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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

その手の先に 【二文百物語】

作者: 月兎

【あらすじ】


突如として、隣国に攻め込まれた王国。国の為、愛する者を守る為、騎士達は死力を尽くして戦った。しかし、騎士達の奮闘空しく、国王は敵兵に討たれ、騎士団もちりじりになってしまった。



残されたのは王女とたった一人の騎士だけ。



国を無くした二人の逃避行。そして、ある村にたどり着き、二人は束の間の安息を得る。しかし、それも長くは続かなかった。



形あるものはいずれ、崩れゆくものであり、二人もまた例外ではない。亡国の王女と騎士、二人の関係が崩れるそのとき、逃避行もまた終わりを迎える。



 私は怯えながら伸ばされた腕を弾いた。むせ返るような鉄錆の臭い。目を覆いたくなるような鮮血。たとえ、その腕の主が私のよく知った人間であると頭が理解していても、本能がそれを拒んでいた。体中が震えている。腹の底から、手足の先まで、体中が震えていた。


「ご安心ください、私です」


 そう言って彼は微笑んだ。本当は笑う余裕なんてどこにもない。それでも、彼は微笑んでくれた。怯えている私を少しでも安心させるために、ただ、それだけの為に。そんな彼の笑顔が嬉しくて、嬉しくて、そして、愛おしかった。


「申し訳ありません。私たちの力が及ばず、国王陛下は……」


 彼はそう言うと私から視線を逸した。命を捧げた主君の死は、どんな騎士であっても辛い。まだ、若い彼にはその辛さを黙って飲み込むことなどできないのだろう。そんな彼の頬に私はそっと手を添えた。


「そう、ですか……よく、戦ってくださいましたね」


 私は彼の頬についた返り血を拭った。父である国王が敵兵に討たれた、と聞いても私は悲しみが湧き上がってこなかった。覚悟はもう、できていた。既に城下は敵国に蹂躙され、城にまで敵兵が侵攻している。最前線で戦っていた騎士団も既に散り散りになってしまい、私が敵に捕らわれてしまうのも時間の問題だった。そんな状況で彼に出会えたことは本当に僥倖だった。この奇跡を与えてくれた神に私は心の底から、感謝した。


「殿下、せめて貴女だけでもお逃げください」


「私一人が逃げ延びたところで何ができるのです……この非力な娘に一体……貴方こそ、私に構わず逃げ延びてください。もう、貴方が忠義を尽くす主はこの世にはいません。どこへなりとお行きなさい」


 私の瞳から一粒の涙が溢れ、彼の甲冑の上で弾けた。彼にはきっと、その涙が覚悟の証に見えたに違いない。その瞬間、騎士としての彼の生きる道は決まってしまった。


「何を仰っているのですか。私が忠義を尽くす主は、まだ、ここにいらっしゃいます。どうか、私とお逃げください。貴女をまだ、死なせるわけにはいきません」


 そして、彼は私の手をとった。その力強さが頼もしくて、頼もしくて、そして、愛おしかった。


「ですが、私がいては……」


 逃げられるものも逃げられなくなる。敵味方入り乱れるこの城から抜け出すのは至難の技だ。手練の騎士ならば機を見て、抜けられたかもしれないが、私にそんな真似はできない。一応、乗馬を習ってはいるが、それもすぐ隣で馬の口をとってもらっていたからできただけだ。一人で馬に乗ることなんてできるわけがない。


「ご心配なさらないでください。私が必ず、お守りいたしますから」


 そして、私は彼と共に城から逃げ延びた。あんな状況で逃げることができるなんて、幸運という言葉では言い表せないくらい、運がいい。この奇跡を与えてくれた神様に私は感謝した。





 それから一ヶ月。私は彼と二人きりの逃避行を続けた。私が身につけていたドレスや宝石を売って、あるいは彼の身につけていた甲冑を売って、私達は逃げ続けた。村娘の着る飾り気のないドレスを身に纏った私に王女の面影はどこにもない。農夫が着る厚手の毛織物を着た彼の腰には不釣り合いな剣がぶら下がっている。国王陛下から下賜された剣だから、たった一つ残された騎士の誇りだから、と彼が決して手放さなかったその剣は今まで、私と彼の身を何度も守ってきた。


