02.優しさに包まれて
俺には魔王を討伐する責任がある。国に、国民に、仲間に、両親に……。みんなに預けられたこの責任があるんだ。
「……魔王の座に就いてから数年。一日たりとも気の休まる日はなかった。私にとっては、百年にも等しい長い時間に感じられたぞ。その間、責任……責任と、周囲がうるさくてな。疲れたのだ」
「!?」
お……俺と同じなのか? 魔王も、皆に期待され、逃げ場が無くて……。いや、だがしかし。
「勇者よ。こちらへ。茶でも飲もうではないか」
「茶だと? 騙されるかそんなもの!」
魔王はティーテーブルに座る。テーブルの上にはティーポットと二組のカップが置かれていた。
魔王は慣れた手付きで茶を注ぎ、そのうちの片方に口をつける。
「ほれ、毒など入っていないぞ」
「もう一つのカップに毒が塗られているんだろう? 俺はだまされないぞ!」
魔王は「阿呆め」と小さく愚痴をこぼし、もう片方のカップに口をつける。
「少しは信じる気になったか? 私の武器は玉座のもとに置いてあるだろう。戦う気はないぞ。少し休まないか」
「……」
正直、戦う力など殆ど残っていなかった。すぐにでも休みたかった。でも、俺の両肩には人類の期待がのしかかっている。
悴む指先は、温もりを欲していた。小刻みに震える右膝は、休息を欲していた。
「休めば……良いのではないか? ……我々は」
俺は力なく床に崩れ落ち、目を閉じていた。
――頬に、人肌の温もりを感じた。
目を開けると、目の前に魔王がいた。俺の頬を両手で覆っていた。
美しい顔が目の前にあった。胸元が大きく開いたその衣装は、目のやり場に困る。
視線を逸らした際、魔王――彼女と目が合った俺は、思わず息を呑んだ。
その瞳は、吸い込まれそうなほどの深い碧色をしていた。そして、彼女の瞳の奥にも、自分と同じような「消えない陰り」があるのが分かった。
「……何を……して……」
「分からんか? お前の熱を測っているのだ。人間は無理をするとすぐに熱を出すだろう?」
冷え固まった頬が、彼女の手の温もりで少しずつ体温を取り戻していくのを感じる。
驚くほど柔らかく、そして温かい彼女の手に、戦意が失われそうだ。
「は……離せ! 俺は勇者だぞ! 貴様を倒して、みんなの期待に……」
「お前の言うそれは、期待とは呼ばない。自分の幸せのために魔王を倒したいのなら、自ら戦えば良いであろう。それをお前一人に押し付けたのだ」
――そうだ。みんなで俺に責任を……。
「それを責任転嫁と呼ぶのではないか。お前は十分に頑張った、勇者よ」
そう言って頬から手を離すと、俺の背中に手を回した。抗う力の残っていない俺の身体を、彼女の細い肩へと引き寄せる。
「う……」
「いいから、黙っていろ。お前が両肩で背負っている『世界』とやらは、私が預かっておいてやる……今は、勇者ではない、お前自身でいれば良い」
彼女の柔らかい身体に身を預けた。その瞬間、鼻腔をくすぐったのは、どこか懐かしい、陽だまりのようなハーブの香りだった。
「さて、勇者よ。名前を教えてくれないか」
「ア……アルスだ」
「そうか、アルスというのか。アルスよ。私は……セレナ、と言うのだ」
「そうか、貴女はセレナというのか……」
「……」
彼女――セレナは何かを試すような、あるいは祈るような微かな光をその瞳に宿し、俺を見つめていた。その正体を知る術は、今の俺にはなかったが。
短い沈黙が流れる。彼女はおもむろに傍らのトレイからカップを取り上げると、それを両手で包むようにして俺に差し出した。
「……飲め。アルス。これはお前への『休職のお誘い』だ」
もう疑念などどこにもなかった。差し出された指先の温もりごと受け取るように、俺は躊躇無くカップを掴み、その中身を喉に流し込んだ。
蜂蜜の様な濃密な甘みと、薬草の爽やかな香りが口いっぱいに広がる。
それは、暴力的なまでの優しさだった。
熱い液体が喉を通り、胃に落ちるたび、凍り付いていた内臓がゆっくり溶け出していく。鎧のように固まっていた筋肉が弛緩し、右膝の疼きも、指先の痺れも、「勇者であらねばならない」という呪いさえも、すべてが真っ白な蒸気の中に溶けて消えていく。
ああ……俺は、ただ、休みたかったんだ。
意識の端で、誰かがやさしく髪を撫でてくれた気がした。




