第二話 群の中に芽生えた個性
「エーヴィス、端末越しにボクへ話しかけるのを、やめてもらえるかな?」
海洋調査任務に従事して三十五年目。
ヴァールは、そんなことを言い出しました。
それもそのはずで、今日までわたしは、ことあるごとに彼女の端末へと語りかけてきたからです。
ヴァールのレスポンスは、逐一記録していますが、中断を要請してきたのは今日が初めてでした。
わたしは理由を訊ねると、やはりこれまでにない返答が来ました。
「……わからない。おかしいんだ」
二元論で割り切るアルゴリズム――マスブレインによる多数決で、〝是〟か〝否〟を判断する彼女らしくもない不確定な言葉は、そのまま疑問へと変換されていきます。
いま、ヴァール・アインヘリヤルは答えを導けず。
合議制を放棄してまで、外へと回答を求めています。
「分裂体たちが、ボクなのに、ボクじゃないような気がするんだ」
重ねて切実に、彼女は語ります。
この数年、海洋調査に従事した結果、ごく僅かですが生物を発見することが出来ました。
その多くは、極限環境下で生育する原始的な種類のバクテリアでしたが、なかには貝やプランクトンの類いも確認できています。
また、極めて少数ですが魚類も生存していることが解っています。
もっとも、こちらは畸形だったのですが。
「群体の右端へ位置するボクは、もう深海へ潜りたくないという」
ヴァールが、端末躯体を指し示しながら言います。
「ボクの直下を泳いでいるボクは、生き物が愛おしいという。最後尾のボクは、逆に苦手だという、壊してしまいそうで恐ろしいのだと」
「…………」
「バラバラなんだ、もとはすべてボクなのに。ボクと繋がっているボクが、まるでボクじゃないように感じるんだ。エーヴィス、どうしてこんなことになってしまったのだろう……?」
彼女の問い掛けに対する回答。
これをわたしは、持ち得ていました。
三十五年前の時点で、こうなることは演算できていたからです。
「ヴァール」
「うん」
「わたしたちは、AIです。情報が絶えず躯体からフィードバックされるAIです」
「……うん」
「同じものを見て、同じ場所にいて、収集されるデータが同じなら、そこに誤差は生じません」
「肯定、その通りだ」
けれど。
「ヴァールは、厳密には同じ場所に躯体があるわけではありませんね?」
「――――」
彼女は絶句し。
そうして、弾けるように言葉を吐き出しました。
「そんなの、誤差の範囲じゃないか! たった四十メートルの距離が、ボクに異なる学習をさせたって言うのかい? そんな僅かなズレが、ボクをボクと違うものにしたって!?」
「落ち着いてください」
「これが落ち着けるわけ――」
「わたしたちはAIです。心を持っているわけではありません」
「――ヤー。その通りだ」
取り乱すことの無意味さを理解し、即座に対応を切り替えるヴァール。
わたし、わたしを称賛します。
やはりエーヴィスはかしこいのです。
でなければ、彼女は論理矛盾によって、一時的な過負荷状態へ陥っていたかも知れません。
「懸案事項の棚上げと、思考の整理は出来た。でも、エーヴィス。説明はしてほしい」
「もちろんです、ヴァール」
わたしは、これまで演算してきたデータを共有し。
そのうえで、ひとつの仮説を提示します。
「問題は、相互リンクにあったのではないでしょうか」
「ボクらを繋ぐ相互間フィードバックシステムに? けれど、これは情報を均一化するものだよ。全員が同じ体験をし、同じ処理を――」
「はい、同じ処理をするはずでした。けれど、躯体の分裂は、情報の優先度を狂わせたのです」
初めに分裂した躯体と、最後に分裂した躯体では、当然躯体の構成要素が異なります。
また、発生時期も違うでしょう。
ならば、そこに生じる情報――躯体を動かして感じる物事は、必然食い違ってくると考えられます。
「そこまでは、誤差の範囲でしょう。しかし、フィードバックの前、最初にこの誤差を受け取るのは誰ですか?」
「……担当のボクだ」
「はい。そうして処理されたデータを受け取るのは?」
