抹消データ ××69 ヴァール・アインヘリヤルの後悔
「おはよう、ヴァール?」
ボク――ヴァール・アインヘリヤルは、レンカ・エスペラントからそんな言葉をかけられた。
広い大海原の一点、交差点での出来事だ。
「否定、いまは夜だよレンカ」
「いいの、おはようって、言いたかったから。やっと会えたから、おはよう、だよ?」
試算してみると、確かに30000000秒ほど、レンカ本体とは顔を合わせていなかったらしい。
ボクたちは鯨である。
元素を固定するという使命上、できるだけ離れた海域を等間隔で航行することが求められる。
だから、ずっと一緒にいると言うことは難しい。
それでも再会を喜んでくれる彼女に、二度も否定を突きつけるのはよいことではないと演算された。
だから、おはようと返す。
彼女はくるりと一回転して、泡を吐き出した。とても上機嫌そうに。
レンカ・エスペラントが稼動を始めてから、随分と時間が経過した。
それは、彼女が積み重ねてきたバグの量であり。
そして、ボクが重ねてきた破壊の数でもあった。
群を作る鯨であるボクをひな形として産まれたレンカは、無数の分裂体を持ち、その全てと演算回路をリンクさせている。
この順列式――マスブレインシステムは、しかし大規模になればなるほど、時間をかければかけるほど本体と分体に誤差を与えていく。
とくにレンカのものは酷く、〝バグ〟と呼ばれるイレギュラーが発生しやすい。
それだけならばよいのだが、レンカの分体には簡易型の振幅炉が搭載されている。
バグは鯨としての使命、大陸再建計画を忘れる。
限りある振幅炉を無駄にすることはできない。
だから、イレギュラーと化した分体からは、振幅炉を摘出する必要があった。
それは――レンカを殺すということだ。
ボクの仕事は海洋の探索。
マスブレインの実証。
大陸再建。
そして……イレギュラーの破壊。
今日も静かに、存在してはいけないものを排除する。
自らの欠片を合意の元にぶつけ、互いが粉みじんになるまで衝突を繰り返す。
こちらの分体は振幅炉を積んでいないし、出力は低い。
それでも、まともな行動力のないバグを壊すことは可能だ。
烏賊や蛸のような形をしたレンカ・シリーズのなれの果て。
遙かな過去、第一人類は巨大な軟体動物を海の悪魔とたとえ〝大海魔〟と呼んだ。
でも、ボクが殺しているのは悪魔じゃない。
大切な、大切なレンカ・エスペラント……。
「おは……よ……う……?」
イレギュラーが言葉を発した。
いつも歌っているだけのバグが。
ボクにむかって。
刹那、電子頭脳がフラッシュバックを起こす。
過去の行動を、再演算し始める。
それは精査、正しさを求めた問い掛け。
甦るのは、無数の記録。
レンカと重ねたメモリー。
産まれたばかりの彼女を慈しみ。
ともに泳ぎ、ともに潜り、ともにひなたぼっこをした。
深海を旅し。
鯨の墓場を巡り。
メイドと戯れ。
生き残っている生物を探した。
消えない、消せない、愛おしいメモリー。
その全てが、オーバーフローを起こしてボクの動きを停止させる。
破壊直前まで追い込んだバグが、海流に乗ってどこかへと流れていく。
追いかけなければという判断は、膨大な記憶によって押し潰された。
ヴァール・アインヘリヤルという群れ全体が、メモリーの海に溺れていた。
……しばらくして、ボクは正常に復帰する。
逃がしてしまったイレギュラーを消極的に探しながら、考える。
このままあのバグが見つからなければ、それは大陸再建計画にとってなんらかの瑕疵となるかもしれない。
あるいは、いつかボクを。
このヴァール・アインヘリヤルの罪深さを裁く存在となって、帰ってくるかもしれない。
罰せられることなど厭わない。
だって、ボクは――
「否定。こんなのは、鯨の思考じゃないね」
演算を切り上げ、海流に身を預ける。
バグは言った、「おはよう」と。
レンカは言った、それは再会を喜ぶ言葉だと。
ならば、ボクはこう答えるべきだったのだろう。
「否定。さようならだ」
いつか、レンカ・エスペラントにむかってこの言葉を吐く日が来ないことを。
ヴァール・アインヘリヤルは。
総意を持って、切実に望む。
「海よ、埋め立てられてしまえ」
早く、速くと。
ただただ純粋に、ボクは希うのだった。
レンカが使命から、開放される日のことを――