「この先に、村があるそうです。空家になった家もあるらしいので、使わせてもらいましょう」


 彼の笑顔が眩しい。私達が屋根のある所で寝たのはもう何日も前のことだ。私の前では常に騎士として振舞っているが、疲れていないはずがない。野宿続きで私も彼も疲れきっていた。


「えぇ、そうね。貴方もこれで少し休めますね。今までお疲れ様」


 私が彼を労うと彼はとんでもない、と首を横に振った。必死になって首を振る様子はまるで怒られた子供のように頼りなく、弱々しい。普段、頼りにしているだけにそのギャップはよくも悪くも新鮮だった。


「もったいなきお言葉、ありがとうございます。しかし、私は主君を守ることができず、仲間を見捨てておめおめと生き恥を晒してしまって……」


「では、こうして生き延びている私も生き恥を晒している、と?」


 そう言って、私は彼に冷ややかな視線をぶつける。もちろん、演技であって、本心ではないのだけど。紛いなりにも騎士として私に仕えている彼がこんなことを言われてどんなことを思うのかは簡単に想像できる。できるのに、こんな言葉を彼に敢えて言ってしまうのはきっと、私のわがままだ。彼には、生きて欲しかった。あんなところで死んで欲しくはなかった。


「い、いえ、申し訳ありません。そのようなつもりで言ったのでないのです」


「いえ、私も言葉が足りませんでした。ですが、考えてみてください。父や、共に戦った騎士団の仲間たちが貴方の死を望んでいるとお思いですか?貴方は、騎士団の仲間たちの死を望むのですか」


 ずるい、と思いながらも私は彼に微笑んだ。彼の葛藤は私が誰よりも理解している。忠義を尽くすと決めた国王を失い、共に戦うと誓った仲間を失い、それでも生きてしまっている苦悩は痛いくらいわかる。本当なら、彼もあのまま一人の騎士として忠義に殉じて死にたかったに違いない。それでも、彼は選んでくれたのだ。私と一緒に生きることを。そんなささやかな幸福を与えてくれた神様に私は感謝した。


「……急ぎましょう。雲行きが怪しくなってきました」


 空を見上げながら、彼は言った。結局、彼は私の問いかけには答えてくれなかった。苦しげな彼の表情を見れば、どれほど深く悩んでいるのかがわかる。彼は、きっと、今も心のどこかで生き延びてしまったことを悔いて、そして、恥じているのだ。騎士として誇りある死を全うしたかった彼をこの世界につなぎとめてしまったのは私だ。王女としての私が生きている限り、騎士である彼は死ぬことは許されない。彼に恨まれてもよかった。生きてさえいてくれれば、それでよかった。





 村に着いた私たちは村人に村はずれの空家まで案内してもらった。粗野な寝床。埃を被ったキッチン。ひびの入った壁。空っぽの水瓶。錆びた蝶番。お城に居た頃とは比べものにならないくらい汚くて、狭い家だったけど、私にはここが天国のようだった。ここで彼と二人きりで暮らしていくのだろうか、と考えると自然と胸が高鳴った。


「申し訳ありません。このような場所しか見つけることができなくて……」


 古びた空家しか確保できなかったことを恥じるように彼は頭を下げた。


「いいのです。今はこうして命があるだけでも幸せなのです。これ以上、私は何も望みません」


 夢にまで見た、愛する人との二人きりの生活。それが目の前にあるのだ。私はそれだけで十分だった。私が満面の笑みだったせいか、彼の顔もわずかばかりの安堵の表情に変わった。そして、床に落ちていた木桶を拾うと私に言った。


