メリルボーン家の娘
(1)
「しっかし、お前も変なところで抜けているというか……」
メリッサの働くコーヒーハウス「リヴァティーン」に寄った翌日の夜、ラカンターの厨房でサンドイッチを作りながら、ランスロットが眉間に皺を寄せてマリオンを一瞥する。
「何なのさ、ランス」
マリオンはコバルトブルーの瞳に涙を滲ませて、玉ねぎを細かく刻んでいる。
「せっかくメリッサに会えたっていうのに、結局何も進展なしじゃねぇかよ……」
「別にいいよ。彼女と会えるだけで僕は嬉しいんだ。何より、娼婦としてじゃなくて、ごく普通の女性として働く姿も見ることが出来たし」
「お前は、本当に欲がないっつーか、何つーか……。同じように育ってきたシーヴァさんとは大違いだな」
あくまで娘のような存在としてしかシーヴァを見ていなかったイアンに対し、シーヴァが熱烈なまでに自分の想いをぶつけ続けた結果、遂にイアンが彼女の気持ちにほだされて根負けした為、二人は晴れて夫婦となったのだ。
「いいよなぁ、シーヴァさんみたいな美人に俺も言い寄られたいぜ!!」
シーヴァは、漆黒の柔らかい髪に切れ長のハシバミ色の瞳が特徴的で、実の父親が異国の人間だったことから、異邦人を思わせるやや彫りの深いエキゾチックな顔立ちの美人だ。
「うーん。シーヴァは美人だけど、物凄く性格キツイし、気難しい部分があるから並の男の人じゃ手に負えないと僕は思うよ……」
そもそもシーヴァは、幼い頃からイアン以外の男には一切目もくれず、彼だけをずっと一途に慕い続けている。口を開けば、憎まれ口ばかり叩くものの、彼女がどれだけイアンを深く愛しているか、共に暮らすマリオンは肌でひしひしと感じ切っている。
だからこそ、マリオンはシーヴァ程とまではいかなくても、一生を掛けて愛せる女性と巡り会いたいものだと常々思っていた。男の癖に、えらく夢見がちだと充分自覚しているが。
「おい、ランス」
ハルが、声を潜めてランスロットに近づいてきたことでマリオンは我に返る。
「カウンターから見て左端、四人掛けの席にいる三人組の男、あいつら、ヤバい奴らかもしれん」
「どういうことっすか??」
ランスロットの目付きが険しいものに変わり、厨房の中に緊張が走る。
「多分、メリルボーン製糸工場をクビになった奴らだと思う。さっきまでは散々工場やメリルボーンへの不満を吐き散らしていただけだったんだが……」
「何なんすか??」
ハルは更に声を落として話を続ける。
「メリルボーンの娘らしき女が今し方、お忍びで店に入って来たんだよ……」
メリルボーン製糸工場では半年前、不況による経営危機に陥り、大幅な人員削減が敢行された。その対象となったのは、いずれも家庭を抱えた中年層だった。
通常、製糸工場の従業員は女性が主となるものだったが、この工場では不況で働き口を失くしていた男性達も数多く働いていた。しかし、安い賃金で長時間働いてくれる独身の若年層に比べて、家族を持っていることでその分賃金が高くなる中年層の方が経営側としては不利益な存在である。
だが、この非人道的な解雇方法により路頭に迷う人々が一気に増加、この街の治安は更に悪化した。貧しさ故に窃盗が増え、それに伴い、暴行、殺人事件も頻発するようになった。そして人々の怒りや不安、不満の矛先は全て、メリルボーン家に向かいつつあった。
あくまで噂でしかないが、メリルボーン氏の殺害や彼の血族の誘拐、メリルボーン邸の焼き討ちなどを計画している組織が存在しているという。そんな危険な下町なんかにわざわざ出向くなど、余程の世間知らずだとしか思えない。
「別に、奴の娘が誘拐なり強姦なりされようが、俺個人はどうでもいい。ただ、俺の店に行ったことが原因でそんな目に遭われでもしたら……、この店がどうなるか。お前なら分かるよな??」
「分かりましたよっと。要は、メリルボーンの娘が店にいる間は勿論、店を出て行ってからも後を付けるなり何なりして、無事に屋敷に辿り着くまで見届けろってことですよね??」
「あぁ、そういうことだ」
「了解」
ランスロットは手をひらひらと振り、ハルに返事を返したのだった。
(2)
女は、カウンターから向かって右側の二人掛けのテーブル席で静かに酒を嗜んでいる。
