86 ヤー=ハーン王国を覆う影
ヴェルソイクスを発った霊媒師のレオノラが入り込んだのは、ヒエレス王国からヴィナロスへの輸送を請け負った隊商だった。隊商とは言っても小規模で幌馬車2台ほどの、行商人に毛が生えた程度のものだ。
レオノラが同行しようとするのを渋った隊商の長だったが、うまいこと丸め込んで認めさせた。
治安が良い国ならば一人で旅してもまあ安全だが、それでも長旅ならば行きずりの者同士で集団を組んで移動するのが普通である。
レオノラは往路は急いでいたので一人で移動したが、帰りは多少遅くなっても良いから安全を優先することにしたのだ。
ヴィナロス王国とヒエレス王国の中は治安が良いが、ヤー=ハーン王国内は近ごろ評判が良くない。
それは具体的に何があったという話ではなかったが、ヤー=ハーン王国内では言い知れぬ不安感や重圧を感じる旅人が多くいた。
レオノラもそうした噂は聞いていたし、往路では急いでいたこともあって気にしていなかった。しかし改めてヤー=ハーン王国内を旅すると、その異様な雰囲気に注意せざるを得なかった。
(なんだか、まるで戦が始まる前のようだね。)
肉眼に見える世界は日常と変わらないように見える。ただ、霊的な視界でものを視れば、全体的に昏く破壊的な属性に霊素が傾いているのがわかった。
(この国のおかしな雰囲気はこれだね。しかし、なんだってんだい。)
街道を行く分には、これといっておかしな所は見受けなかった。ヤー=ハーン王国の王都は大層な栄えぶりだが、一方で地方の農村や町が沈滞しているのは他国に住む霊媒師のレオノラですら聞き及んでいる。
(シケた所だね。)
それが彼女の抱いた感想だった。
その国のあらゆるものが鬱屈し、根腐れし、奇怪に捻じ曲がり、自らを傷つけながら、ドロドロになって腐り落ちてゆく。そんな精神的な荒廃の、腐臭にも似た感覚をレオノラは感じ取った。
(こんな所に長居したら、気がどうかしちまうだろうよ。)
隊商に遅れないようにロバを急かす彼女の前は、次第に白っぽくぼやけ、いつしか霧に包まれた。
ヤー=ハーン王国からヒエレス王国南部は、夏にしばしば濃い霧が発生する。
海から吹いてくる冷たく湿った空気が暖かい内陸に入ることで、霧に変わるのだ。陽は陰り、寒く、すべてが湿る。
街道にいる限り霧で道を見失うことは無いが、あまり気分の良いものでは無い。万一の事故を未然に防ぐために隊商は速度を少し落とした。
霧の重く湿った空気に混じって、まるで墓地の墓穴を開けたような悪臭をレオノラは感じ取った。
自分の気のせいかとも思い幌馬車に視線を向けると、御者も顔をしかめていた。
「旦那ぁ!なんか、臭くねぇっすかい?」
「どこかで牛馬の死体が放置されとるのかもな!」
幌馬車の雑音に負けぬ大声で、前後の幌馬車の間で会話が交わされる。
レオノラは周辺の環境霊素相がマイナスの方向、生命を拒否し、この世の理を歪める方向へ働く属性を帯びつつあるのに気がついた。
「止まりなっ!」
突然、大きな声を上げたレオノラに隊商の一団は驚いた。視線が彼女の小さな体に集まる。
「なんだい婆さん!?下か?」
「違うっ!」
レオノラは隊商の長に怒鳴り返すと、指示を出した。
「全員、死にたくなければ止まりな。なんかヤバいものがこの先に居るよ。」
「なんだい、そりゃ!?」
「まだ分からない。ただ、生きているモノじゃないね。」
レオノラは霧の向こうを“霊視”した。奥に真っ黒な人型をした、この世のものならざる存在の群れをはっきりと認識した。幸いなことに距離があり、しかも相手の動きは遅い。
彼女は相手の正体の可能性をいくつか考えて、とるべき対処法を考える。
「助けてやるから、全員そこに並びな。」
隊商の者たちは、装いからレオノラが霊媒師なのには気付いていたから素直に指示に従った。
レオノラは肩にかけたカバンから赤い岩絵の具を練りこんだ軟膏と塩の入れ物を取り出すと、並んだ順に額に十字を描き、中央に塩を擦り込んだ。
「命あるものの母 地より生まれ 血潮あるものらの 命と魂をまもり給え。」
レオノラが施したのは“悪霊からの防御”魔術だった。あまり高位のアンデッドには効果が薄いが、たいがいの霊体系アンデッドによる憑依を防いだり、それ以外のアンデッドからの悪影響を緩和する死霊魔術である。
人間にそれが済むと、幌馬車を引く馬、自分の乗っていたロバにも同じ魔術をかけて防御を固めた。
続いて、今度は古びたボウルに水袋から水を注いだ。そして先端を細かく割いた棒で表面に聖印を描いて、聖別のための祭文を唱えた。魔力を多めに消費するが、急ぐので略式にする。
「陽の神 月の神 浄き水を与えるお方よ 金のしずくが万杯 銀のしずくが万杯 このうつわに光溢るる 天の水は一切を清め申す。」
古びたボウルの水が、微かに光を帯びたように見える。レオノラはそれを例の棒を使って周辺に撒き、幌馬車や馬、隊商のメンバーにかけて回る。
いよいよ腐臭が周囲に漂い、重い足を引きずりながら歩くような音が聞こえ、霧の向こうに黒い影がいくつも見え始めた。
レオノラは聖鈴を取り出し、首にかけた念珠を手に持った。