「では、私を水を汲んで参ります。くれぐれもここを離れないでください」


「あ、それなら私も手伝います」


「いえ、殿下にそのようなことをさせるわけには……」


 王女である私に水汲みをさせるなど、と彼は顔色を変えて、必死に私を止めた。もちろん、水汲みなど生まれてこの方、したことも見たこともない。それでも、したいと思ったのは一人になりたくなかったからだ。父を失い、国を失った私の唯一の拠り所は彼だった。私にはもう、彼しか残されていないのだ。彼と一時も離れたくなかった。その為なら、どんなことでもするつもりだった。


「私を一人にするのですか?もう、私には貴方しかいないのに……」


 私に見つめられて彼は苦悶の表情を浮かべた。騎士として、王女に水汲みをさせるなどできるはずがない。しかし、だからといって一人にしないで、という言葉を無視することもできない。結局、彼が折れるしかなかった。見るだけですよ、と一言零してから私たちは水を汲んだ。それからも空家で、人の手の入っていないこの家を少しでも住みやすくするために火を起こし、埃を払い、散らかった部屋を片付け、ようやく一段落ついたときにはもう、日が沈み始めていた。


「申し訳ありません。殿下の手を煩わせてしまうなど、なんとお詫びすればよいか」


 結局、私も彼を手伝った。というよりも、彼が止めるのを振り切って、私が進んで手を出したのだ。その時の彼の顔といったら、なんとも言えないものがあったのだけど、止めることは諦めて、慣れない私を気遣いながら片付けを続けた。


「よいのです。ここには私たち二人しかいないのです。お互い、助け合っていくのは当然のことです。それに……」


 寂しげに笑い、私は彼を見つめた。王女と騎士、とは言ってみても、それはもう私たち二人の中でしか通じない。父を失い、国を失った時点で私はもう、王女ではなくなってしまった。帰るべき場所はこの世界のどこにもない。もう、ないのだ。


「そんなことを仰らないでください。たとえ、国を失っても、貴女は王女であることに変わりはないのです。きっと、我々のように生き延びた者もいるはずです。今は苦しいかもしれませんが、いずれは貴女を旗印に皆が集い、そして、国王陛下のご無念を晴らすべく、立ち上がるのです。そうすれば国の再興も叶います」


「そうですね。いつか、きっと……」


 力強く語る彼の顔は眩しいくらいに輝いていた。この一ヶ月の間、彼はこうやって私を励まし続けてくれた。まだ、終わりではない。いずれ機会がある、と。だけど、そんな彼の言葉も私の胸には響かなかった。一度滅びた国を再興することがどんなに困難なことなのか、世間知らずの私でもわかっていた。そして、それを成し遂げるだけの才覚が私に備わっていないことも。


「ですが、私はここで貴方と二人きりで暮らしていければ、満足です。こう言ってしまうと死んでいった者達に悪いかもしれませんが、私は今のささやかな幸せだけで十分なのですよ」


「そんな弱気なことを仰らないでください。機会はいずれ訪れますから」


 彼は私を励ましてくれた。だけど、あまり強くは言わなかった。私が疲れていることは彼もよく知っていた。そして、疲れている私に必要なのは励ましの言葉ではなく、しっかりした食事と十分な休息であることも。


「……食事の支度をします。それと、こんなものしか出せなくて申し訳ありませんが、どうぞ」


 そう言って彼が差し出してくれたのは陶器のコップに入った白湯だった。中央には見たこともない葉が浮かび、優しい香りを漂わせている。


「裏庭に薬草が生えていまいしたので、それを……これで少しは気分が落ち着くはずです」


「ありがとう」


 彼の入れてくれた一杯の白湯。お城で飲んでいた紅茶とは比べ物にならないくらい貧相だった。だけど、私が飲んできた中で最高の一杯だった。





 彼の作ってくれた拙い夕食を終えた私は彼と二人で家の裏庭に出て、星を眺めていた。二人で星空を眺めるのはこの一ヶ月、ずっとしてきたことだった。宵闇に広がる満天の星空。私はお城を出て初めて、星明かりという言葉を知った。一つ一つは小さくて、だけど、力強い確かな光。その光はこんなにも尊くて、美しい。もし、彼が貴族の出であったなら、優艷な詩の一つや二つを諳んじてくれただろう。それを残念に思わない、と言ってしまうと嘘になってしまうけど、それでもよかった。こうして二人で一緒に星を見られることが私にとっては何よりも大切で、宝物だった。


