Inch(インチ)
「蛙がいたから驚いて、押し倒しちゃいましたと。へえー、まあ、そういうことにしておきましょう。」
変な服を着ている男は、からかうような口ぶりでそのように言った。
「そんなことよりもあんたはここに何の用?」
「あんたって、俺には吋って言うちゃんとした名前があるんですよ。」
「あんたにお似合いそうな胡散臭い名前ね。」
「吋だけに、インチキってことですか? 嫌だなあ、俺の名付け親に失礼ですよ。
……ええッと何の話だっけ? ああそうだ。なんでここにいるのかでしたっけ。その理由を話すには、小一時間くらいかかりますかねえ……。」
「端的に!」
「ハハハ、せっかちだなあ。そうですね、家出と言うことにしておきましょうか。その言葉が一番適切かもしれない。
家出をしてさまよっていたら、この家を見つけて、電気も通っているし、洗濯機もあるんで、しばらくここに住もうかと思いましてな。」
「なるほど、家出、じゃあ、あんた何歳なの?」
「15歳ですかね。」
「あんたの方が二歳も若いってことね。なんだか老け顔だし、声も若くないから分からなかったわ。じゃあ、通報しますか。」
私は白衣のポケットから携帯を取り出し、番号を打つふりをした。
「ちょっと待ってくださいよ。」
「家出少年は通報して保護してもらうわ。それに建造物侵入。」
「ちょっと、建造物侵入はあなた達もでしょう。……分かりました、何でもしますから通報だけは勘弁を。」
「……一茶、今のこいつの言葉聞いたね?」
「聞いたけど。」
「はい、今からあんたは私の助手で雑用係。逆らったら、通報だから。」
私は携帯をちらつかせて、威圧した。
「は、はい。」
「まずはこのコインランドリーを掃除しておきなさい。」
吋は怯えたまま、手に持ったレジ袋を洗濯機の上に置き、近くにあった箒を持って、床を掃き始めた。
「やることがえげつないねえ、ラムネ。」
「なんだか、この男腹が立つもの。それに、あいつが家出をしている以上これは私たちが持つ正当な権利でしょう。
さて、資本主義が出来上がった所で、私達は洗濯機の話に問題を移しましょう。一回、ワープなるものを見てみましょう。」
私は白衣のポケットからラムネ菓子の箱を取り出した。中には一本だけラムネ菓子が入っていることを確認した。
「一茶、辺か何かを持っている?」
一茶は作業着の胸ポケットから油性ペンと鉛筆を取り出した。私はどちらも取った。そして、ラムネ菓子の箱とラムネが入っているフィルムの二つに分けた。そして、油性のペンで箱に越前泡、フィルムに古畑一茶と書いた。そして、鉛筆に持ち替えた。
「おい、助手。お前のフルネームは?」
「フルネーム?」
「苗字だよ、苗字。」
「苗字……苗字か……。このコインランドリーの名前は何だっけ?」
「天晶コインランドリーだけど?」
「じゃあ、天晶 吋。」
「じゃあ、ってなんだよ。まあ、別にどうでもいいけど。いんちは漢字で吋か?平仮名でいんち?それとも他の当て字か?」
「漢字。」
「漢字な。」
私は箱の蓋の裏に濃く天晶吋と書いた。そして、一茶の頭から一本髪の毛を抜き、ラムネの箱に入れた。
「よし、出来た。この三人の名前が書かれていて、ラムネ菓子が一本入っているラムネ菓子の箱は明らかに世界、いや、宇宙で一つの代物と言っていいだろう。さらに、油性ペン、鉛筆、フィルム、紙、ラムネ、髪の毛などで構成されている。
こうすれば、ワープにどのような変化が起こっているか分かりやすい。水に濡れれば、紙やラムネが濡れ、電気を浴びれば、髪の毛やフィルムが帯電する。その他、様々な変化が見られやすくなる。これを洗濯機の中に入れる。」
私はワープ装置と思われる洗濯機の中にラムネの箱を入れた。そして、洗濯機の蓋を閉め、洗濯機の操作ボタンを見た。操作ボタンには洗濯開始ボタンと洗濯時間の設定ボタンしかなかった。時間の設定は、洗濯には珍しく、目盛りが時間、分、秒の三つがあった。
「一茶、あなたがした二回のワープをした時、洗濯の設定時間は大体何分何秒だったか覚えているかしら?」
