1.こんな事をやっているがこの男、妻のことが大好きなのである。
例によって設定だけで盛り上がって書き始めています、すいません。
お話は出来ているので反応が良ければ続き書いていきます!ブクマや評価いただけたらとても嬉しいです。
「ハント」
暗闇の中。
冷たい石造りの部屋に、硬質な声はやけに響いた。
低く、感情を読ませない声だ。
「はい、何でしょうか閣下」
それに返されたハントと呼ばれた若い男の声はやけに明るい。
場に不似合いとも思えるその声を意に介する事も無く、低い声の主は続けた。
「片付けろ」
「お心のままに」
下された命令はたった一言。
明るい声の男ハントはそれに抑揚に応えると、去っていく主人へと黙って頭を下げる。
明かりが揺れ、一瞬だけ主人の姿が照らされた。
漆黒と同じ色の髪とやたらに白い肌。
ルビーのような赤い瞳がまるで光ったように見える。
ハントはそれをまるで夜の獣のようだと思いながら、身震いするほど美しく恐ろしい獣の背をいつまでも見送っていた。
「さ。とっとと片付けて、閣下の元へ参りましょう」
「ぐっ、う」
ずど、と。
ハントが足元に転がる頭陀袋を踏み付ければ、そこで初めて鈍い呻き声が上がった。
月の明るい夜の事だった。
その一族は、夜を溶かしたような漆黒の髪に、王国民が持つよりずっと白い肌をしていた。
双眸は宝石のようなルビーレッドで、髪と同じ漆黒の睫毛が縁取る。
古くから続く血統は"夜からの使者"という表現がぴたりとはまるような容姿をしていたが、その中でもその男は群を抜いた美貌を持ち合わせていた。
人外かと思われるほどの美しさ。
高貴なる血を持ち、完成された美と圧倒的強さを持ち合わせた彼を人々は畏れ、憧れ、敬い、そして崇拝した。
それが、エピフィラム公爵家の当代当主、ムーンリット・エピフィラムという男だった。
当主となるには若すぎる二十六歳でその座についた彼に対し、しかし盾突こうとする者はこの王国に一人としていない。
『エピフィラムは敵に回してはならない』
それが貴族の、ひいては王家ですらも心得ている絶対の不文律だからだ。
エピフィラム家、それは王国の闇。
凶悪で、苛烈で、圧倒的な強者。
幸いにして、彼らは王国のためにその力を奮う。
そんな彼らが気まぐれを起こしたその時は、王国の名が地図から消えることとなるかもしれない。
それほどの。
全てはエピフィラムの心のままに。
人々は常にエピフィラム家とその当主ムーンリットに強い畏怖と憧憬を抱いていた。
「……」
地下室から出て地下通路を進み、この邸宅の主ムーンリット・エピフィラムは音も無く庭へと出た。
前公爵が暮らす公爵家の屋敷とは別に敷地内に作らせた広い庭といくつかの棟からなる住まい。
そこが現当主であるムーンリットが暮らす現公爵一家の邸宅である。
ムーンリットは控えていた侍従に身に付けていた長い外套と帽子、手袋を外して渡すと、靴すらもその場で履き替え夜風に穢れを払わせた。
そんな動作ひとつ取っても絵画のような美しさがある。
彼に夜はよく似合った。
「匂うか」
「いえ」
黴臭い地下、そこに運び込まれていたものが放っていた血臭。
それらが既に彼に纏わりついていないことを短い問答で確認すると、すぐさまムーンリットは邸宅へと足を向けた。
未だ夜半過ぎではあるが、高く登った月の光が庭に敷かれた石畳を照らしている。
ムーンリットの闇に慣れた目にそれは明るすぎるほどで、彼は迷いなく歩を進めた。
その歩みは余裕のあるものからやがて緩やかに速度を増し、そして自然な身のこなしで駆けているのかという速度にまで速くなる。
まるで急き立てられているような歩調ではあるが、彼の顔は涼しげなままだ。
美しいご尊顔はほんの僅かも損なわれていない。
間もなくして広い庭を横断した彼は息一つ乱さず邸宅の玄関に辿り着くとピタリと立ち止まった。
以前、このままの勢いで荒々しく扉を開いたせいでその音で彼女を起こしてしまったことがあるのを思い出したのだろう。
ムーンリットは自身の逸る気持ちを抑えて使用人が扉を開くのを待っていた。
優秀な公爵家の使用人は彼の到着に合わせて間も置かず扉を開いた。
もちろん、家主がそれでも遅いと思っているだろうことは分かっていたが、その動作は慎重だ。
今は音を立てない事、彼女を起こさない事が何より肝要だとよく知っていた。
この邸宅に住まうのは、美貌の公爵ムーンリットともう一人。
ムーンリットの妻、プミラム・エピフィラム。
そして、夫婦が暮らすこの邸宅で働く全ての使用人は一つの共通認識を持っていた。
彼らが仕えるムーンリット・エピフィラム公爵は、妻にベタ惚れなようである、と。
先代より公爵家に仕える老執事セバスは夜の仕事から帰宅した主人のために扉を開けながら丁寧に頭を下げた。
「おかえりなさいませ」
「もう寝る」
主人は通り過ぎざまについでのようにそう一言。
その歩調は奥方が眠る寝室に向けて速まる一方だ
幼い頃からムーンリットを見てきたセバスだが、主人は妻をもらってからこちら、人が変わったようだと改めて思う。
ムーンリットは本当に幼かった頃を除き、どんなことにも執着しない男だった。
母親を亡くして以来笑わなくなった彼は常に無機質無表情で、美しい外見と高貴な身の上ゆえ問題にこそならなかったがその感情を汲み取るのは家族でも難しい。
声色や表情は大人になっても変わらず無機質な様子ではあったが、そんな彼が約一年前に迎えた妻のこととなると途端に変貌した。
無表情は変わらないが、妻のため、明らかに積極的な行動を取るのだ。
彼が誰かの元へ行くためこんなにも急ぐなんてと、セバスは今でも信じられない気持ちだ。
それも、ただ会いたいと、そんな気持ちだけでこうして邸宅内を駆け出しそうな勢いなのだからいっそ微笑ましく思えてしまう。
セバスは思わずその目元を緩めた。
主人は、本当に良い方と一緒になったものだ、と。
それから、うっかり熱を持ち始めた涙腺に気付いて気を引き締め直すのだった。