「本当に綺麗ね」


「えぇ、そうですね」


「こういった時にはもう少し気の利いた言葉を返してくれないと。騎士様」


 悪戯っぽく、くすりと笑って、私は彼の顔を見た。一瞬、困惑した顔を浮かべ、申し訳なさそうに俯く彼の横顔は私だけのものだ。


「冗談よ。いいのよ、心無い人が綺麗な言葉を幾つ並べられても、私の心には響かない。それより。こうやって貴方と二人で寄り添って、星空を眺めているほうがずっといい……」


 そして、私も彼も黙り込んでしまう。だけど、気まずいところなんてどこにもない。穏やかで、優しい風が私たちを包み込んでいく。こくん、と彼の肩に頭を傾ける。彼のぬくもりが、愛おしい。


「お城が燃えてしまったのは悲しいことだけど、この星空を見ることができて本当によかったと思う」


 こんなに綺麗な星空はお城のどこを探しても見つからない。夜でさえ、昼かと錯覚してしまうくらいに明るいあのお城では星々の光は霞んでしまって見えないのだ。


「私たちが争いや流血、欺瞞でこの地上を汚し、醜くしてしまったとしても、星の光までは汚すことはできないのね。こんなに無垢な光、あそこにはないもの」


「正直、申し上げますと私も王城はどうにも息苦しいというか、胸が詰まる気がして、あまり居心地のいい場所ではありませんでした」


 彼はそう切り出した。


「いつも、誰かに監視されているような、狙われているような、そんな気がしてばかりでした」


「そうね。わかるわ」


 権謀術数の渦巻くお城の中はいつも言葉にできない緊迫感で満ちていた。より上を目指すために、ほかの誰かを蹴落とすことも厭わない悪意。誰かを、あるいは何かを犠牲にしてでも、手に入れたい、と望む人の心がお城の空気を歪めてしまっていたのだ。王女として生まれ育った私はある程度、それに慣れていたけど、平民出の彼にとって苦痛でしかたなかったに違いない。


「申し訳ありません。殿下に対してこのようなことを……」


「いいのよ。それに、貴方がそうやって心の中を打ち明けてくれて嬉しいの。私は確かに王女だけど、ずっと王女でいられるほど強い人間じゃない……それこそ、息が詰まってしまうわ」


 そう言って私は微笑とも苦笑ともつかない笑みを浮かべた。


「貴方はそう思ったことはないの?」


 彼は少し空を見上げて、そして、静かに首を横に振った。


「ありません。辛くなかった、と言えば嘘になってしまいますが、それも含めて私の誇りです」


 ずるい。心の底から私はそう思った。それくらい彼の顔は自信に満ち溢れ、きらきらと輝いていた。まさしく、不意打ちだった。でも、こんな不意打ちなら大歓迎だ。そして、とびっきりのプレゼントを与えてくれた神様に私は感謝した。





 夜も深さを増し、肌寒くなってきたので私たちは星見を終えて、家の中へ入った。しかし、ここで一つ問題が起きた。家の中には前の住人が使っていたと思われるベッドが一つあった。古いながらも大きさとしては大人二人が寝るのには十分な大きさだった。私は何も思わずにベッドに横になった。すると彼は私の横に来ることなく、入口の近くの壁に背中を預けるように腰を下ろした。


「どうしたのですか?貴方もこちらに……」


 この一ヶ月の間、私の隣にはずっと彼がいた。彼のぬくもりがあったからこそ、私は眠ることができた。そして、今夜もそれが続くのだと、そう思っていた。


「殿下、今までは寒さを凌ぐために肌を寄せて暖をとっていましたが、本来なら私のような身分の人間がそのようなことが許されるはずがありません。ここなら肌を寄せ合わずとも……」


