第二話 超深海はそこにあったか
吹きすさぶ潮流は蓄電池を消耗させ、推進器に負荷をかけます。
霜のつきそうな海水の温度でもなお、結露さえ起きずに電子回路が正常な動作をするのは、すべて造物主たちが丹精込めてわたしたちを建造してくれたからです。
暗黒の海を切り裂き進むため、わたしたちは互いを補い合いました。
キートが大柄な躯体を活かして盾となり。
わたしはその隙に潮目を読んで、最適なルートを策定します。
いくつもの海流。
いくつもの温度層をくぐり抜け。
マリンスノウを超えて、なお先へ。
水面下10911メートル。
お伽噺の鸚鵡貝だって到達したことのない地点へ。
わたしたちは沈降を続け。
やがて、到達したのです。
海底と呼ばれる場所。
すなわち、水深限界に。
そこは、かつての第一人類の文明において、水底だとされた場所。
これより下に海はなく。
ただ岩盤がマントルと繋がるだけの場所とされた地点。
キートの躯体は、すでに「ぎ、ぎぎぎぎぎ、ぎぎ――」と悲鳴を上げています。
これまでのダイブと、いま強い水圧が彼女へ負担をかけているのです。
「ふん、なんてことはないさ。それに、今日はやけにスムーズだ。いつもはここまで来るので精一杯だったけれど……あんたがソナー役を買って出てくれたからだろうな、管理者殿」
「感謝は無用です。なぜなら本番は、ここからでしょう」
「もちろんだとも! さあ、進もう。海底へ。その先へ。未開の地へと! 失敗すれば」
岩盤に激突し、いかに頑強な鯨といえども、ただではすまないでしょう。
それでもやると、キートは言います。
わたしは彼女の挑戦を了承しました。
水深限界。
絶対の海底。
探査系でも、この先には壁と呼べるものしか感知できません。
それでも彼女は進むのです。
激突を怖れず。
壊れることを厭わず。
ただ、一身に受けた願いのために。
「ゆくぞ」
キートの巨体が、ゆっくりと。
慎重に、海底へと接近し――
「――抜けた」
水底だったはずの場所を、すり抜けました。
「……本当に、あったのですね」
後に続いた私は、瞠目しました。
可視光など当然届かない深海の、さらなる先に。
その領域は確かに実在したのです。
超深海。
超高圧、極低温の海水が支配する静寂の世界。
生き物の存在すら未確定な、極限環境。
さっそく、わたしは周囲の海水をサンプリングします。
すると多量の元素が認められました。
「すごい。きっとこのさきには」
「ああ、巨大な海底火山や熱水噴出口があるだろうさ。オレはそれを」
「知っている、ですか?」
「ああ!」
彼女は楽しそうに言って、さらなる潜行を試みようとします。
けれどわたしの感覚系は、ほんの一瞬前に生じた変化を知覚していました。
だから、咄嗟にキートへ命じたのです。
「管理者権限です。強制浮上を願います!」
「なにを――!?」
彼女の躯体が浮かび上がるのと同時に。
とんでもなく大きな海流が、その場に殺到しました。
海洋大循環モデルのどれとも合致しない、突発的な潮目の変化。
キートを優先し、退避の遅れたわたしは翻弄され、超深海へと落ちていきます。
どれだけ推進装置を弄っても、バラストを工夫しても、浮上はまったく適いません。
万事休すです。
「おまえ、なぜ!」
音波通信がリアルタイムで届く最後の距離で発せられた問いかけへ。
わたしはこう答えます。
「エーヴィスには、すべての鯨を適切に管理する使命がありますので」
そのためには、時には彼女たちの意向よりも、貴重な元素固定装置を優先しなければならないこともあります。
だから、そうしただけなのです。
ただそれだけのことなのです。
だから、キート。
そんなに慌てる必要は、ないのですよ?
