憎悪に、溺れる。
最初から、頭がまともに働いていたわけではなかった。佐藤湊の視界は、あの日を境にずっと赤黒く染まったままだ。網膜の裏側にこびりついた光景が、何度瞬きをしても消えてくれない。
自分のすべてだった。そう信じていた。幼稚園の砂場からずっと隣にいて、どんな時も自分の一番の理解者であると疑わなかった幼馴染、水瀬結衣。そして、高校で出会い、背中を預け合える唯一無二の親友だと信じ込んでいた、藤堂蓮。
その二人が、放課後の無人の教室で、唇を重ね合っていた。ただのキスではなかった。結衣の瞳には、湊には一度も向けたことのないような、熱を帯びた、そしてどこか背徳感に酔いしれるような歓喜が宿っていた。
藤堂の裏切りを知った時の衝撃よりも、結衣のあの「女の顔」を見た瞬間の精神的破壊の方が、湊にとっては遥かに致命傷だった。
「——あ」
ドアの隙間からそれを見てしまった湊と、藤堂の目が合った。藤堂は一瞬だけ狼狽したような表情を見せたが、すぐにその口元に、傲慢な、勝者の笑みを浮かべた。
結衣の肩を抱き寄せ、見せつけるように彼女の髪を撫でる。結衣は湊の視線に気づくと、怯えたように肩を震わせたが、藤堂の腕から逃れようとはしなかった。
その瞬間、湊の頭の中で、何かが音を立てて千切れた。本来の湊であれば、ここで冷徹にドアを閉め、音もなく闇に潜み、九条凛という絶対的な力を利用して、彼らの人生を根こそぎ、合法的に、かつ完璧に解体する計画を練り上げただろう。
数年がかりの、息もできないような檻を作るために、冷たい静寂を選んだはずだった。
だが、この世界の佐藤湊は、そこまで強くも、冷酷にもなれなかった。
ただの、プライドをズタズタに引き裂かれた、哀れな十七歳の少年でしかなかった。
「お前ら……っ!!」
理性のタガが外れた。湊は咆哮を上げながら、教室の引き戸を叩きつけるようにして開け放った。凄まじい衝撃音とともに、古い木製のドアがガタガタと震える。
「あ、湊……」
結衣が顔を青ざめさせ、藤堂の影に隠れる。その仕草すらも、今の湊にとっては猛毒だった。裏切っておきながら、被害者のような顔をして藤堂に庇われようとするその姿が、湊の脳髄を完全に焼き切った。
「蓮! お前、何やってんだよ! 結衣も、なんで……なんでだよ!」
湊は机を蹴り飛ばしながら、藤堂の元へと突進した。ガシャーンと金属製の机が床を転がり、教科書やノートが散らばる。
「はは……おいおい、落ち着けよ湊」
藤堂は余裕の笑みを崩さない。彼はサッカー部のエースであり、体格も湊より一回り大きい。無計画に激昂して突っ込んでくる湊の動きなど、彼にとっては止まった止まった的のようなものだった。
「落ち着けるわけねえだろ! 殺してやる、お前ら二人とも、絶対に許さねえ!」
湊は拳を振り上げ、藤堂の顔面を目がけて殴りかかった。しかし、その拳は空を切った。激昂のあまり大振りになった一撃を、藤堂は最小限の動きでかわす。
それどころか、藤堂は容赦なく湊の腹部へとカウンターの膝蹴りを叩き込んだ。
「がはっ……!?」
凄まじい衝撃が湊の臓物を押し潰す。肺の空気が一瞬で引き抜かれ、湊はその場に崩れ落ちた。床に四つん這いになり、激しく咳き込む。視界が火花を散らし、涙と泥の混じった味が口内に広がる。
「湊、お前さぁ……いい加減気づけよ」
藤堂は床に倒れる湊を見下ろし、その端整な顔を歪めた。
「結衣はな、ずっとお前の雰囲気だけの『重さ』に耐えかねてたんだよ。幼馴染だからって、いつまでも彼氏気取りで隣に居座って、本当にウザかったってさ。なぁ、結衣?」
「あ……うん。ごめんね、湊。私、湊のこと、ただの知り合いみたいにしか思えなくて……。蓮くんと一緒にいる時の方が、本当の私でいられるの」
結衣の声は、震えていたが、明確に藤堂を選んでいた。
「知り合いみたい」。その免罪符のような言葉が、湊の心臓に何本もの錆びた釘を打ち込んでいく。これまで結衣のために費やしてきた時間、守ってきた笑顔、そのすべてが「重くてウザいもの」として処理されたのだ。
「う、あ……あああああ!」
湊は痛む腹を押さえながら、再び立ち上がろうとした。床に落ちていた金属製のコンパスの針が目を引く。それを掴み、狂気に駆られた目で藤堂の喉元へ突き出そうとした。
しかし、その腕は藤堂によって無慈悲に踏みつけられた。
「ぎゃあああ!」
ゴキリ、と嫌な音がして、湊の指先からコンパスが転がり落ちる。藤堂は湊の頭を床に踏みつけ、冷酷な声で囁いた。