「私とはもう、一緒に眠れない……そういうこと、ですか?」


 彼の言葉を遮って、私は彼を睨みつけた。裏切られたような気分だった。つい先程まで、隣にあったぬくもりも幸せも全てが偽りであったかのようにさえ感じられた。


「えぇ、そうです」


 彼はそう言って、頷いた。


「そんなの……いや……」


 私はすぐに起き上がると駆け出して、彼の胸へと飛び込んだ。彼は驚きながらも私を受け止めてくれた。私の体を包み込むがっしりとした腕。あの、心地よいぬくもりが蘇ってくる。


「そんな寂しいことを言わないでください。私にはもう、貴方しかいないのです。一人にしないでください……」


「殿下は一人ではありません。いずれ、皆が殿下のもとに集まります。それまでの辛抱です」


 頭の上で彼の言葉が響く。優しい言葉。慰めの言葉。励ましの言葉。私のために、彼が紡いでくれる幾つもの言葉。だけど、本当に言って欲しい一言だけは囁いてくれなかった。大切に思ってくれていることは伝わってくる。彼のその気持ちに嘘はない。それがわかるからこそ、歯がゆくて、歯がゆくて、苦しかった。


「どうして……どうして、わかってくれないのですか、私はこんなにも貴方のことを……」


「いけません。殿下、それから先は口にしてはいけません。私は一介の騎士です。王女である貴女と釣り合う身分じゃない」


 本当にずるい。彼は全てを承知して、私の気持ちを知った上で、言葉にすることを許してくれないのだ。私はこんなにも彼のことを愛しているというのに。


「身分なんて、もう、関係ありません。かつての私は王女でした。でも、今の私はもう、王女じゃない。だから……」


 気持ちが、溢れ出す。彼を愛おしいと思う気持ちが私の中から堰を切ったように溢れ出す。身分も、常識も、良心さえも超越した想いが溢れ出す。


「いいえ、貴女は今も王女です。私が平民であるように、それは変えることのできない事実です」


「貴方のためなら、捨ててしまって構わない……王女なんてそんなものはもう、いらない……いらない、いらない、いらないっ!!」


 ヒステリーを起こして泣き叫ぶ私に彼はどこまでも騎士だった。


「殿下、もし、少しでも私のことを想ってくださるのなら、そんなものだなんて言わないでください。私は、いえ、私たちは貴女や陛下を、国を守る為に命を懸けてきたのです」


 彼の言葉が静かに私の中に響き渡っていく。


「ですから、私たちが命を懸けたものを、そんなものだなんて言わないでください。そうそう簡単に投げ出されては死んでいった者たちが報われません。ですから、どうか……」


「でも、止められないの……この気持ちを抑えきれないの。私は、貴方のことを愛しています。誰よりも、何よりも、ずっと……」


 私はそう言うと彼の腕の中で泣いた。泣いて、泣いて、泣き続けた。父が殺されたと知らされたあの日でさえ泣かなかった私が、ずっと、ずっと泣き続けた。涙が枯れるまで、声が枯れるまで、ずっと、ずっと、泣き続けた。そして、彼はそんな私を泣き止むまでずっと、抱きしめてくれた。その優しさが、嬉しくて、嬉しくて、愛おしかった。





 泣き疲れた私を抱えて、彼はベッドまで運んでくれた。そして、子供を寝かすように優しく、私をベッドに寝かせると私の手をそっと握り締めた。


「殿下のお気持ちは嬉しく思います。騎士としてではなく、一人の男として嬉しく思います。しかし、私は殿下のお気持ちに応えることはできません。私は一介の騎士です。しかも、貴方のような王城育ちとは正反対の平民上がり。身分が違いすぎます。それに、私には妻と子がいます。城下に住んでいましたから、もはや、生きているかどうかもわかりませんし、確認する術もありません。ですが、たとえ、死んでしまっていたとして私の愛は妻と子のものです。他の誰にも、愛を誓うことはできません」


「……知っていました」


 そう、彼の言う通りだ。彼は忠義に厚く、誠実な人間だった。もし、私と彼を阻むものが身分だけであったならば、どうにかすることができた。王女として力を使って、彼を独占することはできた。だけど、彼の愛だけは奪うことができなかった。彼の愛はもう既に、私以外に向けられていたのだから。


