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12.ナミール事変

 ◇  ◇  ◇


 その日、ナミールの地は奇跡に包まれていた。


「うぉー!! 川の水量が戻ったぞー!!」


 乾ききってひび割れていた川底が冷たい水で満たされていく。人間界側からも、魔族領側からも、地響きのような歓喜の声が上がる。


「ありがたや、ありがたや……」


 村長であるタニアは、震える手で天を仰いだ。彼女が祈りを捧げたのは、天の神だけではない。目の前に立つ勇者に、そして、かつては恐怖の象徴であったはずの魔王に、感謝を込めて手を合わせていた。


 魔王に感謝の念を送る人間は、タニアだけではなかった。飢えと渇きに絶望していた多くの村人たちが、種族の壁を超えて同じように頭を垂れていた。


 また、その異変は魔族領側でも起こっていた。魔族の戦士たちが、一糸乱れぬ動きで勇者に体を向け、最大級の敬礼を送っていたのだ。


 この日、この国境の村に起きた出来事は、後に「ナミール事変」と呼ばれることになる。


 それは武力による制圧ではなく、相互理解という名の衝撃が歴史を塗り替えた、和解の最初の1ページとして語り継がれることとなる。


 ◇  ◇  ◇


「いやー、格好良かったですよ!! 魔王様!! アルス様!!」


 侍女のフィオが変装のボロ布を勢いよく脱ぎ捨てた。いつもの手入れの行き届いたフリル侍女の姿だ。彼女は弾むような声で、俺たちを讃えてくれる。


 同じく、老商人の姿から本来のキレ者な顔に戻った宰相サモンは、眼鏡のブリッジを指先でクイッと押し上げた。


「ここからです。魔族と人間が互いに協力してこの村の基盤を立て直し、共に汗を流して生活を営む。それこそが……」


 バシャーン!!


 サモンの言葉を遮るように、俺の背後、川の方から大きな音が響いた。


 振り返ると、青と黄色の美しい鱗が特徴的で、人の身丈ほどもある「氷鱗ひょうりんサーモン」だ。そして――。


「あれを釣り上げるのは大変だと聞いているが、ありゃなんだ?」


 俺が指差した先では、冬の凍てつくような冷気もどこ吹く風、上半身裸で川に入り、氷鱗サーモンを力任せに捕まえている猛者がいた。一本角の魔族の男だ。


「……腹が減って我慢できなかったのだろうな。だが、あの魚は厄介だぞ」


 隣に立つセレナが、感心半分、呆れ半分といった様子で首を左右に振った。


「氷鱗サーモンの鱗は鋼鉄に近い硬度を持つ。残念だが、あやつがどれだけ力んで捕らえたところで、食うことはできんのだ」


 だが、俺は知っている。それは正しくはない。


「いや、調理自体は出来るんだよ。タニアの氷鱗サーモン料理は有名で――実はこの村、隠れた名産地なんだ。独自の処理法があるらしくてな」


 俺の言葉を聞いた瞬間、サモンが眼鏡をクイッと押し上げた。ガラスの部分が、キラーンと鋭く光った。


「……それです」


 俺とセレナ、そしてフィオの視線がサモンに集まる。


「今日、この瞬間、魔族と人間の協力さえあれば、この村の食糧事情は解決します」


「なるほど。理屈じゃなく、まずは腹を満たすことで手を組ませるわけか」


 俺がそう言うと、サモンは満足げに頷いた。


 俺たちはすぐに動き出した。俺は川から上がったばかりの魔族の男に声をかけ、タニアを呼び寄せた。


 最初は、見ているこちらがヒヤヒヤするほどだった。魔族の男は人間を「ひ弱」だと侮り、タニアたち村人は魔族を「畏怖すべき怪物」として身構えていた。


 だが、そこに横たわる獲物は、誰の目にも美味そうに見えた。


「……魔族の方、もし宜しければ、こちらを調理させて頂けませんか?」


「で、できるのか?」


 半信半疑の魔族の男を余所目に、タニアは丁寧に魚を捌いていく。鋼鉄のように硬い鱗が、まるで薄い氷のように綺麗に剥がれていく。


「ほう、器用なもんだな。俺達はコイツを捕まえても、食えなくて腐らせてばかりだった、だがアンタは」


 調理が始まれば、そこには戦場のような緊張感と、祭りのような活気が混ざり合った。


 魔族が捕まえた魚を人間が捌き、調理する。やがて、ナミールの村に香ばしい匂いが立ち込めた。氷鱗サーモンの良質な脂が焼ける、たまらない匂いだ。


「さあ、お召し上がりください。全員分ございますよ」


 タニアの丁寧ながらも力強い声とともに、大きな焚き火を囲むようにして、人間と魔族が入り混じって地面に座った。


 一口食べた瞬間、さっきの魔族の男の目が丸くなった。


「う、美味い……!! これが氷鱗サーモンか!!」


「タニア村長のお料理。久しぶり!!」


 空腹は最大の調味料だが、共同作業というスパイスはそれ以上に強力だったらしい。


 サモンは、その光景を満足そうに眺めながら手帳にペンを走らせている。


「素晴らしい。皆で腹を満たしたら、次は余った魚を加工して保存食づくりです。その次に、魔族の魔法を使った土壌改善に、人間の知恵を使った灌漑工事。魔族と人間の協力があれば、この村は生まれ変わりますよ」


 俺の隣では、セレナがサーモンの身を上品に、でもどこか嬉しそうに口へ運んでいた。彼女の表情は、いつもの厳しい魔王のそれじゃなく、一人の少女のような穏やかさに満ちている。


「アルス、これは歴史が変わる音がするな」


 俺は焚き火の温もりと、隣にいるセレナの気配を感じながら、新しく生まれ変わる村の景色をいつまでも眺めていた。


 ◇  ◇  ◇


「ナミール事変」


 それは、血で汚れた歴史の続きを、美味い飯の匂いで書き換えた、最高に騒がしい一日の名前だ。


 ◇  ◇  ◇


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