5.見習いの少年は奥様と楽しくお茶しただけなのに、呼び出されてガクブルなのである。
「ぼ、わたくしは、おくさまとだんなさまみたいなごふうふに、あこがれます!」
あれ? 僕って、ここでこうしていていいんだっけ?
エピフィラム家で見習い使用人をしている今年八歳のニックはふと我に返った。
今日もいつも通り朝の仕事、昼の仕事を終え軽いまかないを昼食にいただき、それから午後の一番の仕事として女主人プミラムへの伝言係をまかされて彼女の部屋へとやってきたニックは、まるっきり自然な流れでプミラムとの二人きりのお茶会の席に居た。
基本的には昼に与えられる食事の時間以外、ニックのような見習い使用人にまとまった休憩時間など無い。
けれど、今こうして業務時間中の真っ昼間だというのにニックは甘い香りのするお菓子がたくさん並んだティーセットを目の前に、柔らかなソファーにクッションに埋もれるようにして座っていた。
プミラムが嫁いできて以来なぜだか度々開催されるこの二人っきりのお茶会に、もはやニックは慣れ始めている。
ニックは現実味があまり無い、けれど甘くて美味しくて温かくて、公爵夫人などという天上の存在であるプミラムを自分一人が独り占めできるこの時間が生きている中で一番の幸福だと思っていた。
「ふふ、ニックはおませさんね」
「おませ……?」
「大人びているってこと。うーん、からかうニュアンスもちょっとだけ?」
「!」
テーブルの向かいに座ったプミラムに言われ、ニックは思わず「おくさまっ!」と声を上げた。
プミラムはたびたびこうしてニックを揶揄う。
それは意地悪のようで意地悪ではなく、ニックは気恥ずかしい気持ちになりながらもそんなやり取りが決して嫌ではなかった。
それは、両親の居ないニックから見てプミラムが絵に描いたような理想的な母の姿そのものであり、そんな彼女が自身を我が子のように慈しんでくれている時間だと感じているからに他ならない。
ニックの反応を見て嬉しそうに笑うプミラムは持っていたカップを置くと両手を頬に当ててニックを見ている。
「ニックったら本当に可愛いわ。そうね、ニックが将来結婚したいと思った時、私と旦那様のような関係になりたいとそう思ってもらえるような夫婦になれたらって私は思っているかしら」
「……今のままではいけないのですか?」
それではまるで今のままではいけないような言いぶりだ。
ニックから見て、聖母のように温かな優しさを持つプミラムと、魅力的で人々から畏怖されながらも頼られている公爵ムーンリットが並んだ姿は理想的でこの上無いと思えるほどだった。
しかしプミラムは彼女にしては控え目な笑みを浮かべる。
「まだ、私は施しを受けているようなものだから」
それから「こんなのニックにだけ、秘密よ」といたずらに言った。
意外だった。
プミラムがムーンリットに対して引け目を感じているような言い方が。
ニックから見たプミラムはいつでも堂々としていて、穏やかでたおやかで、貴族の頂点たるムーンリットにも物怖じせず発言するそんな人だ。
そんな彼女が抱える影の一端を見たようで、ニックの胸に今まで灯った事のない火がぽっと点いた。
"力になってやりたい"。
たった八歳の、親もいない子どもが何をと思われるかもしれないが、ニックはただプミラムを守ってやりたいような、そんな使命感に似た感覚を覚えていた。
そんなニックの様子には気付かないらしいプミラムは「ついでだから聞いてくれる?」と気弱にも見えそうな顔でニックに菓子を勧めながらぽつりぽつりと己の気持ちを吐露する。
プミラムもニックと同じく親を知らない子どもであった事。
教会で育てられ、女神に祈りを捧げる姉妹をしていた事。
そんな時に礼拝にやって来たムーンリットと知り合い、母を亡くしたばかりだったムーンリットと互いの境遇を分かち合った事。
ニックはそんな話を聞いて感心した。
公爵夫妻の繋がりが二十年は前から続いていたその事実に。その奇跡に。
若いメイドであるドロシーが知れば『なんてロマンティック!』と頬を真っ赤にする姿が簡単に想像できた。
しかし、プミラムはそこで突然結論に至る。
