一縷の望み
(1)
あれは、マリオンが五歳の頃の事だ。
その日、いつもなら、やれお茶会だ、観劇だ、夜会だと、ここぞとばかりに外出しては浪費を繰り返す母エマが、珍しく部屋で本を読んでいた。
まだ母に甘えたい盛りのマリオンは、母の部屋の扉をコンコンと叩く。すると、中から母の世話をしているメイドが現れた。
「……あ、あの、お母様は、いらっしゃいますか??……」
「エマ様は只今読書中ですので、お引き取り下さい」
メイドはぴしゃりとすげなく告げると、すぐに扉を閉めてしまった。
マリオンはガックリと頭を項垂れ、トボトボとした足取りで自室に戻ろうとしたが、(そうだ!扉の前で、お母様が出てくるまで待ち伏せして、吃驚させてみよう!!)と、思い立ち、エマの部屋の前――、丁度扉が開くと隠れるような位置に座り込む。
逸る気持ちを押さえながら、三十分程待ったのち、扉が開き、中からエマが姿を現した。
「お母様!!」
マリオンは扉の陰から飛び出すとエマに向かって抱きつこうとしたが、エマは途端にマリオンと瓜二つの美しい顔を険しくさせ、手で彼を打ち払ったのだ。その弾みで、廊下に敷かれた、長いペルシャ絨毯の上にマリオンは転倒してしまう。
倒れたことによる身体の痛み以上に、エマに拒絶されたことに深く傷ついたマリオンは、ワンワンと大きな声を出して泣きじゃくる。そんな彼に一切目もくれず、エマはその場からそそくさと去っていった。
マリオンは涙を流しながら、屋敷の中を一人彷徨った。自室で泣いていれば、お付きのメイドに「マリオン様は男の子なんですから、泣いてはいけません!!」と咎められるに決まっている。だから、一人になれる場所を探して気が済むまで泣きたかったのだが、気が付くとエマとマリオンが立ち入ってはいけない場所――、クレメンスの妻と娘達の住む本館に足を踏み入れてしまっていたのだ。
しかし、泣きながらあてもなく来てしまったせいか、自分が住む別館への戻り方が分からない。誰かに見つかれば、必ず厳しく叱りつけられてしまうだろう。
「……僕……、どうすればいいのかなぁ……」
マリオンのコバルトブルーの瞳から、また大粒の涙が溢れ出す。それを抑えようと袖口でゴシゴシ目元を拭いていると、「貴方、ここで何をしているの??」という声が背後から聞こえてきたのだ。
恐る恐る振り向きながら、声の主を確認してみる。
艶のあるブルネットの長い髪に、狐のように鋭く吊り上がったダークブラウンの瞳、シュッとした細い鼻に薄い唇をした少女だ。一つ一つの造りが整ってはいるものの、全体的に小作りなせいか、地味できつい印象を与えるその顔立ちにマリオンは見覚えがあった。
「……クレメンス様……の、」
「えぇ。いかにも、私はクレメンス・メリルボーンの次女、イングリッドよ」
イングリッドと名乗った少女は、先程とは打って変わり、ニコリと柔和な微笑みをマリオンに向けたのだったーー。
(2)
「……気が付いた??」
マリオンが瞼をゆっくり開くと、イングリッドの鋭い狐目と視線がかち合った。
「安心しなさい。貴方を暴行した二人組はとっくに姿を消したわ」
イングリッドは、自身の膝の上にマリオンの頭を乗せて介抱していてくれたようだ。その証拠に、血で汚れていたはずの顔が綺麗に拭き取られている。
「イングリッド……姉様……。ありがとう……」
「礼には及ばないわ。それよりも、しばらくじっとしていなさい」
「……いえ、そういう……訳には、いかないです……」
マリオンはゆっくりと身を起こすが、起こしている最中、脇腹に強烈な痛みを感じ、小さく呻く。蹴られた衝撃で肋骨をやられたのかもしれない。
「ほら、無理しないで」
「駄目……です。一刻も早く……、家へ……、家族を、助けに行かなきゃ……!!」
顔を顰めて全身に走る痛みに耐えながら、マリオンはふらつく足取りで何とか立ち上がる。
「……ハーロウは、貴方の家に三人手下を送り込んだ。二人と一人に手分けさせて。貴方の住む地域の人々が協力し合って手下を撃退するであろうことを見越したハーロウが、最初に二人送り込んで住民と争わせ、その間に時間差で別ルートから一人を送り込むって言ってたわ」
「それじゃあ……、尚更急がなきゃ……!!」
イングリッドからの情報を聞いた直後、マリオンは急いで走り出す。
(お願いだ……、どうか、間に合って!!)
自身が負った怪我やそれによって生じる痛み以上に、走っている最中、何度も何度も浮かんでは必死で掻き消している最悪の事態に、マリオンは身を裂かれそうになっていた。