第10話:氷の公爵は、破天荒な妻の『上客』として永遠に囲い込まれることを誓う
「……夢ではない、か」
執務室に戻った俺――アレクセイ・フォン・ヴォルフガングは、壁に掛けられた姿見の前に立ち、己の顔の右半分にそっと指を這わせた。
そこにあるはずの、赤黒く爛れた醜い皮膚がない。
冬の寒さでひきつるような鈍痛も、魔力特有の重苦しい熱も、何一つ感じない。 ただ、温かくなめらかな、本来の肌の感触だけが指先に伝わってくる。
高位の神官に大金を積んでも神の試練と匙を投げられた呪い。
この醜い爛れのせいで、実の母からは『化け物』と汚物を見るような目で疎まれた。
それをいいことに、腹違いの兄弟たちは俺を次期当主の座から引きずり下ろそうと、幾度も暗殺者を差し向けてきた。
血で血を洗う凄惨な兄弟殺しの末、彼らの屍を越えて辺境公爵の座を簒奪した日から――俺は周囲から忌み嫌われ、やがて俺自身も心を凍らせて氷の公爵という仮面を被るようになった。
俺の人生は、絶望と血の匂いだけで終わるはずだった。
それが、たった数十分の『ふぇいしゃるえすて』とやらで、本当に跡形もなく消え去ってしまったのだ。
「シャルロッテ・フォン・ローゼンベルク……。お前は一体……」
鏡の中の顔を見つめながら俺は溜息をついた。
王太子から、婚約破棄された彼女を辺境に押し付けられた時。俺はただの嫌がらせか、と吐き捨てた。
温室育ちのわがままな令嬢が、過酷な辺境で生きていけるはずがない。どうせすぐに泣き叫び、慰謝料を要求して王都へ逃げ帰るだろうと。
だから初対面の時、俺は彼女を突き放した。白い結婚を突きつけ、ボロ部屋の片隅で息を潜めて生きろと。
だが、彼女の反応は俺の予想を遥かに斜め上にブチ抜いていた。
『互いに不干渉という契約、たしかに結ばせていただきます。私は私の部屋で、ひっそりとつつましく生きていくことをお誓いしますわ!』
絶望するどころか、彼女は満面の笑みで目を輝かせて即答したのだ。
それだけではない。 そのすぐ後には極寒のボロ部屋を常春の楽園(すまーと・すぱだったか……?)に変え、疲労困憊だった俺を風呂に叩き込んだ。
翌朝には、ただ塩辛いだけの干し肉を極上のスープとふわふわのパンに変え、容赦なくコンサルティング料とやらで金貨を請求してきた。
極めつけは、昨日の森でのスライム騒動だ。
騎士団が死にかける凶悪な魔獣を前にして、彼女は最高の原材料と満面のドヤ顔を決め、謎の魔法陣でスライムをすり潰して瓶詰めしていた。
常識外れ。
破天荒。
図太い。
だが、そのすべての行動の裏には生き抜くための圧倒的な逞しさがある──。
そして今日。
彼女は俺の顔に触れた。
化け物と恐れられた外見も気にせず、真っ直ぐな瞳で見てくれた。
俺の顔を覗き込んできた彼女の肌は、信じられないほどに白く、美しく、光を反射して輝いていた。良い匂いがした。……思い出すだけで、どうにも耳の裏が熱くなる。
俺は、彼女に救われたのだ。 人生の暗闇から引っ張り上げられた。
圧倒的な感謝と、抑えきれない熱い感情を、俺は彼女に伝えようとした。
『――ならば話は早いです! 初期投資として金貨1000枚の融資をお願いします!』
俺の感動の涙は、彼女の最高の営業スマイルと謎の契約書によって、一瞬で引っ込んだ。
「……ふっ、くくくっ」
思い出して、俺はまた肩を揺らして笑ってしまった。 自分がこれほど声を出して笑う人間だったことすら、長年忘れていた。
普通、あそこは令嬢が顔を赤らめて見つめ合う場面だろう。 だが、彼女は俺を怪物扱いしない代わりに、男としても意識していなかった。
ただのパトロンとして、俺から容赦なく金をふんだくろうとしているのだ。
それが、どうしようもなく面白かった。
俺の心に張られていた分厚い氷は、彼女の魔法のお湯と美味しいご飯と、そしてあの強烈に前向きな笑顔によって完全に溶け去ってしまったらしい。
コンコン。
「公爵様、お入りしてもよろしいでしょうか」
扉の向こうから、部下である騎士団長の声がした。
「入れ」
「失礼しま――……っ!? こ、公爵、様……!?」
執務室に入ってきた騎士団長は俺の顔を見るなり、雷にでも打たれたように硬直した。
「お顔の……! 右半分の傷が……完全に……!?」
「ああ。シャルロッテが治してくれた」
俺が口の端を上げてそう告げると、騎士団長はワナワナと震え出し、やがて大粒の涙を流してその場に平伏した。
「おおお……! 彼女が、まさかこれほどの奇跡を……! なんという御方だ……!」
「驚くのは早いぞ。昨日、お前たちを苦しめたクリスタル・スライム。あれの体液から作った特効薬を、シャルロッテが間もなく騎士団の兵舎に持っていくはずだ。火傷が一瞬で痕もなく治るらしい」
「な、なんと……!? 我々辺境の民にそんなことをしてくれるとは……!?」
「いいか、騎士団長」
俺は、今までで一番穏やかな声で言った。
「これより、シャルロッテを敵だと思うな。彼女は王都の回し者ではない。我がヴォルフガング領の身内として遇し、彼女のやりたいようにやらせろ」
「は、はいっ! 実を申しますと……我ら辺境の民も騎士たちも、王都から押し付けられた彼女を内心では快く思っておりませんでした。しかし、これほどの奇跡をもたらしてくださった今、誰一人としてシャルロッテ様を疑う者はおりませぬ!」
「彼女を全力で守れ。王都の馬鹿共が彼女の価値に気づき、ちょっかいをかけてくるようなことがあれば……俺が直々に氷漬けにして砕く」
俺の放ったゾッとするような殺気に、騎士団長は「ははっ!」と力強く、そして獰猛な笑みを浮かべて首肯した。
「元よりこの北の辺境は、かつては独立した誇り高き小国。我ら辺境の民は王家の犬共に、ただの一度も忠誠など誓っておりませぬ! もし王都の連中が我らの身内に指一本でも触れようものなら……辺境全軍をもって、王都を火の海にしてご覧に入れます!」
頼もしい騎士団長の言葉に、俺は満足げに頷いた。
金貨1000枚の融資。 もちろん、痛くも痒くもない。
俺の全財産――いや、この血塗られた命すらも、とっくに彼女のものだ。
彼女は俺を優良顧客として手玉に取っているつもりらしいが、勝手に勘違いさせておけばいい。
「俺は、お前が作ったこの快適な城で、一生お前の上客として甘やかさせてもらうぞ、シャルロッテ」
執務机の上に置かれたリゾート大改修計画書を撫でながら、氷の公爵はどこまでも重く、甘い執着の笑みを深めるのだった。