「だからね、旦那様は私の事をその深い慈悲の心でもって救い出しここへ置いていてくださっているの。いつかその恩に報いることが出来ればと思っているのよ」
そうだったのか。
ニックはまるで頭の霧が晴れるような気持ちでその言葉を聞いた。
旦那様は確かにお優しいと思う。
貴族の血を引くとはいえこんな何も持たない自分を邸宅へ受け入れてくださり、教育を施してくださるばかりかお給金すらくださる。
きっと旦那様は幼い日に母上様を亡くされたお心をプミラム様に癒されたのだろう。
そんなプミラム様を大事に思い、そしてエピフィラムに迎える事にしたのだろう、と。
両親の居ない寂しさをこうして埋めてもらっているニックには、そう考えただろうムーンリットの気持ちが分かる気がした。
「ごおんがえし、できると良いです、ね」
「ニックは応援してくれるかしら」
「はい!」
再びプミラムの表情が明るくなり、ニックは自分もこうして世話になっているエピフィラムのご夫婦へのご恩返しをしたいと思いを新たにしたのだった。
そして、何故かニックはムーンリットの執務室に居た。
「閣下、ニックの坊にまで嫉妬は見ていられませんよ」
「黙れ。話を聞くだけだ」
おかしい。
先ほどプミラムの部屋を出てからそう時間は経っていないし、今日は洗濯日和の晴天のはずだ。
どうしてたった数部屋離れただけのムーンリットの執務室がこれほどまでに暗いのか。
ニックはプミラムの部屋と同じ仕立てであるはずのソファーにすら座り辛さを感じ混乱している。
「はぁ。とにかく、話を聞いたら執務に戻りましょう。午後の仕事がたんまりあります」
「……」
「ニックの坊はイジメられそうになったら大きな声を出すんだよ」
「うえ!?」
「さっさと行け」
ムーンリットに軽口を叩いていた側近のハントは「失礼いたします」と言って出て行ってしまった。
ふ、二人きりにしないでほしい。
ニックの本心だった。
本当に珍しい事だった。
ニックは六歳の頃からエピフィラム家に世話になっているが、この二年でムーンリットに呼び出されることも二人きりになることも初めての事だ。
呼び出された時は何事かと思い飛んできたし、そうして座れと言われたソファーは何故かひたすら居心地が悪かった。
というか、部屋に満ちる緊張感のようなもののせいで息苦しさすら感じそうだ。
目の前にはやたらと濃い色をした紅茶が用意されたが、ムーンリットが普段飲むものなのか砂糖などは無く、この主人が執務室で人を持て成す機会が無い中即興で用意されただろうことが窺える。
持て成そうという、その気持ちは嬉しいのだ。
嬉しいのだが。
ひたすらに居心地が悪い。
なんなら泣きそうだし、鼻水は半分出ている。
イジメられたら大声……? と、ハントが残した冗談なのか本気なのか分からない言葉が巡る。
「……」
「……ズルッ」
沈黙と、ニックがソファーに垂れさせるのだけはマズイという思いですする鼻の音が響いて数瞬、やっと呼び出した主が動いた。
「!?」
ニックからすれば大きなムーンリットは何かを手に執務机から立ち上がり、のっしのっしと近づいてくる。
実際はもっとスムーズに動いているのだが、恐怖に怯えるニックにはちょっとした怪獣のように思えているのだ。
ただでさえ暗く感じていた室内が、背の高いムーンリットが眼前まで来たことで日が遮られ暗くなる。
表情も影の中で見えないムーンリットが覆いかぶさるようにニックに近づき、そして────。
手に持っていたハンカチを鼻に押し当てられた。
「ズズッ……」
あ、いい匂い。
柔らかなハンカチの肌触りに石鹸の香り。
それからそれとは違う花の蜜のような良い匂いが鼻垂れのニックにも感じられて、急に肩の力が抜けた。
「かみなさい」
告げられた声は優しい。
「……っチーン」
意を決して鼻をかめば、一度、二度と布を当て直して拭ってくれた。
すっきりした鼻で、ニックは大きく瞬きするとムーンリットを見上げた。
くしゃくしゃと、手元で鼻をかんだハンカチを丸め無造作にポケットに入れたムーンリットはチラリと手の付けられていない紅茶に気付くとわずかに眉をしかめ、執務机に付いた鈴をチリンと鳴らす。
合図の後、たっぷり蜂蜜の入ったミルクが運ばれて来る頃にはニックの緊張はすっかり解れていたのだった。




