている、狐のような細い瞳を鋭く光らせながら、クレメンスはようやく振り返った。
「あぁ、そうでしたね。これは失敬!」
ハーロウはおどけた素振りで肩を竦めてみせる。人を食った話し方と言い、態度と言い、どうにも軽薄な人間性が滲み出ているような男である。
「お前こそ、こんな夜遅くにいきなり訪ねて来て、一体何なんだ」
クレメンスは仏頂面のまま、鋭い眼光でハーロウをギロリと睨みつける。
「今日はメリルボーンさんに、素晴らしい報告がありましてね、いち早くお届けしようと思って。これが中々の吉報なんですよねぇ」
「ハーロウ、御託はいいからさっさと話せ」
ハーロウのやけに勿体つけた物言いに、クレメンスはあからさまに苛立ちを見せる。
「実はですねぇ、以前から貴方様に脅迫状を送り付けていた奴らの居所を突き止めまして。そしたら、奴ら、とんでもない計画を企てていたんですよ。何でも、『クレメンス・メリルボーンの批判を洗いざらいぶちまける』とか言う俱楽部がありまして、活動内容は、その安直な俱楽部名通り、貴方様の悪口をひたすら言いまくる俱楽部だそうで。まぁ、ただ悪口を言っているだけであれば、何の問題もなかったんですが……」
ハーロウは愉快そうに、喜々として言葉を続ける。
「ところが、その俱楽部会員の奴ら、製糸工場の焼き討ちを計画していたんですよ!!念のために、奴らが溜まり場にしているコーヒーハウスに仲間を潜入させて張り込ませていたので、間違いない。で、ここからが貴方様にご相談ですが……」
ハーロウの顔から、ヘラヘラと腑抜けた表情がサッと消え失せ、狡猾そうに厭らしく嗤う。よく見ると、瞳の奥が笑っていない。
「奴らを一人残らず極秘裏に捕えて、亡き者にしてやってもいいんですよ??そうすれば、貴方様及び、貴方様のご家族や工場を守ってあげられます。如何いたしますか??」
ハーロウは、上目遣いで媚びるようにクレメンスを見つめる。クレメンスはそんな彼を一瞥した後、フンッと鼻を鳴らし、黙り込む。
「……いくら払えば、始末してくれる??」
ハーロウが希望する報酬額を掲示すると、クレメンスは忌々しげにチッと舌打ちを鳴らす。
「……分かった。望み通り、その金額を払おう」
「いやはや、ありがとうございます!!金さえ払っていただけるのであれば、こちらもきっちり仕事させてもらいますよ。あ、あと、もう一つ」
「何だ」
「その俱楽部が溜まり場にしていたコーヒーハウスの店主と従業員は、どのようにいたしましょうか??」
「その者達も計画に加担しているのか??」
「さぁ、そこまでは判り兼ねますが……。もし不安なようでしたら、ついでにそいつらも始末しますよ」
「……お前達の判断に任せる。ちなみに、そのコーヒーハウスの名前は??」
ハーロウは首を傾げ、少し考えるとこう答える。
「リバティーンと言う店ですね」
ハーロウがそう告げた直後、三度、クレメンスの部屋の扉を叩く音がしたと同時に、「……お父様、イングリッドです」と小さいけれどよく通る声が部屋に響いた。
「イングリッドか、入れ」
クレメンスの許可が下りると、イングリッドが大きなトランクを抱えながら部屋に入って来た。
「……その様子からすると、金の受け渡しに失敗したようだな」
「……申し訳ありません」
「まぁいい。ただし、その酒場の男が余計なことを吹聴しているようなら……」
クレメンスは、チラリとハーロウに意味ありげな視線を送る。
「そしたら、我がクロムウェル党の出番ですかねぇ」
「……そういうことだ」
イングリッドはほんの一瞬だけ眉をピクリと擡げたが、すぐに人形のような無表情に戻った。
「……では、その、もしもの時の為と言う事で……、このお金はハーロウ様に受け渡しましょう」
抱えていたトランクごと、イングリッドはハーロウに金を渡そうとしたが、ハーロウはトランクではなく、彼女の細い腕を強い力でグッと掴んできた。さすがのイングリッドも、痛みにより僅かに表情を歪める。
「金など必要ありませんよ。レディ・イングリッド」
獲物を虎視眈々と狙う爬虫類のような目つきで、ハーロウはクレメンスに尋ねる。
「その代わり、彼女を今夜一晩、私の好きなようにさせてもらいますよ」
クレメンスは少し間を空けた後、「……イングリッド、ハーロウをお前の部屋へ案内するんだ」とイングリッドに命じた。
「承知いたしましたわ、お父様」
イングリッドは、あらゆる感情を捨て去ったかのような、無機質な目と口調で機械的に答える。
「ハーロウ様、今から私の部屋にお連れいたします」と、イングリッドはハーロウを伴い、クレメンスの部屋を後にした。
(2)
「ふふふ、貴女のお父上は随分と薄情な男ですねぇ。仮にも実の娘に、娼婦の真似事を平然とした顔でさせているのですから。まぁ、私自身はクリープ座の名女優を一晩好きなだけ抱けるのだから、男冥利に尽きるばかりですが」
「…………」
部屋が近付くにつれて次第に気が緩んできたのか、ハーロウはイングリッドの髪や肩に触れ始め、部屋の前に着く頃には彼女の腰に手を回して身体をより密着させてきた。
ハーロウの気分が徐々に高揚していくのとは反対に、イングリッドの心は氷のように冷たく閉ざされていく。最も、このようなことは今に始まったことではないので、すっかり慣れてしまっているのだが。
『イングリッド姉様!!』
不意に、つい一時間程前の出来事がイングリッドの脳裏を掠めた。
九年振りに再会した、父の愛人の息子だったマリオン。
何も知らず、「姉様、姉様」と慕ってくれていた彼は、あの頃と変わらない、深く澄みきったコバルトブルーの瞳で真っ直ぐ自分を見つめてきただけでなく、徹底的に冷たくあしらう自分に感謝の意を述べてきたのだ。
自分は年を経るごとにどんどん汚れていくばかりなのに、何故、彼はあんなに純粋で居続けることが出来るのだろうか。
「……馬鹿みたい……」
彼女の身体を弄ることに夢中になっているハーロウに聞こえないよう、イングリッドは誰に言うでもなく、そっと呟いたのだった。