6.この少年、できる子なのである。
あれ? 僕は何を聞かされているんだっけ?
ニックはつい先ほどプミラムとお茶をしていた頃に感じた様な、それでいてかなり異質な違和感に気付かないふりをした。
ニックがムーンリットの執務室に呼び出されて、ちょっとビビって泣いて、それから甘いミルクで落ち着いてからしばらくの時間が経っている。
未だニックは通常業務に戻ることはなく、目の前のムーンリットもまだ仕事があるような事を聞いた気がするが全く気にせず紅茶を飲んでいる。
ソファーにかける姿は優雅で気品があり、所作一つとっても美しい。
黒い睫毛が伏せられ赤いルビーのような瞳が隠されるのに、ニックはほうと溜息を吐きそうな思いで見惚れていた。
「好きな菓子は」
「……?」
「彼女の好きな菓子は分かるか」
「あ、は、はい。えっと今日はギモーヴがおいしいとおっしゃって、さむいきせつにはホットミルクにうかべてみたいと……」
「ふむ」
先ほどから、このまるで尋問のような質問責めに合っているが、その内容は至って平和だ。
鼻をかんでもらった時にニックの緊張はすっかり解けており、よく考えればあのプミラムが慕う方なのだから優しい方なのも当然だと納得も出来た。
実際はニックのその信頼は若干行き過ぎで、ムーンリットは本来身内だろうが子どもだろうが容赦の無い性格だ。
かといって敵でもない者を手荒く扱う訳ではないので、開き直ったニックを見て子どもによく泣かれる身としては話しやすい子どもだなと内心感心していたりするから結果オーライだ。
「あ、あの」
ニックは素朴な疑問を口に出してみることにした。
「どうして、おくさまのおはなしばかりきかれるのですか……?」
「どうして」
表情の変わらないムーンリットが、わずかに目を見開くのが分かった。
ニックは突然まっすぐ視線を向けられたじろいだ。
顔がいい。
「どうして、どうして、か」
何事か琴線に触れたらしいムーンリットが、珍しくやや前のめりになった事に、この場にハントが居れば気が付いただろう。
しかし哀れな子羊ニックは気付かない。
主人の顔の良さにたじたじなまま、彼が口火を切るのを許してしまった。
「どうしてなど、決まっている。我が妻の事を知りたいと思うのは当然だろう。彼女は私に全てを与えてくれた。彼女は私の全てだ。生きる意味であり、欲望の全てであり、不可侵の聖域だ。絶望の淵にいた他人でしかない私を受け入れ、慰め、救い出してくれた女神に等しき存在。我が妻とはいえ、私からしてみれば未だ信じられぬ現実であり、私が彼女を娶ったからといって自由に出来るなどとは到底思ってはいない。彼女の心も体も彼女のものであり、私を含めた誰も、女神ですら独占して良いものではない神聖なものである。唯一であり至高である彼女の考え、好み、望み、それら全てを把握しようとすることすらおこがましいが、彼女に与えられた私を構成する全てのうちのほんの一部でも彼女のために使えるのならそれこそが私の傲慢な望みでありたった一つの彼女へ報いる手段でもあり────」
ニックは、目と口をぽかんと開いて固まっていた。
それはさながら宇宙工学を解いて聞かされる猫の顔。
世界の真理を聞くその瞳は一見宇宙の神秘を見つめているようで何も見えていない。
宇宙猫。
そんな顔をしていた。
「こうしゃ、こうしゃくさまは……」
実はムーンリットの口上はまだ続いていたのだが、もはや右から来た言葉を左へ受け流すことで精神を保っていたニックは不敬なことに言葉を遮る形で発言した。
「こうしゃくさま……」
「なんだ」
そんなニックにムーンリットは気分を害された様子は無い。
むしろ結構早い段階でハントやセバスが聞いてくれなくなったノロケのような何かをこう長々と人に話せる機会は貴重で満足感すら感じていた。
相変わらず無表情だが。
基本的にムーンリットはプミラムがいかに素晴らしい女性かという事を世界中に知らしめたいと常日頃から思っている。
呆然としているニックはパニックに近い頭の回転をそのままに、自身が何を言おうとしているかも分からないまま口から言葉を垂れ流した。
「こうしゃくさまは……、おくさまを……、すき……?」
だってニックはつい先ほど、プミラムと話したのだ。
プミラムがこっそり教えてくれたのだ。
ムーンリットはプミラムを慈悲の心で以て救ってくれた聖人なのだと。
過去の小さな恩を返しきれない大きな恩で返してくれた人なのだと。
だというのに、なんだ。
ムーンリットはまるで別人のように饒舌にプミラムを称賛するではないか。
『よくぼう』だとか『しこう』だとか難しい言い回しが多くてニックには分からなかったが、プミラムの語った夫婦の関係性とは随分乖離して思えた。
ニックが知らないだけで、世の中の夫というのはこんな風に熱烈に妻を想っていて、それを表面に出さないだけなのだろうか。
ニックがこの世の恐ろしい可能性に思い至りそうになった時、ぴたりと言葉を止めていたムーンリットのつぶやきが落ちる。
「私がプミラムを好きかどうか、か」
やけに重さを持ったその言葉の続きが出ないことに、ムーンリットが肘をついた手の甲に頬を預け実に美しい姿で目を閉じ考え込み始めたのを見て、ニックはこの夫婦が特殊なのだと勘づき始めた。
不幸中の幸いである。
幼い少年の常識は守られた。
すぅっと、ゆっくりとムーンリットの瞼が持ち上げられ、伏せられた目線のままで呟いた。
「自身の感情すら分からぬとはな」
ほら、特殊だ。
ニックの思いは確信に変わった。
ニックは今、完璧な公爵の、"そうじゃない"一面に気付いた数少ないうちの一人となった。
あとでハントとセバスがいい笑顔で迎えてくれることだろう。
「デート」
「?」
「デートを、されてみてはいかがでしょうか。おたがいを知るにはデートがよいと、ドロシーが申しておりました」
ごめんなさい、ドロシーさん。
ニックは謝る。
若いメイドのドロシーは恋の話は好きだが恋人が居た経験は無いらしく、いつも友人の話や恋愛小説に出てきた話をさも恋愛熟達者のように語っている。
幼い見習いの自分にも優しくしてくれるメイドを引き合いに出すのは申し訳ないとは思いつつ、ニックは主人夫妻を思って口を出した。
この少年は、賢かった。
今日、夫人プミラムから秘密の吐露をされ、夫ムーンリットから崇拝でもしてるんですか? と思える美辞麗句を聞いて思ったのだ。
この夫婦、相互理解が必要だ、と。
それに。
(めがみさまでもどくせんしちゃだめっておっしゃるのに、おくさまはこうしゃくさまのおくさま)
それは八歳の少年でも分かる矛盾。
(おくさまのしあわせのためにも、ぼくががんばらなくちゃ!)
そうこの少年、かなりできる子なのである。




