第4話:無料トライアルで顧客を獲得せよ! 氷の公爵、究極のスマート・スパで陥落する
バンッ!!
「ひゃあッ!?」
心地よいお湯の中で微睡んでいた私は、扉が蹴り破られる凄まじい轟音で目を覚ました。 ビシャッとお湯を跳ねさせて振り返ると、そこには抜き身の長剣を構え、殺気を放つ公爵アレクセイが立っていた。
「……えーと。公爵様? ノックの概念というものは、辺境には存在しないのでしょうか?」
「なっ……お前、なぜこんなところで素っ裸で……!?」
氷の公爵と呼ばれる彼が、一瞬で顔を赤くして狼狽する。
どうやら異常な魔力を察知して飛び込んできたらしい。
私はバスタブの縁に腕を乗せ、冷静に状況を分析した。
幸い、先ほどお湯に『土魔法』で微量のミネラル成分(泥パックの要領)を溶かし込んで白濁湯にしていたため、首から下のプライバシーは完全に守られている。
「なぜって、お風呂に入っているからですが。ほら、見てくださいこの美しい流線型のバスタブを。私の魔力で錬成した特製品です」
「馬鹿な……。数時間前まで、ここはただの隙間風だらけのボロ部屋だったはずだ。なぜ、こんな春のような熱気が……」
アレクセイは剣を下ろし、信じられないものを見るように部屋の中を見渡した。
密閉された窓枠。ポカポカと暖かい床。そして、部屋の奥に鎮座する黒御影石風の巨大なスパ。
(……ん?)
驚愕に目を見張る彼の顔には尋常ではない疲労の色が濃く滲んでいた。
目の下にはくっきりとクマが刻まれ、呼吸は浅い。さらに右半分の火傷の痕が痛むのか、時折顔をしかめている。
(……なるほど。慢性的な睡眠負債に、寒さによる血行不良。おまけにストレスで自律神経もボロボロね)
私のマーケターとしての血が騒いだ。 目の前に、明確なペイン(痛み・課題)を抱えた見込み顧客がいるのだ。自社プロダクトの威力をプレゼンし、顧客満足度を爆上げするこれ以上ないチャンスである!
「公爵様。連日の激務でお疲れのようですね。ちょうどよかったです」
「なんだと?」
「こちらの全自動スマート・スパ(仮)、今ならなんと初回限定・無料体験を実施中です! ぜひ、日頃の疲れを癒やしていかれませんか?」
「は……? ふざけるな、俺がそんな怪しげな真似を——」
拒絶の言葉を口にしようとしたアレクセイだったが……その時、彼が小さくよろめいた。
極度の疲労に体が悲鳴を上げているのは明白だ。
極寒の廊下から春のように暖かく湿気を帯びたこの部屋に踏み込んだ瞬間から、常に張り詰めていた彼の緊張の糸は限界を訴えていたのだ。
「無詠唱でこれほどの魔法陣を構築したというのか。呪いや毒の類ではないだろうな」
アレクセイは剣を構えたままバスタブに近づき、鋭い視線で底や壁の魔法陣を検分する。
だが、そこにあるのは殺傷能力など皆無の、ひたすらにお湯を適温で循環・保温させるだけの平和で完璧な給湯システムだ。
歴戦の猛者である彼だからこそ、それが全くの無害であるとすぐに悟り愕然と目を見開いた。
「顧客の潜在的ニーズを満たすのが、優れたプロダクトの条件です! さあさあ、どうぞ!」
私は『土魔法』を発動させ、バスタブの周囲にサッと石のパーテーションを錬成した。
死角を利用してお湯から上がり、トランクから出しておいた厚手のバスタオルで身体を拭き、素早くルームウェアに着替える。
そして、パーテーションから顔だけを出して彼を急かした。
「お湯は魔法陣で常に循環・浄化されているので、衛生面は完璧です! ほら、服を脱いで! 遠慮はいりませんよ!」
「お、おい! 待て、俺は——」
「一文無しの私が、自らのパトロンである公爵様を暗殺して何のメリットがあるんですか。さあ、冷えないうちに!」
私の畳み掛けるような営業トークと、ふわりと香る白濁湯の湯気の誘惑。
そして何より、彼自身の肉体が放つ強烈な生理的敗北のサイン。 ついに氷の公爵の理性が限界を迎えたのだろう。
「……」
アレクセイはため息をついた。 チャキ……と音を立てて長剣を鞘に収め、それを床に置く。
そして凍てついた手で、重たい漆黒の外套のボタンを一つずつ外し始めた。
私がパーテーションの奥へ引っ込むと衣擦れの音が聞こえ……そして……ちゃぷん、と静かに重い水音が響いた。
* * *
(……なんだ、これは)
アレクセイはバスタブに身体を沈めた瞬間、全身を突き抜けるような衝撃を受けた。
完璧な温度だ。熱すぎず、ぬるすぎず、人間の身体が最も弛緩する温度正確にキープしている。
背中を預けた黒い石の表面は職人が何年もかけて磨き上げたかのように滑らかで、肌に吸い付くように馴染む。
さらに驚くべきは湯の質だった。
ただの湯ではない。白濁湯はとろりとした極上の肌触りで全身を包み込み、こわばっていた筋肉を一本一本解きほぐしていく。
「ふぅ……」
無意識のうちに低く長い溜息が漏れた。
常に戦闘と政務のプレッシャーに晒され、警戒を解くことのなかった彼の身体から鉛のような疲労が急速にお湯の中へと溶け出していく。
何より魔獣の呪いによる右顔面の痛みが——寒さと過労で悪化していた鈍痛が、芯から温まることで嘘のように和らいでいた。
(この暖かさ……あの女の魔力か。いや、魔法陣が組み込まれているのか? 水流が自動で循環し、常に一定の熱を保ち続けている……あり得ない技術だ)
王都の王宮でさえ、これほど快適な風呂は存在しないだろう。
ただのわがままで無能な令嬢だと思っていた。王家から押し付けられた、厄介な存在だと。
だが、彼女がたった数十分で作り上げたこの空間はアレクセイの常識を根底から覆すものだった。
「公爵様、いかがですか? 湯加減は」
パーテーションの向こう側からシャルロッテの明るい声が聞こえる。
アレクセイは、自分でも驚くほど穏やかな声で答えた。
「……悪くない」
「でしょう! 当社(私)が誇る、最高のユーザーエクスペリエンスですからね! もし気に入っていただけたなら、今後は定額制として、月に銀貨5枚でこのスパの利用権を付与いたしますよ」
「……何を言っているのかわからんが、金を取るのか……?」
「当然です! ギブ・アンド・テイクはビジネスの基本です。それに、タダより高いものはありませんからね」
あっけらかんと言い放つ彼女の言葉に、アレクセイは思わず小さく吹き出した。
追放の身でありながら、公爵である自分を相手に堂々と商売を持ちかけてくる図太さ。王都の貴族が聞いたら卒倒するだろう。
「……いいだろう、契約してやる」
「毎度あり! 最高のロイヤルカスタマーとして、手厚くサポートさせていただきます!」
パーテーションの向こうで、彼女が嬉しそうに手を叩く気配がした。
湯気の中で、アレクセイは目を閉じる。
冷え切っていた彼の心に長年忘れていた安らぎという感情が、静かに、だが確実に浸透し始めていた。
(シャルロッテ・フォン・ローゼンベルク……。お前は一体、何者なんだ……?)
氷の公爵の心に張られた分厚い氷は、極上の温水スパによって確実に溶け始めていた。