「ええっと、秒単位では覚えていないけど、一回目は四十分くらいだったかな、二回目は五分くらいの短い時間だった気がするかな。」
「四十分で十キロ離れた所、五分で三キロ離れた私たちの学校。時間に比例して距離が延びる訳がなさそうね。それに十キロ離れたスーパーって言ったら、スーパー亀山でしょ。ってことは学校と方角もバラバラね。
……まあ、一旦、五秒くらいで設定してみましょうか。」
そう言って、操作ボタンを押して、五秒をセットした。そして、ゆっくりと洗濯開始ボタンに指を置いた。私は一つ深呼吸をして、ボタンを押した。すると、洗濯機が動き出した。洗濯機の蓋を急いで開けようとするが、ガチガチに閉まっていて、びくともしない。
そして、大体五秒経った頃に、バチバチと大きな音を立てながら、洗濯機が揺れ始めた、いや、もはや揺れすぎて、暴れ出したと表現した方が良い程だ。
そして、暴れたのも束の間、すぐに揺れは収まって、音も無くなった。私は急いで洗濯機の蓋を開けようとすると、蓋はさっきとは違って、簡単に開いた。そして、洗濯機の中を隅々まで見てみると、中に入れたはずのラムネの箱は完全に無くなっていた。
私は洗濯機の周りを見回してみるが、もちろんラムネの箱は落ちていなかった。洗濯槽にラムネの箱が入る隙間も無かった。私は洗濯槽の中に入り込んだ。洗濯槽の中は私一人が十分に入ることができる大きさで、頑張れば、もう一人私が入ることのできるくらいだった。
「ちょっとラムネ、どうしたんだ?」
「この時点で、三つの可能性があるの。おそらく、一茶の話を信じるならば、ワープした可能性が高いでしょうが、その他に、ラムネの箱が跡形もなく消えた可能性、ラムネの箱が不可視化した可能性があるの。だから、ラムネが洗濯槽の中に無いことを体を使って確かめているの。」
私は体を洗濯槽に擦りつけて、洗濯槽の中にラムネの箱がないことを確認したが、ラムネの箱らしきものの感触はなかった。体は洗濯槽に付いた水が私の服を濡らしただけだった。ただ、私の髪の毛が洗濯槽に向かって、全方位に引っ張られていた。かなり強い静電気が残っているということだ。さらに、熱を発していたのか結構温かい。
私は洗濯槽の中から飛び出すと、そのまま、コインランドリーを飛び出して、外を見回してみた。目を凝らして、頭を振り回すと、私たちが登ってきた道とは反対側の一本道に小さな箱が見えた。私は急いで、その小さな箱に近づいた。
その箱には越前泡と書かれていた。間違いなく洗濯機の中に入れたものだった。外側に変化はなかった。なので、中を取り出してみると、ラムネが一本入ったフィルムが入っていて、これと言って変化はなかった。しかし、一つだけ不思議なことがあった。髪の毛とフィルムが静電気でくっついていないことだ。
洗濯槽のあの静電気からして、ラムネのフィルムと髪の毛が帯電し、フィルムと髪の毛がくっつくはずだ。しかし、フィルムと髪の毛が一切静電気は起こっていなかった。
ここから分かることは、洗濯槽が静電気を帯びる前にラムネの箱がワープしていたか、ワープによってラムネの箱から静電気が消えたか、洗濯機の中でラムネの箱を静電気から守るものがあったかの三つだ。
それに、ここからコインランドリーまでニ、三百メートルくらい離れているし、スーパーや学校とは全く違う方向にワープしている。まず、時間ごとにワープする距離の伸びは小さくなっていっている。そして、高さは変わらないが、方角はでたらめで、完全にランダムな可能性はあるが、法則性はまだ見いだせない。
私は口に咥えたラムネを噛み砕いた。その後、私は山積みになった数々の疑問を頭の中で整理して、今まで蓄えた知識を当てはめていった。
「おーい、ラムネ、急に走り始めてどうしたんだ?」
私を追ってきた一茶の方を振り向いた。そして、手に持ったラムネの箱からラムネを取り出して、口に咥えた。
「さっぱり分からない。」
そう言って、私は微笑んだ。