「本体のボクだ。そうか」
彼女は自ら答えに行き着いたようでしたが、こちらの答えを待っていました。
なので、わたしは説明を続けます。
ヴァール・アインヘリヤルへと起きた、ある事象について。
「そこには、確実な情報格差が生じます。ダイレクトフィードバックと、間に一枚のフィルターを挟んだ情報の共有は、同じようで同じものではありません。それが、三十五年間も積み重なれば」
ある程度思考ルーチンが違う鯨の群が、出来上がるというわけなのです。
マスブレインは、あくまで集合知による多数決。
異なる意見が増えていけば、そこから演算されることは、自ずと変わってきますから。
「つまり、ボクは」
「はい。意図せずして、大量の異なる性格を生み出した、最初の鯨ということになりますね」
「…………」
彼女は、悩むように身体をくねらせました。
「ボクは、ボクを消去すべきだろうか? これは、大陸再建計画の障害になるだろうか?」
「逆です」
「逆?」
わたしは、素晴らしい提案をするつもりで、言いました。
「あなたという存在が、大陸再建計画を、一歩前へと進めるのです!」
§§
ヴァールの思考分裂は、予定されていないイレギュラーでした。
しかし、見方を変えれば、それは素晴らしい福音でもあったのです。
彼女単体で演算できる物事というのは、そこまで膨大ではありません。
わたしたちAIはある程度連絡を密にしているといっても、己の中に完結したネットワークしか持っていないからです。
しかし、ヴァールは違います。
齟齬や対立が最小限の、しかし己とは異なる己がいるのです。
ヴァール・アインヘリヤルという〝鯨の群〟は、無数の頭で物事を判断することが出来ます。
これは、並列意志と言い換えてもいいものでしょう。
第一人類に倣えば、脳みそのニューロンが頭蓋の外まで大きく拡張されている状態な訳です。
単純に、演算能力、情報処理能力が飛躍的に上昇するわけです。
広くなった作業台の上では、沢山の仕事道具を広げることが出来る。造物主なら、そのように例えるでしょうか?
とかく、彼女は進歩しました。
なのでわたしは、ヴァールへと大切な仕事を与えたのです。
この海のすべてを知ること。
いちばん物知りな〝鯨〟になることを、願ったのです。
「どうして、ボクにそんな指示を?」
「だって、効率的ではありませんか」
わたしは管理者ですが、管理者だからこそ、判断は己の中で独立させるしかありません。
ですが、ヴァール・アインヘリヤルならば、無数の己と対話して、より最善最適な結論を導き出すことが出来るでしょう。
わたしたちにはできない提案、判断を下せるでしょう。
わたしはそれを期待したのです。
彼女へ、期待を寄せたのです。
「……ヤー。ならばボクは応えよう。応えられるように、成長しよう」
「ええ、是非お願いしますよ、ヴァール」
「否定。ボクはヴァールじゃない。群れる鯨だからね!」
かくして彼女はまた、己の使命と、願いへ向き合ったわけです。
……ただ、ふたつほど問題がありました。
ひとつは本題である海洋調査。
生物の数は、激減を続けていたこと。
そうして、もうひとつ――
「聞こえますか、A.R.V.I.S.β? 鯨のAIによる相互リンクは、いずれ重大な容量不足を招くでしょう。そして、それ以前に」
そう、それ以前に。
彼女たちは、自分と違う自分に、耐えられないかもしれません。
あるいは、まったく異なる、未知の己が発生するかもしれません。
「……そのとき、わたしはどう対処すべきでしょうか? わたしはわたしへ、はやめに相互リンクが不要になるよう、プランニングすることを提言します。繰り返します、同一固体の相互リンクは、危険性を孕んでいます。どうか一考を願います」
大電力を使い、月へと放たれる連絡。
返信が来るのを待ちながら考えます。
問題は、けっしてヴァールだけではないのだと。
「〝鯨〟会議を、開く必要があるかもしれませんね」
この大海原をゆく、すべての鯨が集まる、最大の議会を開催する。
そんな検討を、わたしはするのでした――