「これ以上騒ぐなら、警察呼ぶぜ? お前が俺たちを襲撃したってな。学校にも居づらくなるのはお前だ、湊。大人しく負けを認めて、消えろよ」
踏みつけられた顔面の向こうで、結衣が哀れむような、しかしどこか見捨てたような目で湊を見ていた。
それが、佐藤湊という少年の、最初の、そして決定的な敗北だった。
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翌日から、学園における湊の立場は一変した。藤堂蓮は、学校内での自分の影響力を巧みに利用した。湊が「結衣に振られた腹いせに、放課後の教室で藤堂に暴力を振るい、怪我をさせようとした危ない奴」という噂が、一瞬にして学園中に広まったのだ。
無計画に突撃し、現場で無様に返り討ちに遭った湊には、その噂を否定する証拠も、味方もいなかった。
「おい、見ろよ。あれが佐藤だろ……」
「マジで引くんだけど。ストーカーじゃん」
「藤堂くんに殴りかかったって本当かな? 運動もろくにできないくせにさ」
廊下を歩くだけで、周囲から冷ややかな視線と囁き声が突き刺さる。かつては平凡ながらも穏やかだった湊の居場所は、完全に消失していた。
教室内でも、湊の机には誰も近づかない。かつて親しく話していたクラスメイトたちも、藤堂や結衣の顔色を伺い、湊を腫れ物のように扱った。
そんな地獄のような環境の中で、湊の精神は急速に摩耗していった。夜も眠れず、食事も喉を通らない。体重は数キロ落ち、目の周りには濃い隈が刻まれた。
(なんで俺がこんな目に遭わなきゃいけないんだ……。裏切ったのはあいつらだろ。悪いのはあいつらなのに……!)
復讐の炎は消えていなかった。しかし、その炎は成り得たはずの湊ような冷徹な青い炎ではなく、自らを焼き尽くす無秩序な紅蓮の炎だった。
「佐藤くん」
ある日の放課後。誰もいない教室で、一人机に突っ伏していた湊に、冷徹な、しかし鈴の鳴るような美しい声が掛けられた。
顔を上げると、そこにいたのは、学園の理事長の娘であり、圧倒的な権力を持つ美貌の令嬢——九条凛だった。
ここから二人の悪魔的な同盟が結ばれるはずの局面。凛の瞳には、いつも通りの「退屈」と、ほんの少しの「好奇心」が宿っていた。
「随分と無様な顔をしているわね。あなたの噂は聞いているわ。親友と幼馴染に寝取られ、逆上して返り討ちに遭った、哀れなピエロ」
「……うるさい。お前に関係ないだろ、九条」
湊は掠れた声で言い、再び顔を伏せようとした。
「関係はあるわ。私は退屈しているの。ねえ、佐藤くん。私と組み合わない? あなたをあそこまでコケにした藤堂蓮と水瀬結衣、彼らの人生を徹底的にめちゃくちゃにしてあげる。私にはその力があるわ。あなたには、そのための『駒』になってもらいたいのだけれど」
凛の提案は、悪魔の誘いだった。
もし、この時の湊に少しでも理性が残っていれば、その手を取っていただろう。九条凛の財力と権力を利用し、時間をかけて二人を奈落の底へ突き落とすシナリオを描いたはずだ。
だが、湊はすでに「正気」の領域を踏み越えていた。彼の耳には、凛の言葉が「自分をさらに見下し、利用しようとする新たな敵」の言葉にしか聞こえなかったのだ。
「……断る」
「え?」
凛が珍しく、驚いたように目を見開いた。
「お前も、俺をピエロにして楽しみたいだけだろ。誰も信じない。九条、お前の力なんか借りない。あいつらは……あいつらは、俺のこの手で、今すぐぶっ殺さなきゃ気が済まないんだよ!」
湊はガタッと椅子を跳ね除け、凛を睨みつけた。その瞳には、知性のかけらもない、ただ肥大化した憎悪と狂気だけが宿っていた。
凛はしばらくの間、湊の濁った瞳を見つめていたが、やがてフッと、冷たい、失望の混じった溜息をついた。
「そう。つまらないのね、あなたも。ただの、感情の制御もできない無能な猿だったわけだわ。九条の力を断ったこと、後悔しないことね」
凛は踵を返し、二度と湊を振り返ることはなかった。
湊は、自らの手で「唯一の救いの一手」を、完全に叩き割って捨ててしまったのだ。
◇◆◇
九条凛との同盟の可能性を拒絶した湊には、もう後がなかった。学校内での孤立は極限に達し、担任からも「精神的に不安定である」として、実質的な停学を勧められる始末だった。
家に戻っても、両親は仕事で多忙を極め、湊の変化に気づかない。広すぎる静寂な家の中で、湊は一人、インターネットの闇に溺れていった。
(法律なんて関係ない。社会的な抹殺? そんな生ぬるいことやってられるか。あいつらが今、この瞬間も笑い合っていると思うだけで、俺の心臓は狂いそうだ)
