金魚鉢
私は金魚が心底嫌いであった。
ゆらゆらとその尾鰭をたなびかせ、縦横無尽に泳ぐ様。
私は彼ら、もしくは彼女らが憎らしくて堪らなかった。
八月十五日、日曜日。
曙橋神社花火大会。
私はただ一人、神社に背を向けて歩いていた。
右手には憎しみを、左手には金魚が三匹入った袋を携えて。
行き違う人の数は、歩く距離に比例して減っていく。
背後では強烈な爆発。
何発も、何発も。
その火花は私の憎悪をさらに燃え上がる。
歩く度にカツカツと景気の良い音を立てる下駄。
鬱陶しい。
私は、下駄を脱ぎ捨て、また歩き出す。
裸足でまだ生暖かいアスファルトを踏み締めていく。
足の裏の肉という肉が削がれていく気がする。
その痛みは私に生きていることを伝える。
歩いて、歩いて、歩いて。
どれだけ歩いたか。
家を通り過ぎ、私は曙橋西公園に来ていた。
通称「金魚公園」。
ブランコと、ベンチと、小さな小さな池が一つずつ。
と、その池に、金魚が二十八匹。
だから、通称「金魚公園」。
私は迷わず池に向かう。
そして、閉じた袋の口を乱雑に破る。
袋の中の金魚らはいつまでも、目の前の憎悪になど気にもせず、華麗に、華麗に泳いでいる。
嗚呼、ますます腹が立つ。
私は右手で袋の端を摘み、上下逆さまにする。
バチャン。
二十八匹が三十一匹になった。
私が今までここに運んできたのは計三十九匹。
小学一年生のころから、十三年間。
別に餌を与えているわけではないが、何故か大半が生き長らえている。
私は、彼ら/彼女らに何を望んで、ここまで運んでいるのか自分でもわからない。
人のもとで生まれ、人の手で管理され、また誰かの手に移り、誰かの管理下で息絶える。
ただ、そんなことに違和感を覚え続けている。
金魚を見ていると、共感と劣等感を感じる。
他人に縛り付けられている様。
それなのに、美しく燃え続ける様。
『僕らは自由だね。』
ふと思い出し口ずさむ。
『さよなら さよなら さよなら』
『もうすぐ外は白い冬』
『愛したのは確かに君だけ』
『そのままの君だけ』
私は公園を後にした。
どこかで脱ぎ捨てた下駄を探しに、元の道を辿る。
見つけたのは川沿いであった。
私は、ゆっくりと拾い上げ、再び足枷をはめる。
そして、再び神社に戻るのであった。
ここ迄読んで下さった稀有な方へ。
安藤裕子の『金魚鉢』という一曲を、是非に。