序章
マリオンはゼェゼェと激しく息を切らしながら、ひたすら走り続けていた。
女性と見紛うような美しく整った顔は、散々殴られたせいで見るも無残に腫れ上がっている。当然、走ることによって生じる身体への振動は、殴られた顔や体に響き、全身に更なる痛みの波が押し寄せる。
だが、マリオンは今、そんなことに構っていられるような心境ではなかった。
(早くしなきゃ……。皆が……)
お願いだ。どうか間に合って。
僕のせいで、皆が傷つけられるようなことだけは……、命に代えても阻止しなければいけないんだ!
(1)
「マーリオン。たまにはさぁ、気晴らしに遊びに行こうぜ??」
ある週末の休息日、昼食を食べ終わったマリオンがシーヴァと共に皿の片づけをしようとしていた矢先、背の高い赤毛の男――、友人のランスロットが家に訪れた。
「えぇっ、今から?!」
「おう、最近評判のコーヒーハウスに一緒に行かねぇか??」
ランスロットはそばかすが残る頬を持ち上げて、大きく笑っている。いかにも丈夫そうな、真っ白な前歯を覗かせて。その笑顔は、彼の気風が良く、豪胆な性格が滲み出ていた。
「うーん、僕はいいんだけど……」
ランスロットと共に玄関に立ったまま、マリオンは皿を洗い始めたシーヴァと、テーブルに着いたまま幼い息子の面倒を見ているイアン、それぞれに伺いを立てるように視線を送る。
今日は家業である棺桶造りの仕事が休みとはいえ、家の手伝いや子守りをしなければならないからだ。
「あら、別にいいわよ。ランスと遊びに行って来たら??」
マリオンの視線に気づいたシーヴァが皿洗いを一旦中断させ、エプロンで手を拭きながら、マリオンとランスロットの傍までやって来た。
「ねぇ、イアン」
「は??」
三歳の息子ノエルを膝に乗せてあやしていたイアンは、急にシーヴァに話しかけられ、呆けた返事を返す。
「ちょっと、イアン。今の話聞いてた??」
「……悪い。何の話かさっぱり……」
シーヴァは信じられないとばかりに眉根を寄せて、切れ長のハシバミ色の瞳でイアンを睨む。
「これだから、年寄りは……」
「こら、誰が年寄りだ。俺はまだ四十一だぞ……」
「人の話を聞かないのは年寄りの特徴じゃない」
「お前なぁ……」
いつものこととは言え、二十も年若い妻の生意気な言葉にイアンは思わず閉口する。
「で、どうなのよ。マリオンがランスと遊びに出ても、別にいいでしょ??」
「あぁ、お前がいいなら俺は構わんよ。マリオンだって若いんだし、たまにゃ息抜きもしたいだろう??」
「……だってさ」
するとマリオンは、「やった、シーヴァとイアンさんがいいってさ!」と、ランスロットに子供のような、無邪気な笑顔を向ける。
「その代わり、余り遅くならないようにだけはしてね」
マリオンの大袈裟なまでの喜び振りを微笑ましく思いながらも、シーヴァはしっかりと釘を刺すことも忘れなかった。
「大丈夫ですよ、シーヴァさん!そこは俺が責任持って付き合いますから!!」
ランスロットはシーヴァの両手をギュっと握りしめ……、たかと思われたが、シーヴァはそれをさりげなく上手く避けると、「そう??じゃ、マリオンのこと、頼むわね」と、にっこりと微笑みかけたのだった。
(2)
「あぁ、やっぱりシーヴァさん、綺麗だよなぁ……」
マリオンと共に外へ出た途端、ランスロットは若干鼻の下を伸ばしながら、息を吐く。
「ねぇ、ランス……。シーヴァはイアンさんと結婚してるんだよ??しかも、二人の子持ちだよ??もしかして、まだ好きとか言うんじゃ……」
「悪いかよ??」
恥ずかしげもなく、サラリと答えるランスロットにマリオンは呆れ返って言葉を失う。
「君は見掛けに寄らず、一途というか何というか……」
ランスロットは大柄で屈強な体格をしている上に、ぎょろりとした大きな鳶色のどんぐり眼が特徴的な、所謂、強面な青年だ。おまけに、酒場の用心棒と言う仕事柄、腕っ節も滅法強いので一見柄が悪そうに見える。
