忠告
翌日の夕方、マリオンがギターを抱えながら、ラカンターへ行く途中のことだった。
マリオン達が住む地域と歓楽街の間には、ヨーク河という大きな運河が流れており、その上に架けられたヨーク橋を渡って歓楽街に行くのだが、橋を渡り始めてすぐ、マリオンは異変に気付く。橋の欄干の前に大勢の人々が集まっていたのだった。
おそらく、溺死体でも上がっていたのだろう。不況や治安の悪化による入水自殺や、殺人による死体遺棄、もしくは酔った弾みでの溺死等、ヨーク河から死体が上がることなど日常茶飯事で珍しい事ではない。
イアン以上に温厚で、物騒なことには嫌悪感すら覚えるマリオンは、欄干の前に群がる野次馬を尻目に、いくらか歩く速度を速めて先を急いだ。
「あの死体の身元は、エゴンっていう元教師らしいよ」
(……えっ??)
誰かが発した言葉を耳にしたマリオンは、思わずピタリと歩くことを止める。
そう言えば昨日、エゴンがシーヴァを侮辱する旨の発言を聞いたイアンがエゴンに注意し、それに腹を立てたエゴンが逆にイアンを侮辱、激怒したシーヴァがエゴンに「私や家族に二度と近寄らないで」と厳しい言葉を突きつけたーー、と、二人から聞かされたことを思い出す。
まさか、シーヴァに振られた腹いせに自殺を図ったのだろうか。
混ざったところでエゴンの死の真相が分かるはずがないと思いつつ、野次馬の群れに入ろうとした時だった。
突然、マリオンの腕を誰かが強く掴み、この場から連れ去ろうと引っ張って来たのだ。
「えっ……、ちょっ……!」
腕を掴んでいるのは、顔を隠すようにアフガンストールを頭から被った女だ。
「いいから、私についてきなさい」
小さいけれど、威厳を感じるその声はもしや……。
「イングリッド……姉様??」
「シッ!!」
ストールの隙間から、鋭い狐目を覗かせてマリオンを制すと、イングリッドは橋から少し離れた場所――、柊の並木に囲まれた、人通りの少ない小道まで彼を連れ立った。
「……悪かったわね。いきなり、こんなところに連れ出したりして……」
「いえ……、それより、イングリッド姉様こそ、どうしてここに……」
前回は、徹底的にマリオンを冷たくあしらい続けていたのに、一体どういう風の吹き回しなのか。
「……貴方にどうしても伝えたいことがあって。さっき、ヨーク河で上がった溺死体、エゴンとかいう男を知っているわね??」
「……は、はい」
「あの男は、クロムウェル党の頭、ハーロウ・アルバーンの兄よ」
「……えっ……」
マリオンは衝撃を受け、コバルトブルーの瞳を目一杯見開き、絶句する。そんな彼に構わず、イングリッドは言葉を続ける。
「昨夜、エゴンがハーロウの屋敷に訪れて、クロムウェル党が探し続けている、コーヒーハウスの女給の居場所をハーロウに教えたのよ。まさか、その女給が貴方の恋人で、貴方が家族ぐるみで彼女を匿っているなんてね……、って……。マリオン、顔色が悪いわ。気を確かに持ちなさい」
「……はい……」
エゴンによって、メリッサの居場所をクロムウェル党に知られてしまった。恐らく、近いうちに彼らがメリッサを、下手をすれば自分や家族すらも始末しに来るかもしれない。
突如立たされた窮地――、混乱するマリオンに「マリオン、落ち着きなさい。まずは私の話を聞くのよ」と、イングリッドが淡々と諭す。
「……すみません、イングリッド姉様」
「まぁ、平静でいられなくなる気持ちも分からなくはないけど」
「……二つ程、聞いてもいいですか??」
「何かしら??」
マリオンは、遠慮がちにイングリッドに質問する。
「まず……、エゴンさんは何故殺されたんですか……」
「私も詳しくは分からないけど……、そのエゴンという男は、以前からハーロウにとって厄介者だったみたい。それで、その女給が貴方の家に匿われたことを知りつつ、二週間も経ってから知らせに来たことに腹を立てたハーロウが、手下を使って殺したのよ」
「そんな理由で……。仮にも同じ兄弟なのに……、酷い……」
