笑顔
翌々日の早朝、マリオンはまだ眠い目をこすりながら、汽車の窓から茜色に染まる朝焼けの空を眺めていた。
酒場でランスロットに諭された翌日、棺桶造りの仕事を終えたマリオンはすぐに荷物を持って夜行の汽車に乗り込み、メリッサの暮らすウィーザーという街に向かった。
港町ということで、ウィーザーに近づくにつれ、朝焼けの空の下には群青に光る海が広がり始める。初めて海を目にしたマリオンは水平線の向こうまで続く、その深く美しい青に感動し、ほんの少しだけ窓を開ける。すると、肌を刺す冷たい風に乗って、ツンとした潮の香りが微かに鼻腔を刺激した。
更に一時間弱、汽車は走り、ようやくウィーザーの駅に到着する。
マリオンは、事前にシーヴァから教えてもらった、『ミランダ・ベイル』と言う女性の家を探す。初めての土地ということで散々道に迷いながらも、どうにかミランダの家に辿り着く。
マリオンが玄関のドアノッカーを叩こうとしたと同時に、乱暴に扉が開け放たれ、「ミラ!また僕に隠れてお酒を飲んだだろう!?」という男の怒鳴り声に続き、「何よ!料理酒を軽く一匙舐めただけじゃない!!」という、女の金切り声が飛び出してきた。
(えぇぇぇーー、まさか……)
どうやら、夫婦喧嘩の真っ最中だったらしい。
思わぬ状況に玄関の前で固まるマリオンに、外へ出て行こうとした女が気付く。
女は三十代半ばといったところか、プラチナブロンドの長い髪を緩く纏めている。
随分と小柄で華奢な体格をしていて、琥珀色の大きな猫目が特徴的だ。目の下の隈や小じわが目立つ上に、目付きのきつさで少々怖そうだが、整った顔立ちからして若い頃は可憐な雰囲気の美人だったに違いない。
「あ、あの……」
明らかに機嫌が悪そうなミランダに怖気づくマリオンだったが、そんな彼を見た瞬間、「貴方、もしかして……。マリオン君??」と、ミランダの方から声を掛けてきた。
「あ……、はい」
「もしかして、メリッサに会いに来たの??」
「はい!」
すると、先程の険のある表情から一転、ミランダは柔らかな笑顔を浮かべ、「貴方の話は、シーヴァやメリッサからよく聞いているわ。まぁ、立ち話も何だし、上がって頂戴」と、マリオンを家の中に通し、居間に案内したのだった。
「さっきは見苦しいところをお見せして、申し訳なかったね」
ミランダの夫であるリカルドが、すまなさそうにしてお茶を運んできた。
歳はイアンと同じくらいだろうか。いかにも人の好さそうな、穏やかな雰囲気の男性だ。
ただ、左足を引きずって歩く様子や白髪が目立つ髪からして、ミランダ同様年齢より随分と老けて見える。それだけ、この夫婦の間には苦労が絶えないのかもしれない。
「じゃあ、ミラ。僕は仕事に戻るから、あとはよろしく」
リカルドはややぎこちない口調でミランダにそう告げると、家の奥へと姿を消した。
「あの人、以前は酒場で働いていたんだけど、私から目を離せないっていうことで、今は家で時計を作る仕事をしているの」
ミランダはカップに口を付ける。その際、カップを持つ手が小刻みに震えていることに、マリオンは気付く。この症状には見覚えがあった。ラカンターの客でも、たまにこういう症状を持つ者を見かけるので間違いない。
「あの、ミランダさんは、シーヴァとは何処で知り合ったんですか??」
「あら??聞いてなかった??私はシーヴァが居た娼館で、一緒に働いていた娼婦だったの。あの子は私を姉のように慕ってくれていて、私も年の離れた妹みたいに思って可愛がっていたの」
「そうだったんですか……」
「シーヴァはあんな場所にいちゃいけない子だったから、堅気に戻れて良かったわ。それだけじゃなくて、ずっと慕い続けていた人と結婚して母親になることが出来て……、本当に安心しているわ。……少なくとも、私みたいにはならかったから」
ミランダは悲しげに目を伏せる。
「でも、ミランダさんだって、今は優しそうな旦那さんが傍にいるじゃないですか」
「私は……、アルコール依存が中々克服できなくて、彼に苦労を掛けてばかりいるから……。唯一愛した人だって言うのに……、中々上手くはいかないものね……って、ごめんなさい、初対面のマリオン君に聞かせる話じゃないわね」
話題を打ち消すように、ミランダはわざと明るく振る舞おうとする。
「僕が言う事じゃないですけど……。せっかく、愛する人と結ばれたのだから……、簡単に諦めたりしないでください。どんなにお互いが愛し合っていても、結ばれることが叶わなかった人もいますし……」
マリオンの真っ直ぐな視線に吸い込まれるようにして、ミランダは彼の、澄みきったコバルトブルーの瞳を見つめていた。
「そうね、そうよね……。ありがとう……」
「いえ……」
「……きっとメリッサは、貴方のその純粋さに惹かれたのね」
それからミランダは、マリオンにメリッサの近況について話してくれ、「迷うかもしれないから」と、メリッサが働いているという洗濯屋の近くまで連れて行ってくれ、彼女を呼びに店の中に入っていった。
近くのベンチに腰掛けながら、マリオンはひどく緊張していた。まるで、初めてメリッサに話し掛けた時のようだ。
彼女に会ったら、何から話そう。
話したいことは山程あると言うのに、今話すべき的確な話題がちっとも決まらない。
そうこうしている内に、店の裏口から一人の女が出て来た。メリッサだ。
慣れない街での生活が大変なのか、少し痩せたように思う。
マリオンの姿を確認した途端、メリッサはアイスブルーの大きな瞳を拡げて立ち尽くしていたが、やがて彼の許へと走り寄って来た。つられて、マリオンもベンチからすぐに立ち上がり、彼女の許へと急いで駆け寄る。
「マリオン!!」
「メリッサ!!」
言葉なんか、何一ついらなかった。
ただ、メリッサの太陽のように明るい笑顔が見たかった。
この笑顔さえあれば、僕が笑顔を失うことはもう二度とないだろう。
メリッサのか細い身体を抱きしめながら、マリオンはかつてない程の大きな幸福感に包まれていたのだった。
(終)