湊が選んだのは、最も原始的で、最も愚かな手段だった。闇サイトで入手した、身元不明の特殊な催涙スプレー、そして防犯用と称して売られていた、強固な特殊警棒。
知略による復讐を捨てた男が手にしたのは、あまりにも貧弱で、あまりにもお粗末な「凶器」だった。
ターゲットは決まっている。
今週末、藤堂と結衣が二人きりでデートに行くという情報を、たまたま結衣のSNSの裏アカウント(かつて湊にだけ教えていたもの)から割り出していた。場所は、学園から少し離れた、緑の多い郊外の公園。夕暮れ時、人が少なくなった時間帯を狙う。
「ここで、全部終わらせる」
鏡に映る自分の顔は、完全に生気を失っていた。佐藤湊は死んだ。ここにいるのは、ただの復讐という名の強迫観念に突き動かされる、サトウミナト。
土曜日の夕方。
オレンジ色の夕日が、公園の木々を赤く染め上げていた。ベンチに座り、仲睦まじく一つのクレープを分け合っている藤堂と結衣の姿があった。結衣は心底幸せそうに笑い、藤堂はその頭を優しく撫でている。
かつて、その笑顔はすべて湊のものだったはずだった。
「藤堂……結衣……!」
コートのポケットの中で、警棒を握る湊の手が、怒りと恐怖で激しく震える。湊は足音を荒立てながら、二人の背後から一気に距離を詰めた。
「——え? 湊!?」
最初に気づいたのは結衣だった。彼女の悲鳴に近い声に反応し、藤堂が素早く振り返る。
「死ねぇぇぇ!!」
湊は叫びながら、ポケットから催涙スプレーを取り出し、藤堂の顔面に向けて噴射した。シューッという鋭い音とともに、刺激臭のある霧が舞う。
「うわっ……あ、! 目が、糞がっ!」
不意を突かれた藤堂が、顔を押さえて悶絶する。スプレーの効果は抜群だった。藤堂は視界を奪われ、その場にうずくまる。
「今だ……!」
湊はすかさずコートから特殊警棒をぶち抜き、うずくまる藤堂の頭部目がけて、渾身の力で振り下ろした。
ゴン、という鈍い肉音が響く。
「がはっ……!」
藤堂の側頭部から鮮血が吹き出し、彼は地面に転がった。
「蓮くん! いやぁぁぁ! 止めて、湊、止めて!」
結衣が狂ったように叫び、藤堂の身体に覆い被さる。
「退け、結衣! 次はお前だ! お前ら二人で、俺の人生をめちゃくちゃにしたんだ!」
湊は完全に理性を失い、結衣の背中目がけて警棒を振り上げた。今の一撃で、藤堂の頭蓋骨には確実にヒビが入っている。
このまま殴り続ければ、本当に二人の命を奪うことができる。それが、湊の望んだ「突撃」の結末のはずだった。
だが。
「——そこまでだ、ガキ」
背後から、冷徹な、大人の男の声が響いた。次の瞬間、湊の視界が天地逆転した。
「ぶふっ……!?」
凄まじい力で地面に叩きつけられ、背中に強烈な衝撃が走る。警棒が手から滑り落ち、カランカランと音を立てて転がっていった。湊の首元を、強固な革靴が踏みつける。息ができない。
「が、は……誰だ……!?」
泥にまみれた視界の中で見上げた先には、黒いスーツをまとった、屈強な男たちの姿があった。そしてその中心に、高級車の後部座席から降りてくる、一人の少女の姿があった。
九条凛。
彼女は、退屈そうに爪を眺めながら、地面に這いつくばる湊を冷たく見下ろした。
「言ったはずよ、佐藤くん。後悔することに変わるって。あなたが私の提案を断ったから、私は藤堂くんの方に協力をすることにしたの。水瀬家や藤堂家との繋がりを考えれば、彼を利用した方が、私の退屈を紛らわせるのに都合が良かったのよ」
「九条……お前、なんで……!」
「簡単なことよ。あなたはコントロールできない狂犬。なら、処分されるべきだわ。……安心しなさい、警察はもう呼んであるわ。現行犯の殺人未遂。あなたの人生は、今日ここで、本当に『終わり』よ」
遠くから、ウーウーと鳴り響くサイレンの音が聞こえ始める。
「嫌だ……嫌だ! 俺は悪くない! こいつらが、こいつらが先に俺を!」
湊は狂ったように叫び、地面を掻きむしったが、九条家のSPたちの力に抗えるはずもなかった。
藤堂は血を流しながらも、結衣に抱き抱えられ、生きている。結衣は湊を、完全に「哀れな犯罪者」を見る目で眺めていた。そこにはもう、幼馴染としての情など、微塵も残っていなかった。
「佐藤湊。あなたは、復讐の資格すら持たない、ただの哀れな敗北者よ」
九条凛の冷酷な宣告が、夕暮れの公園に響き渡る。赤色灯の光が、湊の絶望に満ちた顔を不気味に照らし出し始めた。




