決心
――一か月後――
黒い闇が徐々に群青色に変化し、次第に赤みがかったオレンジと濃いピンク色、濃い水色が合わさり、まるで熱帯に生息する魚のような多色性が空一面に表れる。朝焼けの空の下、アフガンストールを頭から被り、庶民と変わらない質素な出で立ちでイングリッドはヨーク橋を一人渡っている。
まだ初冬とはいえ、北国の部類に入るこの国ではすでに初霜が降りていて、早朝のこの時間帯はまだ空気が凍てている。そのため、防寒に適した暖かい服装をしているにも関わらず、イングリッドは寒さに身を震わせている。
上流階級の令嬢がこんな朝早くにたった一人で出掛けるなど、普通ならば有り得ないことである。最も、今に限らず、イングリッドが今まで行ってきた事々は身分云々関係なく、人として「有り得ない」ようなことばかりではあるが。そして、彼女はまたも「有り得ない」と言われても仕方のないことを、行おうとしていた。父クレメンスの命令で。
だが、今回の父の命令はイングリッドにとっては未だかつてない程、気の重いものであったため、目的地に向かっている間中、彼女は心の中で激しい葛藤に苛まれていたのだった。
ヨーク橋を渡り切り、目的地に辿り着いた頃には、すでに空は完全に明けていた。
イングリッドは目的地の扉を叩こうとするも、躊躇う気持ちが強すぎて今一歩踏み出すことが出来ない。
(……少し、中の様子を伺ってみようかしら……)
出歯亀みたいで少々気が引けたが、玄関から見て左側に付いている窓から家の中を覗いてみる。
居間に置かれたテーブル席で、大柄な割にひどく痩せた中年男が椅子に座っている。男は自身の食事がまだ途中にも関わらず、赤ん坊に近い幼児を膝の上に座らせ、食事を食べさせている。おそらく彼の子なのだろうが、父親が育児を手伝う様子はイングリッドにとって衝撃的だった。
確か、妻がいたはずでは……、と、身を隠しつつ目線だけを動かして部屋を見渡す。いた。
妻は二十歳前後といったところだろうか。詳しくは分からないけれど、イングリッドよりも若いことは確かだ。けれど、歳が若いと言う事以上に、イングリッドは妻の美しさについ目を奪われた。地味な身なりをしていても充分美しいのだから、飾り立てさえすれば下手な上流階級の貴婦人、高級娼婦、女優など彼女の足元に及ばないだろう。
若く美しい妻は、何やら駄々を捏ねる幼い息子を厳しく叱りつけている。その隣では、女性と見紛うような顔立ちをした銀髪の青年が、彼女と彼女の息子を宥めていた。
青年は困ったように眉を下げていたが、どことなく幸せそうにも見える。それはきっと、彼にとって、この家で家族と共に穏やかに暮らすことが一番の幸せだからだ。
「…………」
イングリッドは家の中を覗くのをやめ、窓の下の地面にしゃがみ込む。
今から自分が行おうとしていることは、マリオンの幸せを奪うことになってしまうかもしれない。
リバティーンの生き残りである女給メリッサの居所をエゴンから知らされ、ハーロウがメリッサを匿ったイアン一家のことを調べたことにより、現在のマリオンの消息がクレメンスに伝わってしまった。そこでクレメンスは、ファインズ男爵家を潰す計画にマリオンを利用することを思いつく。
今日、イングリッドがマリオンの元へ訪れたのは、彼にメリルボーン家へ再び戻るよう、説得する為だった
クロムウェル党の人間を全員始末し、街の治安を守ることで人々の信頼を取り戻した後、街で起きた一連の事件に対し、何の対処もしようとしなかったファインズ家を「この街を統治する者として相応しくない」と糾弾し、失脚させる。そして、ファインズ家の血を引くマリオンを新しい統治者として祀り上げるーー、と見せ掛け、彼はあくまでお飾りでしかなく、実際はクレメンスが統治者としての実権を握るーー、これがクレメンスの計画であった。
そうなると、マリオンは今までの生活や共に暮らしてきた家族、友人知人全てを捨てなければいけなくなる。
イングリッドは幼い頃の彼を思い出してみる。
いつだったか、イングリッドがマリオンに「一番欲しいものは何??」と尋ねたことがあった。
『僕は、僕を愛してくれる家族と友達が欲しいです』