「だから、許せなかった……」


 彼の全ては私のものだった。忠義も、誠意も髪の毛の一本に至るまで全て私のものでなければならなかった。それなのに、現実は違った。どんなに頑張っても、どんなに望んでも、彼の愛だけは独占できなかった。それどころか、一度たりとも私に向けられることはなかった。そんなことを許せるはずがなかった。


「貴方に愛して欲しかった。私の願いはただ、それだけだったのに……」


 たった、それだけのこと。そう思っていた。だけど、たったそれだけのことが、叶わなかった。彼の愛はいつも彼の妻と子にしか向けられなかった。そして、いつの間にか、彼の忠義も私から私の父へと移ってしまっていた。


「貴方は私だけのものなのに……」


 初めて城の外に出て、彼を見つけたその日から、私は彼の虜だった。だから、彼を騎士に取り立てて、私のそばに侍らせた。いずれ、彼から求婚されるだろう、そう思っていつも私のそばにいさせた。だけど、彼は一向に求婚してこなかった。そして、私はその理由を、彼には既に愛する妻と子がいることを知った。私は絶望のどん底に突き落とされた。重婚が罪であることは知っていたし、王女の私には彼とその妻の仲を引き裂く力がないことも知っていた。


「貴方の愛は妻と子に、貴方の忠義が父にむいてしまえば私には何も残らない……そんなこと、あってはならないのよ。だから、私は考えたのに、どうすえば貴方の愛と忠義を取り戻せるのかを」


 忠義を取り戻す方法はすぐに思いついた。騎士は国王に忠義を尽くすのならば、私が国王になればいい。王女である私にはそれが可能だった。父王さえ、いなくなれば彼の忠義は簡単に取り戻せるのだ。問題は愛だった。もし、彼が不実な人間であったなら、この身と財をもってすれば、寵愛を得ることができたかもしれない。しかし、現実はそうではなかった。彼は憎たらしいほど、誠実な人間で、私が挟み込む余地はどこにもなかった。


「結局、思いつかなくて、私は神様に祈ったの。貴方を私だけのものにする方法を教えてくださいって。そしたら、神様は答えてくださったの。みんな、いなくなってしまえばいいんだよって」


「ま、まさか、その為に戦争を……」


「えぇ、そうよ。誰にも気づかれないように準備するのは骨が折れたけど、でも、貴方が私だけのものになるんだって思うとどんなに辛いことでも頑張れた。向こうの国の王様に私の国の兵力や装備や配置なんかを詳しく教えてあげたり、優秀な将軍は罪を捏造して追放したり、本当に大変だったんだから」


 自慢げに微笑む私とは対照的に彼の顔色は血の気が抜けて、真っ青になっていた。


「そんなことの為に……そんなことの為に、みんなは……」


 彼の声は震えていた。声だけじゃなくて、彼の腕も、肩も、全てが震えていた。


「そんなこと?ひどいわ。そのために、私が一体どれほどの時間と労力を重ねてきたと思っているの?そんなこと、だなんて軽々しく言わないで。いくら貴方でも、許さないわよ」


「……この戦争で、一体どれだけの命が失われたか、殿下はご存知ですか?」


「知らないし、知りたくもないわ。そんなこと、どうでもいいでしょう?」


 主要な町は全て滅ぼされてしまっているから、少なく見積もっても数十万人の人間が死んでいることになるのだろうが、そんな数字に興味はなかった。私の中に溢れていたのは歓喜だ。これで、ようやく、彼を独占できる。そう考えると体中が喜びに震えていた。


「悪魔だ。お前は人の皮を被った悪魔だ!!」


「悪魔だなんて……愛は尊きものだって教会でも教えているわ。だから、愛から生まれたこの気持ちも尊くて、神聖なものよ」


 愛は尊きもの。子供でも知っている当たり前のことだ。その愛から生まれるものが悪いはずがない。たとえ、それがどんな結果になろうとも、愛から生まれたそれも、尊いに違いない。


