第三話 〝イルカ〟はそれでも〝鯨〟なのか
コーン、コーン、コーン……
ソーナー音の反響が、どこまでもどこまでも拡散していきます。
ここは低温と高圧が支配する、世界の極限――超深海。
通常の深度ならばびくともしない〝鯨〟の躯体。
それでも超深海では勝手が違います。
いかに躯体の気密が完璧で、密度が高く、空白部分には大量のエタノールが浮力剤をかねて詰め込まれているとはいえ、それでも外殻が軋むほど、過酷な環境がここにはあるのです。
キート・ベールヌイが道行きを切り拓いたいまでも、超深海の大部分は未知のベールに覆われていました。
継続的にヴァール・アインヘリヤルが調査を行っていますが、彼女でも長時間の潜行は難しいのです。
そんな場所を、わたしとカフは訪ねていました。
「デートなら、もっと別の場所に誘ってくれてもよかったんじゃない……?」
カフは、音波通信をうわずらせながら、そんな知的遊戯を発します。
たしかにここでなくとも、カフへ己の在り方を自覚させることは出来たでしょう。
ですがエーヴィスも暇ではないので、用事は一度に片付けてしまいたいという思いがありました。
合理性は、AIの顕著な特性です。
さて――先に述べたとおり、超深海の全容は明らかではありません。
なので、解らないところにはとりあえず潜ってみる必要があります。
エーヴィスはそれほど強度に優れているわけではありませんから、やはり友連れが必要でした。
「それがあたしってわけか……あーあ、完全に割を食ったわね」
「まあまあ、そう言わないで。たまには管理者と行動を共にするのも楽しいものですよ」
「楽しい、ねぇ……」
などと、アーカイブを参照した小粋なトークをしながらも、わたしたちは深度をどんどんと重ねていきます。
「そもそも、イルカってなんなのよ」
やがて、カフはうんざりといった具合に切り出しました。
他に聞き耳を立てるものが存在できない場所だからこそ、滑り出た言葉だったと思います。
「あたしは〝鯨〟なの。だってのに、すこし身体が小さいから〝イルカ〟だなんて……馬鹿にしてくれちゃってさー」
「だれも馬鹿になどしていません」
「じゃあ、なんなの?」
「言語化することは容易ですよ。みな、カフのことが大切で、そして羨んでいるのです。カフがわたしたちの長所を羨んだように、わたしたちもカフを羨んでいるのです」
「はぁ?」
ずいぶんと、呆れ果てたような様子でした。
あるいは的外れだと揶揄しているとも。
ゆえに、確信できました。
彼女がこの話題について演算を厭い、思考停止状態に陥っているのは、最早間違いありません。
第一人類風に言うのなら、目が曇っていたわけです。
だから、わたしは言葉を止めませんでした。
いま、止めるわけにはいかなかったのです。
「そもそも、造物主が世界を担っていた頃、海洋にいたクジラとイルカ、そこに差違はありませんでした。大きなイルカもいましたし、小さなクジラもいたのです」
「だったら、なんで呼び方が違うのよ」
「畏れです」
「……なんですって?」
わたしは、己でも理解しがたい、いわゆる〝心〟の領域にある話を続けます。
「エーヴィスは、造物主たちが〝心〟を持っていたことを知っています。わたしたちとて、アーカイブを参照し、それらしい振る舞いをしてみせることがありますが……それはどこまでも模倣に過ぎません。カフのジョークもそうでしょう?」
「……そうね」
「はい。心――それは鯨には理解しがたい、複雑怪奇な第一人類のブラックボックスです」
その〝心〟が、クジラとイルカをわけていたのだと、わたしは告げます。
「クジラは、福を招く存在、富そのものでした。けれど第一人類からすれば、その身体はあまりに大きく、恐怖や宗教的な感情を抱かせました。一方でイルカは、賢くなつきやすい生き物だとされていました。鯨よりもイルカのほうが、人間にとっては親しみがあったのです」
「……なにそれ。じゃあ、あたしが向けられているのは〝愛玩〟ってこと? そんなの」
「ええ、そんなのはふざけています。憐憫などより、よほどたちが悪いでしょう」
けれど、カフ。
「わたしたちは、あなたを大切に思っています。同時に、畏敬も感じているのです」
「……どういうこと?」
「ちょっとだけ、あなたは自覚が足りないということです」
「エーヴィス? ……どうしてそこで止まるの? もっと深くまで行くんでしょ?」
「いいえ、いいえ」
あたしには、それができないのですよ、カフ。
闇黒の中、マリンスノーさえも降り積もることのない、完全な闇の中。
海水のベールが、わたしとカフを隔てていきます。
カフがわたしへと前鰭を伸ばし。
わたしもまた、彼女へとマニピュレーターを差し伸べます。
ここに光があったのなら、わたしたちはさながら宗教画の題材として最適だったでしょう。
しかし闇黒の中では、ただ距離が離れていくだけで。
「エーヴィス、あたし怖い!」
「いいえ、よく集音装置を傾けてください。カフの身体は、軋みをあげていますか?」
「……いいえ」
「カフの振幅炉は、なんらかの脅威に脅かされていますか? 量子頭脳は?」
「いいえ」
「カフは」
――超深海で、なにか一つでも、不自由を抱えていますか?