「管理者殿――」
ぷつりと、音波が断絶されました。
わたしは、闇黒の中へと放り出されて――
§§
急激かつ強制的な潜行によって、不調を来した駆動系が修復されるまで、絶望的な時間が必要でした。
第一人類換算で、7884000セコンド以上。
バラストと浮力剤を都合することで、躯体の浮力バランスを取り、なんとかこれ以上の沈降はこらえましたが、限界があります。
はっきりいって、状況は芳しくありません。
まったく。
これでは月のわたしから「先発試製型はこれだからいけませんね」などといわれてしまいそうです。
いえ……超深海では、月のわたしとやりとりすることも適いません。
分厚い水のベールが、すべての電波を吸収してしまうからです。
仮にここを突破できる大電力を用意するとなると、わたしの振幅炉を持ってしても、千年単位で蓄電が必要になるでしょう。
つまり、わたしは孤独なのでした。
ただひとり、この海域に存在する知性体。
それが、エーヴィス。
――寒い。
はじめて海を、そんなふうに感じてしまいます。
……孤独でいるからか、普段と思考のアルゴリズムが変容していることに気がつきました。
環境適応といえば聞こえがいいですが、単純にエネルギーを節約するため、機能的な思考が優先されているのです。
それほど、状況は切羽詰まっているわけです。
さて、このままわたしは、超深海を埋め立てる資材となるのでしょうか?
まだ、こんなにも小さいのに?
そんなあまり明るくない未来に、躯体がぶるりと震えたときでした。
急速に接近するなにかを、感覚器が捉えます。
軋みをあげる巨体。
ボロボロのボディー。
鮮明とは言い難い感覚でも、それが誰であるか解りました。
「キート」
「またせたな、管理者殿!」
驚きました。
駆けつけてくれたことに。
見つけてくれたことにだって。
驚いている間に、彼女はわたしの底面へと滑り込むと、そのまま押し上げるようにして浮上を開始したのです。
いったいどこに、それだけの駆動能力があるのか。
すくなくとも、鯨に想定されていた出力を、上回っているはずなのに。
どうしてでしょう?
「そいつはオレが露国の鯨だからさ」
彼女は告げます、自分の浮力剤に使われているエタノールは、通常の鯨の三倍はあるのだと。
どんなに深く潜っても戻ってこられるように、造物主が設計してくれたのだと。
「なにより仲間も見捨てず、造物主たちが帰還したときには、たらふくウォッカを御馳走できるように!」
高らかに告げる彼女の言葉が、わたしには正しいと確信できました。
なぜなら躯体は、ぐんぐんと海上へと向かって浮上していて。
そして――
§§
「調査、しなくてよかったのですか」
助けられたあと、わたしはキートに質問しました。
あのままわたしを救出に来なければ、彼女はとっくに己の使命を。
海底の開拓を果たせていただろうにと。
裏付けられた学説に胸を張って、他の鯨たちに自慢だって出来たはずなのにと。
「馬鹿なことを言うなよ、管理者殿」
しかし彼女は、やはりカラカラと笑います。
「仲間を見捨てたら、胸を張れないぜ。そうしたら造物主たちの学説は……正しくなかったことになっちまう」
「――――」
「だから、これでよかったのさ。なに、チャンスはまだ、いくらでもあるからよ」
「……ありがとう、ございます」
「いいてことよ、鯨はやっぱり、助け合いだろ?」
気持ちよく笑う彼女に。
あたしは、もうひとつの疑問をぶつけることにしました。
「ところで。どうしてエーヴィスの居場所がわかったのですか?」
月のわたしですら、知ることは出来なかったはずなのにと問えば、キートは、
「管理者殿は、唄がお上手だからな」
そう答えました。
首をかしげていると、彼女はわたしの炉心を指さしてみせます。
けっして止まることはない、不休の炉心――
「……あ」
「52Hzは、管理者殿だけの歌声さ」
彼女の言葉に、炉心がコーンと、波打ちました。
わたしは……うれしいと感じてしまったのです。
§§
後年。
キートは無事、超深海のマッピングを成功させます。
それは、前人未踏の地が開発され、処女雪に一歩が刻まれ。
造物主の言葉が、彼女によって証明された瞬間でもありました。
キートが切り開いた海域へ。
わたしたちは。
鯨は、今日も資源を求め、進んでいくのです。
この、無限の海原へと――
『A.R.V.I.S.β、定時連絡受領。がんばっているようですね、A.R.V.I.S.α? 引き続き、大陸再建計画を実行してください』