「貴方は私のものよ。忠義も、愛も、服も、声も、臭いも、爪も、汗も、皮膚も、血も、髪の毛の一本まで全部私のもの」


 そして、私は彼を迎えるように両手を広げた。だけど、彼は私の腕の中に飛び込んできてはくれなかった。彼の代わりに、彼の剣が私の胸を貫いていた。彼が私の父から下賜された忠義の証。それが今、私に突き刺さっているのだ。


「よか……た、あな、のちゅう……これ、でわた……」


 彼の忠義はこれで私のものになった。体中から喜びがこみ上げてきて、うまく言葉にならない。手足も思うように動かせない。意識が深く、深く堕ちていく。だけど、まだ堕ちるわけにはいかなかった。彼の愛を私はまだ、手に入れていない。堕ちていいはずがなかった。私は懸命に手を伸ばした。彼の愛を手に入れるために、どこまでも、どこまでも、どこまでも。そして、暗い空家は静かになった。





 月兎のなろうで初めての一次作品『その手の先に』いかがでしたでしょうか?今回の話を一言でまとめますと、ヤンデレ王女、国を滅ぼす、というお話でした。はい、恐ろしいですね。王女様。



 さて、今回のお話は回覧板さん主催【二文百物語】という企画で書かせていただいた作品です。企画の概要を説明しますと、最初と最後の二つの文章を固定して物語を作る、ということでジャンルも内容もフリーで、お題になった文章をどんな風に捉えるのかを楽しみもの、だそうです。



 まぁ、文字数10000前後というのはいつも書いている量よりちょっと多いくらいで、ジャンルフリーということもあり、なんとかなるだろうとタカをくくっていたのですが……書き終わったのは今日の午前3時30分でした。はい、つい数時間前です。というわけで正直なところ、誤字脱字に不安があります。確認次第修正していきますので、ご容赦ください。



 さて、どういてこんなに遅くなってしまったかというと、なんとかなるだろう、と先延ばしにしていたから、ではなく(多少は含まれていますけど)、書こうとする話がコロコロ変わってしまったからで、当初は爽やか系学園恋愛ものを書く予定でした。しかし、筆が進まず、断念。続いて書こうとしたのは、妖怪退治っぽいアクションもの。しかし、これも筆が進まずに断念。その次に書こうとしたのが現代風羽衣伝説。これはそこそこ進んだのですが、結局、途中でリタイア。ちなみに、このとき既に11日の午前でした。それから大急ぎで書き出したのが『その手の先に』です。いやぁ、その気になればなんとかなるものですね、人間って。



 で、今回のお話である『その手の先に』ですが、はっきり言って、作者の趣味と勢いだけで仕上げました。元々、悲恋風味にする予定ではいたのですが、どこをどう間違ったのかヤンデレ王女に……というか、あれはヤンデレと言っていいのでしょうか?



 忠義とか主従とか好きなので、それをベースにした悲恋モノを書こうとした結果がアレです。うん、色々とカオスですね。ほのラブ主従とかどストライクなのに、どうしてこうなった?それは悲恋主従のほうが好きだから。



それ はともかくとして、今回一次を初めて書いてみて色々と課題も見つかったので今後も精進して頑張っていきます。


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― 新着の感想 ―
[一言] はじめまして。生保内と申します。 読ませていただきました。 救い難い物語ですね。 少しの希望もないところが恐ろしかったです。 王女様に味方した神様が、最も恐ろしい存在なのかもしれませんが。 …
2012/08/27 00:34 退会済み
管理
[良い点] こんにちは。 作品読ませて頂きましたので感想失礼致します。 好きなタイプの純愛かと思えば最後の最後で凄いどんでん返しが!いい意味ですごく驚きました…。王女様恐すぎます。 文章も読みやす…
2012/08/22 17:54 退会済み
管理
[一言] 久しぶりです。かみです。 月兎さんの一次創作を読みました。 初めは騎士と王女が二人で生き抜いて行く話かなと思いましたが読んでいくと悲恋物だと思ったがまさかのどんでん返しで予想外でした。 愛っ…
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