第一話 海域調査の専門鯨
AIに、自我の境界線はあるのでしょうか?
そんな疑問へ、真っ正面から挑むべく開発された〝鯨〟がいました。
ヴァール・アインヘリヤル。
ゲルマンが最後の国力を投じて生み出した傑作機です。
彼女に課された使命は、とても重大なもので。
躯体が複数あっても、AIはすべてを管理しうるか、というものでした。
ヴァールは他の鯨たちと違い、大陸再建計画に直接的な支援を行いません。
躯体を大きく成長させ、鯨の墓場にて座礁させる。成長した躯体からメイドを放出する――そういったことが、最上位の命令として与えられていないのです。
やらないのではありません。
優先順位が低いのです。
では、ヴァールは普段なにをしているかといえば。
増殖、しているのです。
この案件こそ、彼女が造物主から与えられた、もっともプライオリティーの高いタスクでした。
ヴァールは躯体が幼体であるうちに、コアユニットの分離を繰り返します。
ジンユー・サイチェンの一件で判明したとおり、単純な切り離しを行うだけでは、躯体は制御を失い沈没する可能性を帯びているのですが。
しかし彼女は例外的に、半径四百メートル以内であれば、分離した躯体を操縦する技術を獲得しました。
それは、分離する際、躯体側に〝自分〟の一部を残すというやり方によってです。
つまり、AIの株分け。
ヴァールはこれによって、十の小型躯体を従える〝群〟の指導者となりました。
彼女も、そして小型躯体も、どちらも〝ヴァール〟の意志を相互リンクで保っているため、その動きは一糸乱れぬものです。
いうなれば、合議制集合頭脳とでも呼ぶべき代物でしょうか?
この副産物として、彼女は多面的思考を手に入れました。
多くの同一の意志が、常に物事を多角的に判断するという代物です。
さて、彼女はこの特性と〝群〟を使い、ある任務を実行へと移します。
それが、海洋調査。
この海に、いまだ生物が残存しているかの探求です。
「旧海底と新たに海底となった場所の調査、ですか」
「肯定。生物がいるとすれば、そこだとボクは判断するよ」
なるほど、彼女の言うことはもっともです。
もとから海底であった場所には、環境の激変に耐えた生物がいるかもしれません。
そうして、新しく海底として広がったフィールドには、環境へと適応した生物がいるかもしれません。
これは、調査が必要でしょう。
「当然、周辺海域も?」
「肯定。ヴァール・アインヘリヤルのソナーが、探知できる範囲で、観測を行うよ」
「では、早速行きましょう。造物主は言いました、時は金なりと」
「否定。海水中の金含有量はさほど多くない。大陸再建計画には不向き」
「……なかなか、大変な調査になりそうですね」
わたしは、そっと機首を振りました。
§§
/アーカイブを参照。
/適切な表現を模索。
/確定。
紫陽花色のグラデーションをした小型躯体の群が、一糸乱れぬ隊列を組むさまは、エーヴィスにも感慨と呼べるものを与えました。
大きく広がったり、小さくまとまったりしながら、海域の調査を行うヴァールはとても有益なものだと感じられたのです。
相互リンクと、数による反響の増大。
これによって、彼女が探査可能である範囲はわたしの十倍にも及びます。
放射状に展開し、広域へとソナーや光学カメラを展開する彼女からは、強い独自性――設計コンセプトが感じられます。
完璧に統制が取れた動き。
こによって無数のヴァール・アインヘリヤルが、あたりをくまなく記録していくのです。
調査の最中、いくつかの議案がわたしのなかで俎上へとのぼりました。
そのうちのひとつ、簡易に確認できることを、早速実施してみます。
群の一番外れにいる個体へと接近。
普段そうするように、ヴァールへと発話を用いて問い掛けます。
「ご機嫌はいかがですか、ヴァール?」
「…………」
「ヴァール?」
「ヤー。万事異常なしだよ、エーヴィス」
答えたのは末端の躯体ではなく、本体の方でした。
……ふむ。
わたしは一考し、思考を棚上げ。
今回の任務へと戻ります。
この調査の第一段階で、解ったことは幾つかありました。
まず、海洋汚染は深刻であり、既存の生命が生存しうる環境ではないこと。
これが明確になったのです。
組成データを比較すると、いまの海水は、旧世界の生物にとってほぼほぼ猛毒と言えました。
一方で、だからこそという可能性を見いだされます。
旧海底を探索したところ、ベントに近い環境が確認されたのです。
熱水噴出口。
地熱で熱せられた海水が、重金属や硫化硫黄を含んで噴出する場所であり、周囲には当然それらの堆積物が存在するわけです。
通常の生物にとっては、やはり毒性を示すこれらですが、一部の――例えば嫌気性細菌やそれらと共生する生物には、福音となる場所です。
つまり、旧海底には、そういった生物がいる可能性が残されていたのです。
残念ながら、第一回の調査では嫌気性細菌の一部確認されただけでしたが、しかし発見できた以上、他の生命体が生存している可能性もゼロではありません。
「引き続き、調査を行いましょう。具体的には、十年単位で」
「ヤー。同意するよ。元より長期スパンの予定だからね」
かくして、わたしとヴァールの長い海洋調査の旅が始まりました。
しかし、このときは演算されたひとつの未来としか捉えていなかった可能性が――ある大きな問題が、こうも現実になるのが早いとは。
いかにかしこいエーヴィスであっても、考えてはいなかったのです。