兄弟
イングリッドは、自分の身体の上に覆い被さり、快楽に溺れているハーロウの姿と動きに心底うんざりしていた。だが、それを彼に気付かれないように、自らも同じく快楽に身を任せている振りをし続けている。
あれから、父クレメンス・メリルボーンと、クロムウェル党の頭、ハーロウとの仲介役をイングリッドが任され、ハーロウの情婦となったのだ。正確に言えば、情婦にさせられたのだが。
(どうでもいいけれど、いい加減終わらせてくれないかしら……。いつまでダラダラと腰を動かしているつもりなの……)
本来、イングリッドは男と情交を交わすことが余り好きではない。すでに何人かの男と寝た経験があったが、感じたことなど一度足りともなかった。
それもそのはず、彼女が男に身を委ねる時はその代価として、金なり何らかの約束だったりと、必ず報酬と引き換えだったからだ。つまり、イングリッドにとっての情交とは愛情や子作りの為のものではなく、ただの契約を交わす手段でしかないのだ。
「お前にしか頼める者がいないんだ」
クレメンスにそう懇願されれば、イングリッドは首を縦に振らざるを得なくなる。
何故なら、この時だけはクレメンスが自分のことをしっかりと見てくれるから。他の姉妹達と違い、自分にだけは冷たく当たり続けてきた父が頼ってくれる。それが、どれだけイングリッドにとって喜ぶべきことか。
「イングリッドの顏が儂に似過ぎていて、まるで自分を見ているような気になるから、どうしても可愛いと思えない」
幼き日、イングリッドだけを邪険にする父に物申した母に向かって投げつけた台詞を偶然耳にしてしまったことで、クレメンスに対して愛憎の念を常に持ち続けていた。同時に、自分自身に対する嫌悪感からいつしか、『自分以外の人間になりたい』という変身願望を抱くようになり、勉強や習い事の合間にこっそりと芝居の練習を行っていた。
そのお蔭で、今やクリープ座の看板女優となったイングリッドだが、反面、父が裏取引をする際に交換条件として、イングリッドとの情交を求める者が現れるようになったのだ。
皮肉にも、自身を唯一解放してくれる芝居によって得た名声が、彼女に更なる枷を与えた。
ようやく絶頂に達したことにより、ハーロウが身体から離れてくれたことにホッとしたのも束の間、部屋の扉を叩く音が聞こえてきた。
「この時間は部屋に来るな、と言ったはずだが??」
衣服を身に着けながら、淡々と、それでいて、よく通る声でハーロウが冷たく返す。
「すみません、ハーロウさん。客人が、どうしてもあんたに会いたいと言って聞かなくて……」
「…………」
ハーロウは眉根に皺を寄せて、しばらく逡巡したのち、「……分かった。その客人を部屋に通しなさい」と、扉の向こうに控えている手下に告げる。直後、天蓋から垂れ下がっているカーテンを閉め切り、ベッドの中のイングリッドの姿を隠した。クリープ座の名女優に、犯罪組織の頭の情婦などという醜聞が流れては気の毒と思ったのか、もしくはメリルボーン家と繋がりを持っている証拠を隠す為か、おそらくは後者だろうがーー、ハーロウの気遣いに、イングリッドはほんの少しだけ感謝の気持ちを覚えた。
「やはり、貴方でしたか……、兄さん」
ハーロウは溜め息交じりに、どこか侮蔑的な言い回しで客人に声を掛ける。
「とりあえず、そこに座って下さい」
部屋の中央に置いてあるテーブル席に座るよう、ハーロウが指示すると客人は無言で椅子を引き、ハーロウもその向かい側の椅子に腰掛ける。
「こんな時間に一体何の用ですか。生活費ならこの間、手下に持たせましたよね??まさか、もう使い果たしたとか??それとも、とうとう婦女暴行の罪でも犯して、示談金を催促しに来たとか??」