だが、病気で身体の自由が利かない父親を嫌な顔一つせずに世話をし(彼は幼い頃に母を失くしている)、困っている者がいたら積極的に助けたりと、情に厚く心根の優しい青年でもあった。
そもそも、マリオンがランスロットと友人になったきっかけというのも、九年前――、イアンに引き取られて間もない頃、シーヴァと二人して近所の不良少年に絡まれていたところを彼に助けられたことだった。(ちなみに、その時にランスロットはシーヴァに一目惚れしたらしい)
サラサラとした癖のない銀髪で、高級な猫を思わせるコバルトブルーの瞳に品のある女性的な顔立ち、色白で華奢な体格をしたマリオンのことを、「女みたいで、なよっちい」と小馬鹿にしていた連中と違い、ランスロットは「えっ、別にいいじゃん。確かに喧嘩はからっきしだけど、マリオンは俺達が知らないような難しい事をよく知っていて、頭良いんだから。自信持てよ」といつも励ましてくれていた。
だから、いじめっ子を蹴散らしてくれる代わりに、マリオンはランスロットに字の読み書き等を教えていた。そうやって、二人はいつしか親友と言える間柄になっていった。
「ランス。今日はお父さん、身体の調子は良いの??」
「おう。だから、たまには気晴らしして来いってよ」
「あははは、何だか、うちと変わらないやり取りしているね」
「そこだけは似た者同士だよなぁ」
二人は顔を見合わせて、笑い合う。
「と言っても、マリオンの場合は箱入り息子感が拭えないけど」
「ははは……、否定はしない……」
「イアンのおやっさんは優しすぎる嫌いがあるから、シーヴァさんと言い、マリオンと言い、過保護だもんなぁ……」
「それも否定できないなぁ……。でも、イアンさん程、良い人は後にも先にも出会えないと思ってる」
イアンは、マリオンにとって命の恩人と言っても過言でない存在だ。
マリオンは、この街で一番大きな製糸工場の経営者であるメリルボーン氏の愛人、エマの息子として生まれた。だが、彼はメリルボーン氏の子ではなく、この街の統治者、ダドリー・R・ファインズ男爵の子であった。
何でも、マリオンの母エマがファインズ男爵家でメイドとして働いていた時にどういう経緯かは定かではないが、ダドリーと関係を持っていたという。そうとは知らず、男爵家で働くエマを見初めたメリルボーン氏が彼女を愛人として囲った時にはすでに、エマはマリオンを身籠っていたのだ。
ダドリーの落し胤であるマリオンを利用する為だけに、メリルボーン氏は彼を育て上げ、マリオンが十歳の時にエマが亡くなったことで、すでに爵位を引く継いだダドリーと引き合わせた。
しかし、ダドリーはマリオンを頑として自分の子だと認めなかった為、用済みとばかりにマリオンは人買いに売られ、あわや男娼として娼館に引き渡される寸前、逃げ出したのだった。
そして、浮浪孤児として生きる為にスリとなり、通りすがりの財布を盗んだものの、見事に失敗。その時、マリオンに財布を盗られた相手が何を隠そう、イアンとシーヴァだったのだ。
幼いながら行く当ても住む場所もなく、明日をも知れぬ身のマリオンを憐れに思ったイアンは彼を引き取り育ててくれた。それだけでなく、マリオンに家業の棺桶造りの仕事を教え、今後の生きる糧をも身につけさせてくれた。
また、シーヴァもイアンが通っていた娼館で幼くして身を売っていたところを彼に引き取られたらしく(ただ、それ以前から二人は知り合いだった)、似たような境遇からか、彼女とは姉弟のように仲良く一緒に育った。
元々は赤の他人同士だった三人が、血の繋がりのある家族同様、貧しいながらも身を寄せ合って幸せに暮らしている。
マリオンは十九歳になったばかりだが、今、自分がこうやって穏やかな日々を過ごせるのは、イアンやシーヴァ、ランスロットを始めとする気の良い近所の人達のお蔭だと、常々感謝をしていたのだった。