3.側近から見れば、妻は結構すごい人なのである。
昼食は、いつもの決まった時間よりもずっとずっと早く供された。
朝食から間もなくして昼食となったため、プミラムが「どうしましょう、まだお腹がすいていないわ」と困っていたとか。
昼食の内容は普段よりもずっと簡素で、食べ終わった後の"食休み"がメインなのだと誰が見ても分かった。
もちろん、この邸宅の主人の指示である。
まあ、当初の指示通りではなく、使用人たちが諫め、修正し、その末に至った妥協点が形になったわけではあるが。
若くして公爵の側近兼護衛を務める青年ハントはそんな風に整えられた庭の一角で主人の警護のために周囲を窺いながら思わず苦笑を浮かべた。
我が主は奥方の事となると途端に無茶をなさる。
ハントは幼い頃からムーンリットに仕えてきた。
公爵家であるエピフィラム家にではなく、ハント直属の部下として雇用された人材である。
高位の人間ほどその周囲に敵は多く、比肩する家が無く国内最高峰であるエピフィラム家では敵となるとすればむしろ血の繋がった相手である場合が多い。
そのために家にではなくムーンリット個人にと直属の部下たちが誂えられていたわけだが、幸いにして今代のエピフィラム家ではそういったお家騒動は起こらず、ムーンリットより先に生まれた長女もムーンリットの才能こそ家の繁栄のためだと推して今に至っていた。
ムーンリットが跡を継いで公爵となったことで直属である必要の無くなった部下たちの多くは公爵家預かりとなったが、兄弟同然に育ってきたハントだけは未だムーンリットの側近として直属の立場にいる。
そんなハントはムーンリットのことを誰より詳しいつもりでいた。
ムーンリットが妻を娶るまでは。
「これ……っ! 茶会でよく話題になっている菓子店のクッキーではないでしょうか! 私、食べてみたかったのです!」
「……」
「まあ、美味しゅうございます! 旦那様もいかがですか」
「……」
すごいな。
ハントは正直にそう思った。
ぐいぐい行っている。
あのエピフィラム公爵家の人間に。
あのムーンリットに。
泣く子も黙る最恐の貴族。
それがエピフィラムなのである。
その中でも、完璧と言う呼び声高く、誰もが遠巻きに畏れの対象として扱うムーンリットに、ぐいぐい行っている。
菓子を目の前にはしゃぎ微笑むプミラムはなんとも可愛らしいが、さも当たり前のように手に取ったクッキーをムーンリットに差し出してみせる行為は普通であれば「死にたいのか!?」とすぐさま止めに入りたいほど危なっかしい行いだ。
これをして許されるのはこの奥方だけだろうとハントは背中に妙に冷たい汗が流れるのを感じながらも苦笑を噛み殺した。
兄弟同然のハントであってもそんな恐ろしいことをムーンリットには出来ない。
それだけムーンリット・エピフィラムという人物は触れ難く、畏怖を抱かせる存在なのだ。
さてそんなムーンリットはといえば、はしゃぐプミラムに何か返事するでもなく、クッキーを食べるでもなく、それどころか未だ紅茶にすら手を付けずに背もたれに体を預けて黙ってプミラムをただただ見ている。
よくもまああの状態のムーンリットに菓子を勧められるものだと、ハントは改めてプミラムの心臓の強さに感嘆する思いだ。
ハントだけではない、使用人みんなが同じ気持ちだろうと思っていると、そんな和やかなのか張り詰めているのか分からない状況でおもむろにプミラムが腰を上げ前のめりになった。
「もう! 旦那様、お席が遠いです! ほら、食べてみてくださいな」
「ぐ」
つ、つ、つ、
突っ込んだー!!
席から腰を浮かせたプミラムは何を思ったか、差し出していたクッキーをそのままテーブル越しに座るムーンリットの口目掛けて突き出しそのまま押し込んだ。
ムーンリットの口から僅かにくぐもった音が漏れ、クッキーが口の中にしまわれていく。
「…………」
「…………」
沈黙が落ちた。
給仕をしていた使用人たちの顔は皆一様に青褪め、ハントは肩を震わせる。
晴れた庭を気持ちのいい風が通り過ぎていった。
(プミラム様、つっっっよ!)
ハントは大声で笑い出しそうな口を左手で必死で押さえつける。
静かになった場に、さく、さく、ごくん。と、控えめな咀嚼音だけが聞こえた。
もはや吹き出す寸前のハントは顔を伏せたかったが、護衛のためにここにいる以上視線を下げるわけにはいかない。
ハントは必死に耐えるしかなかった。
真っ青になっている使用人たちはムーンリットが次に何を言うか、何をするかと恐々としているようだが、そんな心配は全くの杞憂だろう。
「……良い味、だと思う」
「そうでしょう!」
ほら見ろ。
ハントはもうおかしくておかしくて堪らない。
腹筋までぴくぴくと震え出した。
こんなムーンリットを、一年前までハントは知らなかったのだ。
どんな強大な怪物すらその手で屠って見せ返り血の一滴すらその身に浴びることの無いムーンリットが、白く柔らかいだけの細腕で押し付けられた菓子を拒否する事も出来ず、口に押し込まれた。
受け入れた。
その時、ムーンリットがここに来て初めて紅茶のカップを口に運んだのが見えた。
その意味はハントにだって分かる。
ムーンリットは、甘いものが大の苦手なのだから。
「……ぶっ、ぶふっ」
「……ハント」
「失礼いたしました!」
ついに堪え笑いが漏れてしまい、視線も寄越さぬ主の低い声にハントはピッと背を伸ばして真面目な声を出した。
見れば、プミラムが不思議そうにこちらを見ている。
きょとんとした顔にリスを思い出してしまい、その微笑ましさにヘラリと笑いかけると今度は無言で殺気が飛んできて笑顔が凍る。
ギギギと殺気の元へ振り返ってはみるけれど、そこにはムーンリットが普段と変わらぬ感情の読めない顔で紅茶を飲んでいるだけだった。
いつも通り、信じがたいほどの美形が絵になっている。
(兄弟同然の俺にマジの殺気を向けるとか! 泣くぞっ!)
内心でハントが悪態をついていると、また柔らかな声が降ってこの場を温かな日差しの注ぐ空間へと戻した。
「今さらですが、まだ夢のようなのです……」
次話は15日日曜日の12時投稿予定です。