「そんなんじゃない……」
「じゃあ、何なんだ??私は暇を持て余している兄さんと違って、忙しいんですよ」
ハーロウの人を食った物言いに、客人が不快そうに表情を歪める。いつもは茫洋としているハシバミ色の瞳に、苛立ちが見え隠れしている。そんな客人に、「あぁ、機嫌損ねないでくださいよ」と、ハーロウは鼻先で笑う。
「今日は、お前にとって有益な情報を教えに来たんだよ」
「へぇ、どういう??」
「教えて欲しければ、その、僕を馬鹿にするような態度を取るんじゃない!仮にも、僕はお前の兄だぞ!!」
「これは失敬」
ハーロウが兄と呼ぶ人物――、腰のない金髪に病人のごとく顔色が悪く、痩せた細った男はエゴンだった。
エゴンとハーロウは、貧しい日雇い労働者の子供として生まれ、後に両親を流行病で亡くしたことで救貧院に送られた。劣悪な環境下で二人は励まし合って生きていたが、兄のエゴンが厳格な中流家庭に、弟のハーロウが田舎の子爵家にそれぞれ引き取られたことにより、二十年近く手紙のやり取りのみを続けていただけであった。
ところが、数年前に突如、「田舎暮らしはもうたくさん。私は、もっと面白いことがしたいんだ」と、地位も家も家族も捨て、財産の権利書だけを持ってハーロウがこの街に戻って来たのだ。同じ頃、寄宿学校の女子生徒を手籠めにしたことで強制退職させられ、生徒の家族から訴えられていたエゴンがハーロウに助けを乞うたことで、再び二人は交流を持ち始めたのだった。
「それで、有益な情報とは??」
「以前からお前が探している、例のコーヒーハウスの女給の居場所だよ」
すると、ハーロウの顔からは笑みが消え失せ、代わりにエゴンがニタリといやらしく嗤う。
「その女は、僕が住んでいる地域に住む、棺桶職人の家に匿われている。一家の家族構成は、主がイアンという冴えない中年男で、二十も年若く美しいが、娼婦上がりの妻シーヴァ、その二人にはノエルという幼い息子と、アリスという赤ん坊がいる。そして、跡取りとして、見た目こそ良家の子息みたいだが、得体のしれない浮浪孤児出身のマリオンという青年だ。ちなみに、女給はマリオンの恋人らしい」
「それは報告どういたしまして。それにしても、その一家について随分と詳しいのですね、兄さん」
「それは……、近所の人達だからね」
「本当にそれだけなんですかね??」
「どういう意味だ??」
ハーロウの試すかのような口振りに、エゴンはドキリとしつつも平静を取り繕って聞き返す。
「さぁ??兄さんの思った通りなんじゃないですか??あぁ、私の方からも兄さんに一つ言いたいことが」
「な。何だ??」
今度は、ハーロウがエゴンに笑い掛ける。しかし、その笑顔は獲物を丸飲みする直前の蛇のごとく、何の感情も読み取れない、冷たい眼差しで口元だけを大きく開けているという、何とも不気味な笑い方だった。
「何故、すぐに報告しなかった??何故、二週間も過ぎてから、思い出したように言うんだ??」
ハーロウのその表情を見たエゴンは、蛇に睨まれた蛙のように、ただただ硬直してしまっている。
「兄さんに金を届けに行った手下が言っていましたが……。兄さん、貴方、人妻に一方的に懸想して横恋慕していたそうじゃないですか??もしかして、その家の妻の事なんじゃないですか??」
ハーロウは益々顔を険しくさせて。エゴンに詰め寄る。
「大方、その妻に手酷く振られたか、嫌われたかしたんでしょう??そんな個人的な感情で動いたりしないでください。昔から、私は兄さんのそういうところが嫌いなんですよ。ただでさえ、散々私や組織に迷惑掛けていると言うのに……」
エゴンは反論一つ返すことも出来ず、ただただハーロウの言葉を苦渋に満ちた顔をしながら聞くしかなかったのだった。