第5話 聖女の御名のもとに
碧御学園の空気は、春の暖かさを通り越して、どこか熱病のような高揚感に満ちていた。
水雲の言葉は、今や学園における「絶対的な啓示」となっていた。彼女が「あの花壇の雑草を抜いたら、きっと心が晴れるよ」と言えば、休み時間には生徒たちが自主的に花壇を整備し、彼女の微笑みを求めて列をなす。
それは、湊がかつて築き上げた恐怖による統治とは決定的に違う。生徒たちは、自分たちの意志で「水雲のために尽くすこと」を選んでいた。彼女に必要とされることが、彼らのアイデンティティそのものになっていたのだ。
「水雲様、今日の朝食のパン、一番いいものを取っておきました」
「水雲様、放課後は私たちがあなた専用の付き添いを務めます」
生徒たちは、互いに水雲の寵愛を競い合い、その過程で学園の古い校則や厳しい規律など、もはや誰も気に留めなくなっていた。
水雲の笑顔が見られるなら、何をしてもいい。そんな狂信的な空気が、キャンパス全体を覆い尽くしていた。
◇◆◇
職員室には、新たな教師たちが赴任していた。しかし、彼らもまた、水雲を一目見た瞬間にその瞳に魅了され、彼女の崇拝者へと変貌していく。
学園の運営は、事実上、水雲の意向一つで決まるようになった。ある日の放課後。水雲は、中庭に座る蓮司と玲奈を呼び寄せた。
「ねえ、蓮司くん。みんなが私を『水雲様』って呼んでくれるのは嬉しいけど……なんだか、みんなが本当の自分を隠しているみたいで、少し寂しいの」
水雲がそう呟くと、蓮司は慌てて地面に額を擦り付けんばかりの勢いで頭を下げた。
「水雲の期待に添えてないなら、俺達が悪い! もっと、水雲が心から笑顔になれるようにする!」
「……違うのよ。私はただ、みんなが、パパと私みたいに、家族みたいに笑い合ってほしいだけ」
水雲の無邪気な願い。それは「命令」よりも遥かに重い拘束力を持っていた。
生徒たちは「水雲様を家族のように愛すること」を最上の義務とし、少しでも彼女を悲しませる者を、学園から「排除」する自浄作用すら持ち始めていた。
◇◆◇
同じ頃。湊は自宅の書斎で、学園から届く報告書を読み終え、深く溜息をついた。
(……これが、俺の愛した娘の支配か)
湊の手元には、蓮司や玲奈たちが収集した「水雲に敵対する可能性のある人間」のリストが並んでいる。娘のために、湊は今も影で剣を振るい続けていた。
かつて自分が「支配者」として孤独の頂点に立っていたとき、自分は誰からも愛されていなかった。しかし、今の自分は、娘を守るという名目で、これほどまでに満たされている。
「パパ、お疲れ様」
不意に、水雲が書斎に入ってきた。彼女は湊の背後に立ち、優しく肩を揉み始める。
「学園のみんながね、パパのことも『水雲様のヒーロー』だって、すごく慕っているわ。」
湊は、娘の細い指先から伝わる温もりに、全身が溶けていくような錯覚を覚えた。
支配者としての自分を殺し、ただの「一人の父親」として存在することを、娘は要求している。いや、彼女の無邪気さは、湊をその場所へ強制的に引きずり込もうとしていた。
「……ああ。そうだな。水雲、お前の望む世界を作ろう」
湊は、初めて自分の復讐の道具だった「支配」を、誰かを守るための「愛」という名の毒に塗り替えた。
親子二代による、無邪気で残酷な「幸福の独占」。碧御学園という小さな箱庭は、完全に水雲という神を戴く宗教国家へと変貌を遂げようとしていた。
そして、その中心にいる水雲は、まだ気づいていない。自分たちが作ろうとしている「家族」の輪の外側で、本当の「絶望」が牙を研いでいることに。