彼は淋しそうに微笑みながら、ぽつりとそう答えたのだ。
あの時のマリオンの顏は、今でもはっきり瞼の裏に残っている。
「…………………」
一方で、父クレメンスの言葉も脳裏を掠める。
『イングリッド、これはお前にしか頼めないことなんだ。お前じゃなければ、出来ない事だ。私を愛しているなら、言う事を聞いてくれるだろう??』
今までも、行動に移す直前まで迷うことが何度もあったが、その度に、胸に焼き付けたクレメンスのこの言葉で自身を奮い立たせたものだ。
だが、今回ばかりは、イングリッドも頭を悩ませ、迷いで心を乱れに乱れさせていた。
どのくらいそうしていただろうか。
しゃがみ込んで頭を膝に伏していたイングリッドだったが、すぐ隣に人の気配を感じたため、ハッと我に返り、恐る恐る顔を上げる。
「……イングリッド姉様??」
「…………」
こんな早朝に、何の前触れもなくイングリッドが家に訪れたとなると、さすがのマリオンでも不審に思うだろう。ましてや、あの襲撃事件からまだ一か月しか経っていないのだ。警戒されたとしても仕方がない。現にマリオンは、明らかに困惑の色を浮かべた表情でイングリッドを見下ろしている。
立ち上がることすらままならないイングリッドは、ただただ呆けたようにマリオンの顔を見つめる他なかったが、そんな彼女にマリオンは思いがけない言葉を掛けたのだった。
「もしかして……、僕と、僕の家族のことを心配して、様子を見に来てくれたんですか??」
何でこの私が、下層の卑しい人間なんかを気遣わなきゃいけないのよ、と、イングリッドはマリオンに反論しようとした。が、彼の、大人のものとは到底思えないような、余りに無邪気な笑顔を目の当たりにした途端、喉まで出掛った言葉をつい飲み込んでしまった。
「……悪かったわね。舞台の稽古があるから、こんな朝早くにしか来ることが出来なくて……」
実際、今から二か月後に迫ったクリープ座の舞台公演で、イングリッドは重要な役を演じることになっており、ここしばらくは昼夜問わず稽古に明け暮れている。だから、マリオンの元へ訪れるには早朝くらいしか時間が作れなかったのだ。(さすがに、夜中に訪れることは出来ないので)
「いえ、とんでもないです!それよりも……、外は寒いから、早く家の中へ入って下さい!!」
「えっ……、でも……。貴方のご家族は……」
「大丈夫です!メリルボーン家にはイアンさんの怪我の件で、随分助けていただいてますから!!」
「…………」
ハーロウの死後、メリルボーン家はクロムウェル党の「残党狩り」に協力しているだけでなく、各事件の被害者やその家族への賠償金を警察に代わって支払っている。
マリオン達は賠償金のみならず、イアンの怪我の治療費を全額負担すると、メリルボーン家から示談を受けたのだ。
事件の発端がメリルボーン家であることを知っているマリオン達は始め、ひどく憤ったものだが、「イアンの怪我が一日でも早く良くなるのなら、この際何でもいい」とシーヴァが結論を出したため、最終的に金を受け取ったのだった。
その大金のお蔭で、背中を十数針も縫う大怪我だったにも関わらず、腕のある医者に治療してもらえたことでイアンの怪我は快方に向かっている。
「イングリッド姉様??」
「…………」
相変わらず、笑顔を崩さないでいるマリオンを鋭い狐目でじっと見つめる。
大人になったマリオンがこんな風に笑えるのは、彼がずっと欲しがっていたものーー、彼を愛し大切にしてくれる人々の存在あってこそだろう。
マリオンのこの笑顔は、誰であろうと決して曇らせてはいけないものだ。
イングリッドはようやく思い出す。
誰にも愛されず、孤独の中にいたマリオンに優しくすることで、自身の孤独も無意識の内に癒され、彼の笑顔を見る度に救われていたことを。彼の笑顔が好きだったことを。
イングリッドにとって、自分が思っていた以上にマリオンが大切な存在だったということをーー。
「……分かったわ。少しだけ、お邪魔させていただくわ」
そう言うと、イングリッドは重い腰を上げてようやく立ち上がったのだった。マリオンにどうしても伝えたいことを告げる決心と共にーー。