狐のような細く吊り上がった瞳、小鼻が細くすっとした鼻筋の下には酷薄そうな薄い唇。
整ってはいるが、やや冷たい印象の地味な顔立ちを縁どるのは、艶々と黒光りするブルネットの長い髪。
彼女が、メリルボーン氏の次女にあたる、イングリッドであった。
「おうおう、見るからに高慢ちきそうな女だなぁ」
カウンターの隅で、ランスロットがさりげなくイングリッドを盗み見ていると、彼女と目が合った。イングリッドは切れ上がった鋭い目で無表情のまま、ランスロットを数秒見つめたのち、ふっと目を逸らす。
「何だよ、失礼な女」
小声で悪態をつくランスロットを、「まぁまぁ、ランスの目が怖かったのかもよ??」と微妙な言い回しでマリオンは慰める。
「いや、あいつも結構目が据わってるぞ??」
「そうかなぁ、何かボーっとしてるだけのようにも見えるけど」
「何にせよ、あれが人気の舞台女優だなんて、世も末だね」
イングリッドは、街の内外で有名な劇団「クリープ座」の看板女優であった。
美人ではないものの、舞台の上では、まるで役に取り憑かれたかのような鬼気迫る迫真の演技を見せる彼女の姿は、観客の目を十分惹きつけるという。
マリオンの言う通り、イングリッドはどこか心あらずと言った風情でカップに入ったラム酒をちびちびと舐めるように、少しずつ飲んでいた。
やがて、カップの中に酒が一滴もなくなると、イングリッドはスッと音を立てずに椅子から立ち上がり、何も言わずに飲み代とチップを机に置いて店を出て行ったのだった。
すると、例の三人組も「おい、飲み代、ここに置いておくからな」とマリオンに声を掛けた後、イングリッドに続いて、慌ただしく店を出て行く。
「そんじゃ、一仕事行ってくるぜ」
ランスロットも三人組の後に続き、出て行く。
取り残されたマリオンは、客の注文を取ったり、皿洗いをしたりと引き続き通常業務を淡々とこなしていた。
ランスロットのことだから一時間もすればきっと、「あぁーー!疲れた!!疲れた!!」と大声でぼやきながら無事に帰って来るだろう。彼ならきっと大丈夫。
一抹の不安を消し去るように、マリオンは自分に強く言い聞かせた。
ところが、予想に反してランスロットはものの三十分もしない内に店に帰って来たのだ。右頬と、左腕に銃創を携えて。
「ちょっと、ランス!どうしたんだよ、その傷は!!」
「あぁ、俺としたことが油断した。擦過射創とはいえ、怪我しちまうなんて」
「とりあえず、奥で手当てしよう!」
マリオンはハルから薬箱を借り、清潔な綿に消毒液を染み込ませ、ランスロットの傷をそっと拭き取る。
「いってぇ……!あぁ、いくらマリオンが女顔でも、こういう手当は本物の女にされたいよなぁ……」
呆れながらも、ランスロットに減らず口が叩ける元気があることにホッと胸を撫で下ろす。
「しかし、あいつがまさか銃を隠し持っているなんて……。しかも、一人は確実に殺りやがった……」
「えっ……、どういうこと??銃を持っていたのは三人組じゃないの??」
「違う。イングリッドの方だ。あの女に襲い掛かろうとした三人組に向けて、何の躊躇もなく眉一つ動かさずに発砲した。俺は、その巻き添えを食わされそうになっただけだ」
「…………」
「正当防衛と言えばそれまでだが……。これが表沙汰になれば、この街の中産階級以下の者達からの、メリルボーン家への反感はますます増長するだろうな」
「…………」
ランスロットの言葉を聞きながら、マリオンはかつてメリルボーン家で育った幼少期を思い出していた。
実の子ではないと言うことで、メリルボーン氏が自分を無視することは仕方ないと幼心にも理解していたが、母エマに避けられることは悲しくて仕方なかった。そんなマリオンに、六歳年上のイングリッドだけは実の家族のように優しく接してくれていたのだ。
だが、今日店に訪れたイングリッドはあの頃と打って変わり、ひどく醒めた目をしていた。
時が経てば、人は誰しも変わっていくものだが、かつてのイングリッドの姿を知るマリオンは少なからずショックを受けたものだ。
(一体、この九年の間にイングリッドには何があったのだろう……)
いくら胸がざわつこうと、答えなど分かるはずなどない。
しかし、しばらく後に少しずつその答えが明かされていくことを、その時のマリオンは思いもよらなかったのだった。