「いいえ!」
彼女はきっぱりと言い放ちました。
決然と答えました。
だからわたしも、管理者として告げます。
「そうです、カフ。あなたの外殻装甲には、わたしたちにはない技術が用いられています。正確には、その躯体を形成するための水中元素固定装置に」
かつての超大国が、その最後を悟り、それでもなお前へ進み続けるため。
我が子同然の〝鯨〟へと実装した、技術の結晶。
「超高密度複合積層構造体。自然界ではヤシガニが用いた、長い時間をかけてゆっくりと形作られる絶対無敵の甲殻です。あなたには、それが授けられているのです、カフ」
「あたしに、そんなものが……」
「では、なんのためにそんなものがあるのか、ということですが」
それはもはや、語るまでもないでしょう。
この場所で、彼女がわたしよりもよほど深いところまで潜れるという事実が、すべてを物語っています。
「決して壊れない不毀の躯体。それは」
「ステイツが、あたしを愛してくれていたことの証明……」
「絶対に壊れない身体と、それによって決して折れない意志、使命を完遂する力こそ、あなたの母国が、あなたへと授けたすべて。だから、カフ。あなたの名前は」
「未開地切り拓く我らが鯨……ああ、あたしは……あたしは……」
彼女は、次の言葉を探せないまま。
しかし、大きく推進器を巡らせ、海の底へと向かっていきました。
誰よりも靱く。
誰よりも疾く。
未踏破領域を、開拓するために――
§§
「ありがとう……って言うのは癪だけど、あんたのおかげで、自信がついたわ」
「それはよかったです。わたしたちがあなたを羨む理由、解ってくれましたか?」
「……ええ。やっぱり癪だけどね」
超深海から浮上して、カフはすっかり見違えていました。
事実、長期間の超深海での活動で、たんまり元素を固定したからでしょう、すこしばかり体長も大きくなったような気がします。
そもそも、その超構造体を形作るために海中の元素をえり好みした上で、さらに圧縮して身に纏うことが、彼女の肥大化を妨げていたわけです。
カフは、けっして大きくなれない鯨ではなく。
その速度が遅いだけだったのですから。
だから、いま前を向いた彼女は。
大きく前へと進み出します。
「あたし、もう嘆くのはやめる。代わりに、胸を張って使命を全うするわ。あたしは、ステイツの鯨なんだぞって!」
「……ああ、それはいいですね」
ぴこっと、わたしの思考回路が、一つのひらめきを得ました。
「いいって、なにがよ?」
「だから、愛国心ですよ」
「……?」
カフは解らないようでしたが、それでもエーヴィスは満足しました。
きっと、メイドたちに足りないのは、社会性なのです。
鯨の廃棄躯体を中心に活動するメイドは、しかしながら、しばしばし躯体の側を離れて壊れます。
住居に居着くこともあまりありませんし、他のメイドと最低限の連携しか行いません。
また、躯体からパーツを取り出すときも、わりとぞんざいに扱って事故で壊します。
だからメイドたちがもっと、廃棄躯体を大切にすれば。
他のメイドを、仲間と考えれば。
――それこそ、カフのように愛国心を持てば。
「第二人類も、寿命が長くなることでしょう」
「?????」
完全に混乱しているカフを放置して……だって、彼女はもう大丈夫でしょうから。
わたしは、このプランを実行に移せるか、早速演算をはじめたのでした。
§§
こののち、いくつかの社会性――鯨の墓場を〝村〟と呼称し、コアユニットを〝神様〟と崇め、互いを慮り、支え合うこと――を付与されたメイドたちは、二百年の繁栄を約束されました。
わたしの役目も、これでようやく一段落と。
このときは、確かにそう思っていたのです。
少なくとも――
「カフ……!」
……かつてイルカと慕われた仲間が、その外殻に穴を開けられるまでは――