「血が繋がっているからと言って、必ずしも情があるかと言えば、それは間違いよ」
憤るマリオンに対し、イングリッドは冷たく言い放つ。イングリッド自身も憎しみこそないものの、他の姉妹達にそこまで情を持ち合わせていなかった。それは、自分以外の姉妹は目に入れても痛くない程にクレメンスから溺愛されていて、邪険に扱われる自分と他の姉妹達との間に見えない隔たりをお互いに感じていたからだった。
「悪いけど、私は貴方の感傷に付き合える程暇じゃないのよ。で、もう一つの質問は??」
事務的な口調で、イングリッドは話を進めようとする。
「何故……、姉様が、そのことを知っているのですか……」
イングリッドは、ただでさえ細い目を更に細めて、マリオンを睨みつける。が、やがて観念したのか、フッと息を吐いた後、再び口を開く。
「……下層でも噂になっていると思うけど……、お父様とクロムウェル党は密接な繋がりを持っているのよ。工場やメリルボーン家に害をなす、害をなすかもしれない危険分子を、クロムウェル党の連中を使って徹底排除を行うためにね。多分、貴方も知っているだろうけど、貴方の恋人が働いていたコーヒーハウスで工場の焼き討ちを計画していた人々がいたのよ。だから、焼き討ちを計画していた者達全員を通り魔の犯行に見せかけて殺害、でも、貴方も知っての通り、お父様は用心深い質ゆえにそれだけじゃ不安だったみたいで……」
「……それで、リバティーンの店主と女給を押し込み強盗に見せ掛けて殺し、メリッサも殺そうとしているんですか……」
「えぇ、そうよ。そして、何故私がこのことを知っているのかは……、私が……、お父様とクロムウェル党の頭ハーロウとの仲介役を任されているからよ」
マリオンは思わずイングリッドを凝視し、イングリッドは彼からの視線を避けるように目線を外しながら、話を続ける。
「それだけじゃない。お父様は私に、不定期的に街へ出て、危険分子をおびき出して始末する、という命や、ハーロウの情婦となって彼に上手く取り入る、という命を私に下しているの」
「何で……」
「さぁ??それは私を娘ではなく、都合の良い道具としか思っていないからじゃない??」
「そんな……、姉様……、嫌じゃないんですか??」
「別に??こんなことは、思春期を過ぎた辺りからさせられているから、もうすっかり慣れてしまったわ」
マリオンが悲しげに整った顔を歪め、イングリッドを見つめる。どうして、彼はどこまでも真っ直ぐな瞳をしているのか。この、深く澄み切ったコバルトブルーの瞳に見つめられると、自分に染み付き、落ちることのない汚れが一層目立つような気になってしまう。
「ただ……」
イングリッドは相変わらず、マリオンの視線から顔を背けていたが、盛大な溜め息をつきながら言った。
「もういい加減、こんな役回りには疲れてしまったのよ。それに」
ようやく、イングリッドはマリオンに向き直る。
「何も悪いことをしていない、善良を絵に描いたような人達の穏やかな生活を奪うことに、何の意味があるのか、と、思い始めたの。ねぇ、マリオン」
「何でしょうか……??」
突然イングリッドに問い掛けられ、戸惑いつつマリオンは返事をする。
「メリルボーン家にいた頃と違って、今の貴方は周りの人達から愛されているみたいで……、安心したわ」
「……えっ……」
「以前貴方に言ったように、私が貴方に優しくしていたのは、屋敷の中で誰よりも惨めな境遇の貴方を哀れむことで、自尊心を保ちたかっただけ、ということは紛れもない私の本音よ。でもね……幼い貴方が私に見せてくれる無邪気な笑顔は好きだった。こんな私でも、心の底から慕ってくれる者がいる、ということが、ほんの少しだけ嬉しかったの……。だから、ようやく貴方が掴んだ幸せを踏みにじってはいけない、と思ってね。……それだけよ。さ、伝えることは伝えたから、あとは貴方自身で何とかしなさい。いいわね??」
そう言うと、イングリッドはマリオンに背を向けて、彼の前から足早に立ち去って行った。